御札神社【古面五面】
発掘された石塔類画像
虎口土塁(お鐘の台) 下の石塔
この石敷状の遺構は、土塁の基盤層でもある青灰色粘土層を10~15cm掘り下げた部分を地盤とし、二段に積んでいるとみられる。3.47mの長さに亘り石列があり、土塁セクション面とほぼ並行する。奥行については不明であるが同様の石積が、検出石敷の奥にも存在していることが隙間から確認できた。しかし、その全体的な規模については不明である。
今回検出した、石敷状遺構の石材は、すべて石塔の部分石である。出土石列中には五輪塔の地輪部・火輪部・水輪部、および板碑として利用されていた筑波石系とみられる石塔(下総型)、宝筐印塔の基礎部石なども含まれている。古石塔以外の集石石材はない。この石塔敷のすべてが土塁盛土に覆われている状況からみて、石敷状遺構の性格づけは今回できなかった。また、敷石状遺構と土塁構築遺構との相互関係を明らかにするためには、さらに慎重な調査が必要である。
そこで第二次の調査は本来の目的であったセクション調査のみにとどめて、検出された古石群の遺構はそのまま埋め戻した。
小括として、第2次調査の4号トレンチについては、土塁敷より重層の石塔敷遺構が検出される。土塁は版築状に積まれていた。石塔敷遺構は土塁内に延び、調査を継続することになると土塁を破壊することとなり、今後の調査手法を関係機関と協議し、進行することとした。
総括として、土塁は版築状土塁で層序ごとに突き固めた崩れにくい工法で成立している。土塁敷下からは多量の古石塔群が重層で石敷状に出土した。これら石塔群の集積する性格および石塔の年記銘等の解明は、昭和62年(1987)度以降の調査にゆだねたい。
一の曲輪北側に通称「御鐘(おかね)台(だい)」と呼ばれる櫓台もしくは大規模土塁がある。
御札神社社殿・本殿を昭和55年(1980)に改修した折、中央部を資材運搬のため、ブルドーザーにて拡幅し、崩した土砂を北側の堀切りに埋め立て、現状のようになっている。第2次調査の折、この拡幅道左右の東側を削りセクション面の測量にあたることとした。思いがけず、セクション面検出のため基底部を掘り下げたところ、石塔が並べられている遺構が発見された。その出土状況は、「島崎城Ⅰ」で述べた通りである。今次調査では、この石塔群の埋没状況と遺構性格を解明するため、御鐘台の現状遺構を保存するため、敷部のみ、現状に掘り貫くこととして作業にあたった。
発掘調査は、鉄パイプと道板で落盤を防ぐため補強しながら埋没石塔群の全容を検出した。出土状況は写真並びに図5に示した通りで、予想外に奥深くなく凡そ1mで全容が現れた。出土した石塔は、板碑2点、五輪石塔材40点であった。遺構としては、石塔を二列に並べ、中央に25cmの空間を設け、この25cmの空間天部を板碑と五輪笠石・基礎石で蓋状にかぶせる暗渠状の構築物である。確かに石塔集積は左右と天部からなる中央部が空間となる暗渠状であるが、石積左右には、溝としての穴状遺構は検出されず、水が流れた痕跡は見出せ得なかった。
以上の結果から、調査団では、石塔群集積敷の構築遺構は、暗渠状遺構であるが、排水機能は不明(すなわち未完成か、あまり使用しなかった)であるという結論に達した。
なお、これだけの石塔群が集められたことは注目されることである。石塔、板碑の造立者を考えると、島崎氏を置いて考えられない。島崎氏時代に、このような先祖を供養するための石塔を暗渠に転用することは考えにくく、天正19年(1581)島崎氏を滅亡させた佐竹氏によって、島崎城を占拠、堀之内大台城築城工事期間に構築したものと推定される。堀之内大台城は慶長元年(1596)完成したとみられることから、佐竹氏(城代は小貫頼久)は五年間島崎城にあったと考えられる。なお、堀之内大台城発掘調査では、主殿と城門礎石群はすべて、五輪塔・宝筐印塔・板碑の石塔の転用であり、今次調査のなお、これだけの石塔群が集められたことは注目されることである。石塔、板碑の造立者を考えると、島崎氏を置いて考えられない。
