若い頃の話だが、笠ヶ岳は蝶ヶ岳と共に、雨天のため中途で登ることを断念した山だ。あの時、僕らは雨に濡れながら、しょぼしょぼと下っていた。下からは、片手に雨傘を持った少女が一人登ってきた。知的で清楚な顔立ちと力みのない身のこなし。山を登っているというよりは、揺らいで漂っているという感じだ。僕らは挨拶を交わした。彼女の歩みのリズムはゆったりだった。息の乱れもない。不思議な存在感があった。下山したほうがいいよ。僕の喉から出かかっていた。でも、なぜか言えなかった。僕は山の素人だった。先を歩いていた仲間がこちらを見上げている。彼女は単独登攀者だった。外貌に似合わぬその勇気に敬意を表した結果だったのか。僕はただすれ違っただけだった。足早に下山した僕らはその日山麓の温泉宿に泊まって、翌日、名古屋に帰った。勇気ある撤退だった。あの時一緒だったS氏やT君とはもう長い間会っていない。あの時擦れ違った女の子も、生きていれば今ではもう50歳を過ぎているだろうが、今はどんなリズムで登っているだろうか。
ロープウエイで空に上がる。窓から見る目の前の笠ヶ岳。何という重厚な迫力だ。体も精神も圧倒されてしまう。右に体を捻ると、見えた。あれが槍ヶ岳か。黒く尖っている。雪もかぶらず、快晴の空に槍を突き立てている。僅少ながら今でも隆起しているという。生きている間に、いや、死んでも登らねばならない。なぜかは分からないけれど、そんな思いが沸々と湧いてきた。見上げれば見上げるほど無性に登りたくなる。槍から目がそらせない。何という磁力だ。一歩一歩、地面を見ながら、何を考えるともなく引き付けられるままに登っていきたい。無念無想の境地に辿り着くためではなく。妄念から妄念へと漂い流れるだけに終わることになろうとも。この猥雑な日常では決して辿り着けないあの清浄な神域へ行くために。行方も知らず風と雲が流れ、舞い散るあの高みへ。
ホテルでは、晩飯を食べている時も、温泉に浸かっている時も、朝飯を食べている時も、僕は笠ヶ岳を眺めた。朝の笠ヶ岳は、雪面に東からの朝日の光を浴びて一際輝き、神々しくさえ見えた。2008年5月2日、平湯はまだ桜も新緑もこれからが見頃だった。
自宅を5月2日の7時に出発した。東海環状の土岐南多治見ICから入れば、郡上八幡、高山は無論、平湯に到着してもまだ昼飯時には早かった。午前11時半の濃飛バスで上高地に向かった。18年間の難工事により開通した安房トンネルを4分程度で通り抜けた。帝国ホテルで途中下車してコーヒーを飲もうか。そんな断片的な思いも木々の間に置き去りにして、結局は終点まで乗ってしまった。目の前にあるのは、思い出の中のではなく、現実の河童橋。もう7代目の欄干か。梓川左岸を歩く。野猿が蕗の薹や若木の芽を食べていた。道はじるい。「じるい」という言葉の意味が分かるだろうか。僕らの田舎で、道が雨水などでどろどろ状態になっている時に使う言葉だ。明神池到着。小一時間かかった。明神旅館で、ラベルに手書きで「明神名物 明神ワイン」と書かれた葡萄酒(1杯200円)を飲む。名物にうまいものなし。心の中で密かに唱える。バス旅行は、しかし、昼間でも酒が飲めるから嬉しい。嘉門次小屋に入る。壁面の、W.ウエストンと嘉門次とが映っている写真数枚を見る。嘉門次の服装は着物だ。あんな装束で山案内をしていたのか。それはともかく、嘉門次の堂々たる風采はどうだ。ウエストンよりも大物の風格がある。山の神と共に生きている気高ささえ漂っている。何ともうれしいことだ。小屋の右側の部屋を覗いてようやく分かった。明神池畔まで漂っていたのは、榾を燃やす煙だった。丸刈りの壮年が一人、部屋の中央の囲炉裏の火の回りに串刺しの岩魚を突き立てている。客はいない。手前には「嘉門次」のラベルの付いた日本酒の瓶が何本か並べてあった。岩魚を頬張り、「嘉門次」をチビチビ飲みたかった。入りたかったが、なぜか入りにくかった。理由は分からない。値段が書いていなかったからか。ひょっとしたら、彼は4代目嘉門次だったかもしれない。もしそうだったなら、惜しいことをした。心残りである。
