うた。の消したい備忘録。

思い出供養の為に始めました。
思い出話や何か思ったことを書きます。

ミヒャエル・エンデ作 「モモ」 考察

2022-06-10 16:20:22 | 日記
まず初めに、私は学のある人間ではない。
一応福祉の大学を卒業してはいるが、これと言って目覚しい活躍はない。
ましてや、文学の知識など皆無に等しい。

だから、そういう人間が頑張って情熱のままに考察していることを念頭に置いて優しく読んで見てほしい。
私は考察がしたい。
何より、みんなにモモの素晴らしさを知って欲しい。

じゃあ始めます!


世界でいちばん簡単なモモのあらすじ

1モモというホームレス風の女の子が町に現れて円形劇場に住み着く。

2町人はモモが困らない様に家具を揃えたりする。

3町の人々はモモが聞き上手ということを知り争い事や困ったことがあると尋ねるようになる。

4モモは町の住人と交流を深めてしばしの間楽しく過ごす。中でも掃除屋さんベッポと観光案内のジジの2人と大の仲良し。

5ももの住む町とは別の大きな街で時間泥棒が暗躍し始める。

6街の人達が余暇や暇な時間を切りつめて効率的に働き始め、それが普通になる。

7ももの住む町にもその流れが来て、誰もモモに会いに来る暇がなくなる。

8モモが時間泥棒と会話し時間泥棒が負ける。そしてその事が時間泥棒たちの間で問題として認識される。

9モモが時間泥棒に追われ絶体絶命の所マイスターホラとカメのカシオペイアに助けられしばらくの間マスターホラの所で色んなことを教えてもらう。

10時間泥棒たちと対立が深まり、マイスターホラとカメのカシオペイアと協力して奪われた時間を解放する

オワリ


かなり大雑把だけど大筋は間違ってないと思う。
詳しく知りたければモモを読んでね!



モモの考察と感想


モモの住む町の福祉とその変化について
さて、この物語の主人公であるホームレスのモモ。
彼女が一体何者なのかは分からない。
人間であることは間違いない。
現代日本なら児童相談所か警察に通報して終わりだろう。

ここで気になるのは町の住人たちの反応だ。

ホームレスかつ幼い子供であるモモは町の円形劇場に住むという強い意志を表示する。
普通なら施設かなんかに送るはず。


しかし、町の人は自分の持ち物やできることをしてモモを手助けしていく。
部屋に装飾を施したり、ベットや食事を用意したり。
ホームレスの保護にしては随分と手厚い(現代でもこんな風だったらよかったのに)


この事から、町の住人は保護よりも自立を重んじる性質がある様に思われる。

まず、物語の中ですら孤児用の施設があることがセリフからわかる。
同時に、そこに送られるのは決して幸せなことではないと認識している。
だからこそ、ホームレスのモモを通報したりせずに円形劇場に住まわせているのかも。

言葉だけを見ると、ホームレスの子供を放置している印象を受ける。
前述した通り、本人の意思を尊重して足りない部分を補う形で自立を促している。


これは理想の福祉と言える。


しかし、物語後半になると町の住人たちはそれを放棄する。
モモを尋ねる時間が無くなり遊びに来ることも無い。
それどころか、自分たちの子供を「時間が無い」という理由で施設に送っている。


前半のホームレスの孤児を自立させ手助けする福祉の理想系と後半の肥大化したシステマチックな福祉の委託が見事な対比になっている。


これを踏まえて次は私の感想!



我々の生きる現代は「モモ」無き世界
私は福祉の仕事をしている。
薄給激務の大変な仕事だ。

だからこそわかる。
現代日本にモモが現れても施設に送られる事を。

でも、これはさほど不自然なことではない。
子供1人養うと言っても、昔と今ではかかる費用が違う。
そもそも不景気かつ物価も上がっている現状では養育のための費用を捻出するのは結構大変。

凡そ子供を望むのは国民の半分ぐらいのものだろう。
現に日本の出生率は年々右肩下がり。
晩婚化も進み少子化はもはや常態。

自分たちの子供ですら産むか産まないかの選択をしなければならない状況。
ホームレスの子供を育てる余裕のある家庭は多くないだろう。

そうした貧困と隣合わせの状況との等価交換で私たちは利便性を手に入れた。
公的機関のアクセスも最近ではスマホで出来るようになってきた。
警察の通報など今ではスマホのボタンを押せば簡単に出来る。

だから私は、今現代日本にモモが現れても施設に送られると考えている。

私はこの物語を読み終えた時「私たちの世界では、私たちがモモを手放したんだ」と感じた。
時間泥棒もいないのに、暇がなくなって。
モモが居たかもしれないのに、それを見る暇がない。


これは自己責任なんだよね。
時間泥棒もモモも居ないのに、どんどん暇がなくなってどんどん余裕が無くなって。
誰も話を聞いてくれないから、1人で呟いて。


それでも、頑張って生きていかなきゃ行けない。
なんて寂しい世界なんだろう。って私は思いました。
暗いけど今日はこれでおしまい。



次回はモモを読んで救いのない世界でどうやって生きるべきなのかについての感想です!!

