水の手は城のマストアイテム
城を築くさい、「水をどう確保するのか」は必須の課題でした。人が住み、活動するために必要であることはもちろんですが、城には「籠城戦」の可能性が宿命づけられています。もし、水の手がない城で籠城して、数日でも城外からの運搬が断たれるとしたら、たちまち死活問題になってしまうからです。
それでは、城内で水をどう確保していたのでしょうか? 真っ先に思い浮かぶのが井戸ですね。枯れたら困るので、井戸はひとつだけではなく、複数設けられるのが普通でした。築城名人とされる加藤清正は、居城の熊本城(熊本県)に100以上の井戸を設けたといわれており、今でも20近い井戸が残されています。清正は朝鮮出兵で過酷な籠城戦を戦っているので、飲み水を確保することに強迫観念にも似た思いがあったのでしょう。
とはいえ、当たり前ですが掘ればどこからでも地下水が湧くわけではありません。城を築くには絶好の地なのに、どうしても水が確保できないということもあったでしょう。その場合、解決策のひとつとして、城に面した河川があれば、そこから運び入れるという方法がとられました。
その例として、天竜川沿いに築かれた二俣城(静岡県)がありました。二俣城では井戸櫓(または水の手櫓)と呼ばれる専用の高層櫓が築かれ、水の運搬をしていました。ところが武田軍に攻められたさい、武田軍は川に大量のいかだを流して井戸櫓を破壊したため、城兵は開城を余儀なくされます。水の手に目をつけるとは、さすが武田軍は戦上手ですね。
城内に井戸がない場合、水路や樋によって引き入れたという例もあります。江戸は玉川上水などの水路が整備されていたことが知られていますが、神田川や水堀に懸樋(かけひ)が架けられ、そのまま江戸城内へと給水されていました。ただし、籠城戦で水路や樋を破壊された場合は一巻の終わりですので、水路や樋は補助的な手段だったといえるでしょう。
なお、城内で水を得るための場所や施設を「水の手」と呼びます。水の手のための曲輪が築かれ、土塁や石垣で囲んで守りを固めている例も少なくありません。城を訪れたさいに「水の手曲輪」「清水曲輪」「井戸丸」という水に関する曲輪名を見つけたら、ははーん、ここがこの城の水の手だったんだなと思ってもらってほぼ間違いはないです。
なんとなく想像がつきますが、山城は平城よりもずっと、水の手を探し当てるのが困難でした。城を築くにはベストポジションなのに、どれだけ探しても給水ポイントが見つからず、築城自体をあきらめたということも多かったことでしょう。補給基地や見張り台のような小さな山城では水の手がない例もありますが、ある程度の規模の山城ではたいがい、現在も井戸跡など給水ポイントの痕跡が残されています。
水の手は城の縄張り(構造)にも大きく影響しました。敵に攻められたさい、すぐに水の手を奪われてしまったら籠城戦どころではないからです。特に最後の砦となる本丸(主郭)の内側や裏手に水の手があることが理想です。
山城での水の手は、井戸だけではなく「溜め井(ためい)」という方法もありました。山の鞍部などに貯水池を設けて、湧き水や谷筋を流れ落ちる水を溜めておく施設です。土づくりだとすぐにしみこんでしまうので、岩盤を掘削して貯水池としました。
最後に、お城で井戸を見つけたら、是非その名称に注目してみてください。特別な名前が付けられている井戸がとても多いことに気づくでしょう。例えば、石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県)のメインの井戸は、「千貫井(せんがんい)」といいます。千貫(ざっと1億円ほど)もの価値がある井戸ということです。先ほど紹介した岐阜城の水の手は「金銘水(きんめいすい)」と呼ばれます。「金ほど尊い」ということでしょうか。ちなみに、山城ではありませんが、大坂城(大阪府)にも「金明水」という名の井戸がありますね。 記事・城びと 超入門お城セミナーより転載