帰りは梓川の右岸を歩いた。右岸側の散策路は乾いていた。河童橋に戻り、売店で地ビールを注文した。屏風のような雪山を見上げながら、瓶の口から直接飲んだ。空瓶を女の子に返すと、「おいしかったですか」と尋ねてきた。僕は「うーん、最高。一生忘れられない味だ」と答える。「一生忘れないでくださいね」そう言う彼女の瞼にはキラキラ光る銀色の紙のようなものが点状に張り付いていた。愛想のいい娘だった。やっぱり、女は愛嬌だ。
5月3日、五月晴れ。新穂高ロープウエイに乗って、北アルプスの眺望を楽しむことにした。神域に入った以上、神域を汚す俗人の言動については敢えて語るまい。目に触れても見ない。小耳に挟んでも聞かない。下手に語れば、こちらの心の清浄さも濁ってしまう。南無阿弥陀仏。僕は西穂高岳を、槍ヶ岳を、笠ヶ岳を、焼岳を間近に見る。遠くには白山が夢の別天地のように浮かんでいる。北の空に俗塵なし。東の空にも俗塵なし。西の空にも、南の空にも俗塵なし。僕が眺めていたのは幸福だった。
展望台で、写真屋が観光客を撮影する際に、「上の歯を出して、ハハハと笑ってください」と言っていた。「人生不可解」と書き残し、華厳の滝から飛び降り自殺した学徒藤村君が、あの時、この写真屋と遭遇していたらどんな顔をしたことだろう。北の空に白く輝きながら浮かぶ白山連峰が眺める人を別天地に誘うように、浮世に浮かぶ泡沫の笑いも悩める人を別天地に引き込むか。落語家の桂枝雀がよく言っていた。「面白いから笑うんじゃありません。笑うから面白いんです」と。人生は生きるに値するから生きるのではなく、生きるから人生は生きるに値するものになるのだろう。俗人は俗世で俗塵にまみれながら凡俗に生きればいい。超俗の山々は僕の耳元でそう語った。
河童橋付近で山に向かう青年一人とすれ違った。スキーを背中に背負っている。汚れのない眼鏡のレンズが光る。理知的な顔立ちだ。「スキーするんですか」僕が尋ねると、「唐沢まで歩いて登って滑ります。この時期、楽しめますよ」と彼は答えた。「歩いて登って滑る?いや、それはすごい。すごいよ」僕は感動して同じ言葉を繰り返した。僕が青年を好きになることは滅多にないが、この時は、なぜか久し振りに好感を抱いた。彼の姿に僕は40年前の自分を見ていたのだろうか。
5月3日の昼頃、国道を走っていたら、「流葉そば祭り」の幟が目についた。公民館のような施設の駐車場に設営されたテントの中で、流葉産蕎麦100%を使ったおろし入り蕎麦を食べた。600円。おいしかった。おいしいと言えば、その前に、道の駅で、炭火で焼いた串刺しの岩魚の塩焼きを食べた。500円。こういう庶民の小さな褻の喜びが本物の喜びだ。確かに、山には山の幸があった。ついでに付け足しをすれば、この小さな祭りの会場で買った山菜「こしあぶら」と「わざびな」は、その翌日の夜、我が家の貧しい食卓を久し振りに旬の味で満たしてくれた。
帰り道、飛騨ハイランドホテルの前を通った。10年程前か、ここで開催された小さなテニス大会に魔人と共に参加した。試合の後、ホテルのバーベキューハウスで主催者から飛騨牛の焼肉と生ビールをご馳走になった。何という贅沢なテニス大会だったことか。大会の規模は日本一と言ってもいいくらい小さかったが、食卓の内容は量質共に日本一と言ってもいいくらい素晴らしかった。過ぎ去らなければ、幸せなんて分からないものだ。
飛騨古川で地酒を買った後、飛騨清見ICから高速を利用。多治見には午後3時頃着いた。渋滞には一切巻き込まれないで、何とか1泊2日の小旅行を無事に終えることができた。南無阿弥陀仏。奥飛騨では清流がまさに清らかにサラサラと流れ、飛騨古川では清酒がまさに清らかにユラユラと波立っていた。さまよいつつもよくよく見れば、極楽もまた此岸にしかないのだが、逝ってしまえば、そこもまた永遠の別天地、極楽。そう思うしか道はないだろう。山の命に比べれば、・・・、いや、比べるような愚を犯してはならないのだ。
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