付近には福島第1原発へ放水をしたヘリが飛び立った自衛隊の「霞の目駐屯地」もあり、「バーバーくん」が卒業した小学校もあるが、
写真のように校舎の継ぎ目でガクンと落ちて、ズレてしまうという被害が出ていた。
付近はのどかな田園地帯で、「浪分神社」は目立たなく立っていた。
今回の3.11の大地震がなければ、地元の「バーバーくん」もまったく気にしないどころか、子供の頃に賽銭を盗んだことすら思い出せないような、ごくごく目立たない神社だ。
しかし、先人たちの警鐘に気付くのが遅きに失したのは、この地ばかりではなく、すでに各地で明らかになってしまった。
ちなみに仙台市のホームページ、若林区の神社めぐり「七郷界隈」には、「浪分神社」のことが以下のように記実されている。
「浪分神社[なみわけじんじゃ](霞目)
元来は元禄16年(1703)に霞目の八瀬川に建てられた稲荷社だったが、天保6年(1835)に現在地に移されて浪分神社という名になった。
七郷一帯は標高が低く、昔から津波や洪水の被害が大きかった。慶長16年(1611)の慶長大津波では霞目まで水が押し寄せ、1700人を越える死者を出している。
天保期に、慶長の大津波が二つに分かれて引いた場所に稲荷社を移し、津波よけの神社とした。この神社には、白馬にまたがった海神が大津波を南北に分けて鎮めたという伝説がある。」
海からこの「浪分神社」までは5㎞あまりで、今回の津波で明暗を分けたといわれる仙台東部有料道路〈海岸線と平行に高台になっていて、堤防の役目をしたらしい〉がなかったら、おそらく「バーバーくん」の家の近辺まで津波は押し寄せていたかもしれない。
仙台東部有料道路へ向かう田んぼの中の道は、陥没して1車線になってしまっていた。
電柱は傾き、信号機は機能せず、ガレキはうず高く積み上げられ、被害の大きかった海の付近へ進むことはできない。
田んぼや畑の中に、放置された車がゴロゴロ転がり、船はひっくり返り、ガラス窓やサッシが壊れた家々はベニヤ板が張られ、交差点で交通整理をしている警官のパトカーは、茨城県警だった。
キリンの仙台工場の前を通り、塩釜へ。
積み上げられた土のうには夏草が生えていた。
マリンゲート塩釜のちょっと先、仙石線の脇のマンションから撮影されたと思われる津波の映像をYouTubeで見たときは、言葉を失い、だだただ無力感に襲われた。
あの時、AEONの屋上に避難した人たちは、どうされたのだろう ?
3年前に駅から歩いた道を辿り、車は松島へ。
陸前浜田の駅にさしかかると、おおっ、懐かしや !! 「マンガッタタンライナー」が動いているではないか。
ガンバレロボコン !! ガンバレキカイダー !!
そして松島。
海に向かって並んだお土産屋さんの多くが営業しており、観光船乗り場にはたくさんの観光客がいる。
瑞巌寺の五大堂は無傷のように見える。
しかし、津波被害の写真展示はあちらこちらにあり、地酒屋さんのおカミさんに聞くと、店の天井まで泥が上がって商品はほとんど駄目になったという。
堤防のそばには寄れないよう縄が張ってあり、なんだか水位が高いような気もするが、これは時期的なものなのか ?
もっと被害の大きかった観光地に比べれば、たくさんの島のおかげで津波のパワーが弱められたようで、商店の再開も早かったみたいだが、そこでお金を使わなかったら、せっかく行っても意味がない。
ということで、
これや、
これを食べまくり、お土産も買ったのだった。
大震災からもうすぐ6ヶ月。
仙台の街中は、もうすっかり復興しているように見えるが、少し離れると、まだまだ津波の跡が生々しく残されている。
「浪分神社」のような教訓を無視し、土地・金・権利に鵜の目鷹の目になった企業と政治屋が、建ててはいけないという土地に家を建て利権を貪ったために、多くの犠牲者が出てしまった。
1000年に1度の災害だからといって、すぐにまた起きないとも限らないのが人智を超えた自然だ。
国はもっと迅速に、昔の教訓を活かすような復興対策をしてもらいたい。
ぜったいにこの出来事を風化させてはいけない。
福島でも仙台でも、人々は暖かく迎えてくれた。
ボランティアができなくても、そこへ行って、見るだけでもいいのだ。
小さな経済を回して地域を活性化するのは、我々庶民なのだから。
しっかりしろ、ノダッチ !!
タメ年なんだから、サ。
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