島崎氏時代に、このような先祖を供養するための石塔を暗渠に転用することは考えにくく、天正19年(1581)島崎氏を滅亡させた佐竹氏によって、島崎城を占拠、堀之内大台城築城工事期間に構築したものと推定される。堀之内大台城は慶長元年(1596)完成したとみられることから、佐竹氏(城代は小貫頼久)は五年間島崎城にあったと考えられる。なお、堀之内大台城発掘調査では、主殿と城門礎石群はすべて、五輪塔・宝筐印塔・板碑の石塔の転用であり、今次調査の石塔遺構と同じ転用方法である。このことからも島崎城一の曲輪を中心とした最終使用期は慶長元年(1596)もしくは文禄三年と認められる。
虎口土塁(お鐘の台) 下の石塔
この石敷状の遺構は、土塁の基盤層でもある青灰色粘土層を10~15cm掘り下げた部分を地盤とし、二段に積んでいるとみられる。3.47mの長さに亘り石列があり、土塁セクション面とほぼ並行する。奥行については不明であるが同様の石積が、検出石敷の奥にも存在していることが隙間から確認できた。しかし、その全体的な規模については不明である。
今回検出した、石敷状遺構の石材は、すべて石塔の部分石である。出土石列中には五輪塔の地輪部・火輪部・水輪部、および板碑として利用されていた筑波石系とみられる石塔(下総型)、宝筐印塔の基礎部石なども含まれている。古石塔以外の集石石材はない。この石塔敷のすべてが土塁盛土に覆われている状況からみて、石敷状遺構の性格づけは今回できなかった。また、敷石状遺構と土塁構築遺構との相互関係を明らかにするためには、さらに慎重な調査が必要である。
そこで第二次の調査は本来の目的であったセクション調査のみにとどめて、検出された古石群の遺構はそのまま埋め戻した。
小括として、第2次調査の4号トレンチについては、土塁敷より重層の石塔敷遺構が検出される。土塁は版築状に積まれていた。石塔敷遺構は土塁内に延び、調査を継続することになると土塁を破壊することとなり、今後の調査手法を関係機関と協議し、進行することとした。
総括として、土塁は版築状土塁で層序ごとに突き固めた崩れにくい工法で成立している。土塁敷下からは多量の古石塔群が重層で石敷状に出土した。これら石塔群の集積する性格および石塔の年記銘等の解明は、昭和62年(1987)度以降の調査にゆだねたい。
一の曲輪北側に通称「御鐘(おかね)台(だい)」と呼ばれる櫓台もしくは大規模土塁がある。
御札神社社殿・本殿を昭和55年(1980)に改修した折、中央部を資材運搬のため、ブルドーザーにて拡幅し、崩した土砂を北側の堀切りに埋め立て、現状のようになっている。第2次調査の折、この拡幅道左右の東側を削りセクション面の測量にあたることとした。思いがけず、セクション面検出のため基底部を掘り下げたところ、石塔が並べられている遺構が発見された。その出土状況は、「島崎城Ⅰ」で述べた通りである。今次調査では、この石塔群の埋没状況と遺構性格を解明するため、御鐘台の現状遺構を保存するため、敷部のみ、現状に掘り貫くこととして作業にあたった。
発掘調査は、鉄パイプと道板で落盤を防ぐため補強しながら埋没石塔群の全容を検出した。出土状況は写真並びに図5に示した通りで、予想外に奥深くなく凡そ1mで全容が現れた。出土した石塔は、板碑2点、五輪石塔材40点であった。遺構としては、石塔を二列に並べ、中央に25cmの空間を設け、この25cmの空間天部を板碑と五輪笠石・基礎石で蓋状にかぶせる暗渠状の構築物である。確かに石塔集積は左右と天部からなる中央部が空間となる暗渠状であるが、石積左右には、溝としての穴状遺構は検出されず、水が流れた痕跡は見出せ得なかった。
以上の結果から、調査団では、石塔群集積敷の構築遺構は、暗渠状遺構であるが、排水機能は不明(すなわち未完成か、あまり使用しなかった)であるという結論に達した。