城を築くさい、「水をどう確保するのか」は必須の課題でした。人が住み、活動するために必要であることはもちろんですが、城には「籠城戦」の可能性が宿命づけられています。もし、水の手がない城で籠城して、数日でも城外からの運搬が断たれるとしたら、たちまち死活問題になってしまうからです。
それでは、城内で水をどう確保していたのでしょうか? 真っ先に思い浮かぶのが井戸ですね。枯れたら困るので、井戸はひとつだけではなく、複数設けられるのが普通でした。築城名人とされる加藤清正は、居城の熊本城(熊本県)に100以上の井戸を設けたといわれており、今でも20近い井戸が残されています。清正は朝鮮出兵で過酷な籠城戦を戦っているので、飲み水を確保することに強迫観念にも似た思いがあったのでしょう。
とはいえ、当たり前ですが掘ればどこからでも地下水が湧くわけではありません。城を築くには絶好の地なのに、どうしても水が確保できないということもあったでしょう。その場合、解決策のひとつとして、城に面した河川があれば、そこから運び入れるという方法がとられました。
その例として、天竜川沿いに築かれた二俣城(静岡県)がありました。二俣城では井戸櫓(または水の手櫓)と呼ばれる専用の高層櫓が築かれ、水の運搬をしていました。ところが武田軍に攻められたさい、武田軍は川に大量のいかだを流して井戸櫓を破壊したため、城兵は開城を余儀なくされます。水の手に目をつけるとは、さすが武田軍は戦上手ですね。
城内に井戸がない場合、水路や樋によって引き入れたという例もあります。江戸は玉川上水などの水路が整備されていたことが知られていますが、神田川や水堀に懸樋(かけひ)が架けられ、そのまま江戸城内へと給水されていました。ただし、籠城戦で水路や樋を破壊された場合は一巻の終わりですので、水路や樋は補助的な手段だったといえるでしょう。
なお、城内で水を得るための場所や施設を「水の手」と呼びます。水の手のための曲輪が築かれ、土塁や石垣で囲んで守りを固めている例も少なくありません。城を訪れたさいに「水の手曲輪」「清水曲輪」「井戸丸」という水に関する曲輪名を見つけたら、ははーん、ここがこの城の水の手だったんだなと思ってもらってほぼ間違いはないです。
なんとなく想像がつきますが、山城は平城よりもずっと、水の手を探し当てるのが困難でした。城を築くにはベストポジションなのに、どれだけ探しても給水ポイントが見つからず、築城自体をあきらめたということも多かったことでしょう。補給基地や見張り台のような小さな山城では水の手がない例もありますが、ある程度の規模の山城ではたいがい、現在も井戸跡など給水ポイントの痕跡が残されています。
水の手は城の縄張り(構造)にも大きく影響しました。敵に攻められたさい、すぐに水の手を奪われてしまったら籠城戦どころではないからです。特に最後の砦となる本丸(主郭)の内側や裏手に水の手があることが理想です。
山城での水の手は、井戸だけではなく「溜め井(ためい)」という方法もありました。山の鞍部などに貯水池を設けて、湧き水や谷筋を流れ落ちる水を溜めておく施設です。土づくりだとすぐにしみこんでしまうので、岩盤を掘削して貯水池としました。
最後に、お城で井戸を見つけたら、是非その名称に注目してみてください。特別な名前が付けられている井戸がとても多いことに気づくでしょう。例えば、石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県)のメインの井戸は、「千貫井(せんがんい)」といいます。千貫(ざっと1億円ほど)もの価値がある井戸ということです。先ほど紹介した岐阜城の水の手は「金銘水(きんめいすい)」と呼ばれます。「金ほど尊い」ということでしょうか。ちなみに、山城ではありませんが、大坂城(大阪府)にも「金明水」という名の井戸がありますね。 記事・城びと 超入門お城セミナーより転載