文章不器用

2022-06-10 00:12:34 | 日記
おひさしぶり!!
うた。です。

さて、今日はひとつ失敗談を話しましょうか。
だいぶ前から、このgooブログとは別のサービスであるはてなブログを始めようと思ったんですよ。

理由はWebライターとして身を立てていく為に実績が欲しかったんです。

別にこのgooブログでも良かったんですが、心機一転はてなブログでやることに決めました。
理由は特にありません。

さて、そんなはてなブログで書くテーマは「文章」。
文章を料理で例えるコンセプトでブログを解説しました。

すると驚くほど文章が書けない。
文字が進まないとかそういうレベルじゃない。
1文字も書けないまま時間が過ぎていくレベル。

構成だけは沢山あった。
ただ、本当に書けない。
んで、理由を考えたところ「ブログのコンセプトが難しい」という結論に達した。

そもそも、文章だって理解しきれているか分からない。
しかも、それを料理で例えるなんて自分の実力にあっていない。

自分の実力に合ってないから本当に辛い。
全く書けないならまだしも、そこそこ構成は出来ていたからそれが辛い。


まぁ、自分をよく見せようとすると失敗するって話しでした!!!

死因 猫背

2022-04-30 17:10:00 | 日記
わたしは猫背。
猫背になったきっかけは子供の頃。

背が高いのが嫌だったので無理矢理背骨を曲げていましたらこの様。

昔は矢吹丈みたいでカッコいいなと想ってましたが年を取るにつれて苦痛になりました。


背骨には脊柱起立筋という筋肉があるのですが、私はその上部が異常に痛くて盛り上がってるのです。

どれぐらい盛り上がってるのかというと、お風呂に入る前の裸チェックの際に、背中を見たらわかるレベルで盛り上がってます。

これが筋肉なら素敵なプロポーションへの第一歩と気持ちのやりようがあるのですが、ただ筋肉の緊張なので痛いわ辛いわで良いことなしです。


お風呂にはいっても、筋肉の膜を剥がしても治りません。
たぶんこれが原因でしぬとおもいます。


猫背は辛い。
私はその原因は「猫背は他者によって作られる」と考えてます。

例えば机。
体に合わせるのは子供の知識では無理!
だから大人が世話をしないといけないのに大人も同様に知識がないからほっとかれる。
悲劇です。
例えば人目。
背が高くからかわれる社会が悪い。
悲劇です。

で、猫背の解消法は筋トレと姿勢を治すこと。
みんなのせいなのにわたしがやるのかい!!


ってことを思いついたので書いてみたした。
私の背中は今日も曲がってます。


詩が書けない。

2022-04-30 14:58:00 | 日記
詩が書けない。
とにかく思いつかない。

大抵そういうときは疲れてる。


じゃなんで疲れてるのかと言えば、仕事とか家の問題があるから。
ここが難しい。


詩には感情や経験が言葉に写る。
だから多少感情的になったり問題を乗り越えていくことも良い詩作には必要。


であるなら、先述した仕事や家の問題なんかは良い肥料となるはず。

ただ、仕事や家の問題は自分一人頑張ればどうにかなる類いの問題じゃない。
自分以外のだれかが問題の根元だったりする。
そうなると、努力ではどうしようもない。


だから私は今詩が書けてない。
詩人なのに。


そもそも、詩人と名乗らなければ詩は無尽蔵に湧いてくる気がする。
ただ詩人を名乗ったばかりに、詩を発表しなければならないし簡単に発表できるSNSがあるばっかりに悩まないといけない。

こういうのパラドックスって言うのかな?
パラドックスに悩む詩人など滑稽極まりない。

そういうのは理論家や論理学者がやれば良い。
詩人はそれすらも楽しめる。
だからこそ、私は詩人を名乗ったのに。


結局わたしはそれに悩んでいる。
まぁ、いつか「そんな時代もあったね」と嗤えれば良いね。

やりたいことがない私は言葉が必要なんだ

2022-04-29 17:10:00 | 日記
突然ですが、私にはやりたいことがない。
「やりたかったこと」はあるけど「やりたいこと」はない。

子供の頃にしてほしかったことや提供してほしかった体験はあります。
しかし、恐らくなんでも出来る今はやりたいことがない。


これは、やる気がなくなったとか疲れてるとかそういう話ではない。


私は本当に大人になってしまったのです。

やれることよりも、やった後の事を先に考えるようになった。
私が昔バカにしていた「やりもしないのにわかったような態度をとるやつ」そのものになった。

今になってわかる。
一つ一つの出来事は不可思議で説明がつかない様に思えても、不可思議で説明がつかない出来事が千もあれば分類が可能なんだと。


物事の分類を進めていけば、統計学にある出口調査の様に「真実は写してないけど輪郭は写す」的状態になるのですよ。
なったのですよ。私は。


きっと端から見たら「やりもせずやった後の話をしている」と思われるでしょう。
実際その通り。

ただ、私のその姿勢には、過去への断ち切れない思いとそれを嘲笑する自分、やりたいことと周りへの配慮、燃え滾る気持ちと完全燃焼しないように温度を調節する冷静さが混在している。

踏み出せない自分を嗤いはしない。
それだけ大人になって守るものが増えたんだと誉めましょう。
みんなも誉めましょう。
踏み出せずに後悔ばかりの自分を。

偉い。
守る人がいなければ国は栄えませぬ。
よく我慢した。
きっとその思いは然程報われないけど、私は知っていますよ!


守ってばかりいる保守的な仲間を見ればおおよそ見当はつきますから。

統計で大人になって、統計に組み込まれる。
難しいなぁ。生きるって。