なお、これだけの石塔群が集められたことは注目されることである。石塔、板碑の造立者を考えると、島崎氏を置いて考えられない。島崎氏時代に、このような先祖を供養するための石塔を暗渠に転用することは考えにくく、天正19年(1581)島崎氏を滅亡させた佐竹氏によって、島崎城を占拠、堀之内大台城築城工事期間に構築したものと推定される。堀之内大台城は慶長元年(1596)完成したとみられることから、佐竹氏(城代は小貫頼久)は五年間島崎城にあったと考えられる。なお、堀之内大台城発掘調査では、主殿と城門礎石群はすべて、五輪塔・宝筐印塔・板碑の石塔の転用であり、今次調査のなお、これだけの石塔群が集められたことは注目されることである。石塔、板碑の造立者を考えると、島崎氏を置いて考えられない。
島崎氏時代に、このような先祖を供養するための石塔を暗渠に転用することは考えにくく、天正19年(1581)島崎氏を滅亡させた佐竹氏によって、島崎城を占拠、堀之内大台城築城工事期間に構築したものと推定される。堀之内大台城は慶長元年(1596)完成したとみられることから、佐竹氏(城代は小貫頼久)は五年間島崎城にあったと考えられる。なお、堀之内大台城発掘調査では、主殿と城門礎石群はすべて、五輪塔・宝筐印塔・板碑の石塔の転用であり、今次調査の石塔遺構と同じ転用方法である。このことからも島崎城一の曲輪を中心とした最終使用期は慶長元年(1596)もしくは文禄三年と認められる。
一の曲輪予測図
一の曲輪発掘調査報告書
標高28mコンタ上の台地先端部,南々東を頂点とする三角形プランがⅠ曲輪である。平場は北側で東西60m,中央で南北70mを測り,面積は2728㎡である。今日の御礼神社境内で,南側に本殿・拝殿が位置し,本殿内には,古面(室町時代作・県指定文化財) 5点が納められている。
第1次・第2次発掘調査は,拝殿前方と北側虎口土塁を調査区域として実施した(後述)。土塁は南側先端部と北側の塁壁に残る。南土塁は御札神社本殿の建設(近世の段階)の折, 大きく抉り取られ、現状のような型となった。現在高さ2.5m, 槢(上幅)は最大730cmであるが、削り取られる前は上幅10mほどで櫓台を呈していたと認められる。この櫓台には、島崎城のシンボリックな建築が一例えば天守建築——存在したのであろう。(隣地にある堀之内大台域には、天守建築に相当する建築遺構が検出されている)。
北側土塁は虎口にあたる櫓台状土盛遺構と西側に延びる土塁とからなる。虎口土塁は,中央が鞍部となり,出入口である虎口であったことがわかる。昭和55年に御札神社拝殿を改修した折,ブルドーザで,この鞍部を大きく掘りさげ,東側を削りとり、車が社殿前へ登れるようにしてしまった。第2次発掘調査では,この削りさげた道路東側の壁面のセクション検出作業を実施,土塁基底部より古石塔群の集石状遺構の出土をみた(後述)。なお,昭和55年の削り去った土砂は,土塁外側の堀切に敷いて,虎口鞍部まで車があがれるように道路スロープをつくった。従って,旧土塁斜面は、虎口西側斜面にみられるが,敷部は,やはり遺構面を掘り下げている状況なのである。
この虎口土塁を地元古宿の人は「お鐘の台」といって,時報や登城合図を知られた鐘が吊ってあった、と伝承する。現状で土塁は高さ2.5m,楢部は東側で4m×2.6m, 西側で5m×3 mの平場を形づくる。いずれも櫓台状の形状を呈し,伝承の鐘を吊った櫓が存在した可能性は充分考えられる。虎口外側は、前述した堀切で,実効堀幅20~25m (上幅17~20m), 深さは現状でI曲輪側4m, Ⅱ曲輪2m~2.5mを測るが,前述の工事で客土をもって埋めたてられ,旧状は不明である。
虎口土塁の西側に高さ1~3mを測る土塁がめぐる。残存土塁は西側に延びるにつれ保存状況は良く,虎口土塁との接続部は,かつての御礼神社への参道(昭和55年の道路工事以前)にしたため消滅している。残存状況の良い西側土塁は,丘つづきで西1曲輪と自然地形でつながっていた部分を掘り切った上部にあたり,いわゆる出隅横矢となる。
西側土塁の塁壁外側は、行方台地を形成する常総粘土層と成田層岩盤を刳り抜いたいた空堀がめぐる。この空堀は、大手谷間からの隘口(虎口)からつづく空堀にあたる。
空堀は,西土塁下の堀底にたっと屏風をたてたように砂質の岩盤が切り立ち、築城工事を物語るかのように削り落とした風化溝状遺構がつづく。今日虎口から35m程が,道路布設ためかなり埋め立てられているが、1曲輪西側の保存状況は極めて良い。現状で,実効堀幅12m(上幅10m), 深さ7m~8mを測る。西に進むにつれカーブを描き、南へ60度曲がり, I曲輪と西1曲輪の中間堀切となる堀底は、おそらく空堀道として利用されていたとみられ,堀 底より西1曲輪へ登る桝形虎口が形成されている。
一の曲輪発掘調査報告書
標高28mコンタ上の台地先端部,南々東を頂点とする三角形プランがⅠ曲輪である。平場は北側で東西60m,中央で南北70mを測り,面積は2728㎡である。今日の御礼神社境内で,南側に本殿・拝殿が位置し,本殿内には,古面(室町時代作・県指定文化財) 5点が納められている。
第1次・第2次発掘調査は,拝殿前方と北側虎口土塁を調査区域として実施した(後述)。土塁は南側先端部と北側の塁壁に残る。南土塁は御札神社本殿の建設(近世の段階)の折, 大きく抉り取られ、現状のような型となった。現在高さ2.5m, 槢(上幅)は最大730cmであるが、削り取られる前は上幅10mほどで櫓台を呈していたと認められる。この櫓台には、島崎城のシンボリックな建築が一例えば天守建築——存在したのであろう。(隣地にある堀之内大台域には、天守建築に相当する建築遺構が検出されている)。
北側土塁は虎口にあたる櫓台状土盛遺構と西側に延びる土塁とからなる。虎口土塁は,中央が鞍部となり,出入口である虎口であったことがわかる。昭和55年に御札神社拝殿を改修した折,ブルドーザで,この鞍部を大きく掘りさげ,東側を削りとり、車が社殿前へ登れるようにしてしまった。第2次発掘調査では,この削りさげた道路東側の壁面のセクション検出作業を実施,土塁基底部より古石塔群の集石状遺構の出土をみた(後述)。なお,昭和55年の削り去った土砂は,土塁外側の堀切に敷いて,虎口鞍部まで車があがれるように道路スロープをつくった。従って,旧土塁斜面は、虎口西側斜面にみられるが,敷部は,やはり遺構面を掘り下げている状況なのである。
この虎口土塁を地元古宿の人は「お鐘の台」といって,時報や登城合図を知られた鐘が吊ってあった、と伝承する。現状で土塁は高さ2.5m,楢部は東側で4m×2.6m, 西側で5m×3 mの平場を形づくる。いずれも櫓台状の形状を呈し,伝承の鐘を吊った櫓が存在した可能性は充分考えられる。虎口外側は、前述した堀切で,実効堀幅20~25m (上幅17~20m), 深さは現状でI曲輪側4m, Ⅱ曲輪2m~2.5mを測るが,前述の工事で客土をもって埋めたてられ,旧状は不明である。
虎口土塁の西側に高さ1~3mを測る土塁がめぐる。残存土塁は西側に延びるにつれ保存状況は良く,虎口土塁との接続部は,かつての御礼神社への参道(昭和55年の道路工事以前)にしたため消滅している。残存状況の良い西側土塁は,丘つづきで西1曲輪と自然地形でつながっていた部分を掘り切った上部にあたり,いわゆる出隅横矢となる。
西側土塁の塁壁外側は、行方台地を形成する常総粘土層と成田層岩盤を刳り抜いたいた空堀がめぐる。この空堀は、大手谷間からの隘口(虎口)からつづく空堀にあたる。
空堀は,西土塁下の堀底にたっと屏風をたてたように砂質の岩盤が切り立ち、築城工事を物語るかのように削り落とした風化溝状遺構がつづく。今日虎口から35m程が,道路布設ためかなり埋め立てられているが、1曲輪西側の保存状況は極めて良い。現状で,実効堀幅12m(上幅10m), 深さ7m~8mを測る。西に進むにつれカーブを描き、南へ60度曲がり, I曲輪と西1曲輪の中間堀切となる堀底は、おそらく空堀道として利用されていたとみられ,堀 底より西1曲輪へ登る桝形虎口が形成されている。