うた。の消したい備忘録。

思い出供養の為に始めました。
思い出話や何か思ったことを書きます。

パパがガンになっちゃった!(五年前)

2022-03-07 10:30:00 | 日記
前提として
私と父は仲が悪い。
とにかく相性が悪い。

子供の頃から会話は少なく、歳を重ねるごとにひどくなる有り様。

そんな父との不仲が決定的になったのは、私が高校生の頃の三年戦争。
会話はなく、進路相談も事後報告。
喧嘩もなく、会話もない。
ある意味冷戦のような状態でした。

というのも、父には高校の学費を払えるだけの貯金がなかったのです。(昔の借金のせい)。

なので父が子に対して言う「誰が金を払ってると思ってるんだ!」みたいな会話は成立しない。
だって父には出すお金がない。

そんな父を嫌うのは年頃の子供にとってはある意味当然でしょう。
他所の家庭では当たり前に払われている学費が貰えないんですから。

そんな私は、祖母の遺産と親戚の協力によってなんとか高校に入学できたのでした。


和解は病と共に。

さて、そんな父との和解に至るまでついて書きましょう。


その後も戦争を繰り広げたまま私は奨学金を借りて進学し遠方で一人暮らしを始めました。

ワンルームの広い部屋。
汚れたりきれいになったりするけど、どれも立派な私のお城。
やっぱり嬉しい。
「私の城だ!もうお父さんとは会わないぞ!」
私は父親に対して籠城作戦を開始した。
籠城作戦は三年間続いた。

その間の三年は楽しくも退廃的な日々。
モラトリアムの意味も理解できないまま、酒に溺れたりしていました。
途中から勉学に励み、なんとかかんとか学びを深めていくことでそれなりに楽しい学校生活を送っていました。

当然、父から連絡が来たことは一度もありませんでした。



そんな私も就職活動を行わなければいけない時期が来ました。
幸い、就職活動はすぐに終わりました。
確か、四月の初旬。
同回生で一番早かったのを覚えています。


「いくら仲が悪くても就職活動が終わったことぐらい伝えないと」

そう考えた私は、約3年と半年ぶりに父に連絡を取りました。
「もしもし。私だけど。仕事決まりました。」
簡潔で情緒のない会話。
連絡といった方が的を得ているかもしれません。

いつもなら父は「そうか。了解した」と言うところ。
こちらも簡潔で情緒のない会話。
やはり連絡と呼んだ方が相応しい。

私もそう予想していたから上記のような連絡をしたのです。
しかし、予想を裏切り父は弱々しい声でこう言いました。「すみません。ガンになりました。前立腺がんですが転移してて明日入院で、明後日手術です。」


いきなり父の病の報告に呆気にとられる私。


思わず「何でもっと早く言わない?!」と言いそうになりましたが、ぐっと我慢しました。
それまでの父との関係性を考えれば、気軽に報告できるような間柄では無かったことは明白。
ましてや私は籠城作戦を開始した身分。


お互いの意地と見栄と愚かさが現状を招いている。
だから、お互いに攻めることは出来ない。
私たちは人に折れるよう作られてない。
しかし、無関心でいることも出来ない。
私と彼は親子なのだ。



私は苦し紛れに「明日はそっちに用事がある。ついでに病院につれていくよ」と虚偽の連絡と予定を伝えました。

父は「わるいな。」と消えそうな声での感謝。
見え透いた嘘を彼は見抜いたのです。


ついに、長く続いた戦争は私の勝利に終わった。
得るものもないまま。
バカだなぁ私は。


父と私がすれ違う
よく人生はマラソンに例えられる事が多い気がします。
若い人は前半で年寄りは後半。

その方程式に乗っとれば、父が病気になるのは至極当然。
後半になればなるほど、見栄が落ちて体にガタが来る。


なのに、現実はどうだろう。
私はその事実をいまいち認識できていない。
当事者である父もきっと同じだろう。
だから、お互いに戸惑っている。

対した会話もない中でここまで来てしまった後悔が胸を掠める。
父は私の好物も知らない。
私も同じ。
私は父の好物も知らない。


私たちは、お互い同じようなコースを走っている。
見栄っ張りのコースだ。
それは虚しく自己満足とほんの少しばかりの称賛位しか得られるものがない。

父はそのコースの折り返し地点に来た。
その知らせとして癌を患った。
私はコースを始めたばかり。
心身ともに健康とまではいかないが病院の世話になることがない。
似ているけど、なにかが決定的に違う。


父と私は病と言う知らせにより和解を果たした。
病の知らせを受けることでしか和解できなかった。
やはり後悔が胸を掠める。

「今更どの面を下げていけば、そもそも何を話せば良いのか。」
言語化できない感情を胸に秘め、私は父を迎えるってに行く為、自分の城を自分の足で出た。


続く(火曜日か水曜日に出します)


食べたいものはないが空腹。

2022-03-06 08:16:15 | 日記
私は食いしん坊。夕飯の後におやつを食べることだってある。
子供の頃、給食でたまにやってくる食後のデザートに喜びを覚えた。
時は進み、大人になった今は食後のデザートそれ自体に喜びは感じない、寧ろ食後にデザートが無いことに怒りを覚える。ただ食後のデザートの有無で「ある喜びより無い事への不満」という人間が持つある種の普遍的なテーマにまで繋がるから不思議。

しかし、更に時は進む。
それなりに大人になってしまった今。不思議と食べたいものがない。
言ってしまえば何でも買える状況にあると思う。おやつだって好きなものを食べれる、ご飯のメニューだって思いのまま。

なのに食べたいものがないのは(昨今の世界の食糧事情を見る限り)皮肉以外何者でもない。

ここ最近ずっとそんな調子なので食欲がない。
食べるのはお粥と納豆。
甘いものもしょっぱいものも久しく食べていない。

「これではいかん!」

思い出を振り返るのを辞めて、昔したかったことをやってみることにした。



子供の頃菓子パンにはまった。
菓子パンと言っても、メロンパンとかクリームパンの2つ。


子供の頃私はひらめいてしまった「菓子パンだけでも美味しいから、これにおかずがあればもっと美味しいはず!」と。


当然、食育上かつ家庭内経済的にも叶わぬ夢だった。
その夢を今こそ叶えよう!
私は近所のスーパーで足早にクリームメロンパンと牛ヒレ肉を買った。

牛ヒレ肉を焼いてそれをおかずに菓子パンを食べる。
牛ヒレ肉は少し厚い物を買った。
早速調理。
肉を焼いているとき私がどんな気持ちだったか皆さんは想像できるだろうか?

何しろ子供の頃からの夢を叶えるのだ。
胸が踊る。
お金がなくてロースハムを焼いてステーキと呼んでいたあの頃を思い出す。
それは、苦く遠い思い出。

現在目の前に焼かれている物との落差を感じつつステーキ完成。
本物のステーキだ。ロースハムを焼いたものではない!

そして、ついに実食。
美味しいおかずと菓子パンが目の前に並ぶ。
「いただきます!」
私は理性を忘れ菓子パンを食べた。

久々の甘いものだったこともあり半分ぐらいまで一気に食べた。
するとどうだろう、信じがたいがお腹が一杯になってしまった。「えぇ?そんなばかな。」と思わず呟いてしまった。

まだまだクリームメロンパンは半分以上ある。
更に牛ヒレ肉のステーキに至っては手をつけていない。

「はぁ~夢は夢か」

空腹は最大のソースという名言が満腹に染みる。3月の寒空を背景に食べたくもないステーキを食べたのだった。

私が、確かに愛した廃村。

2022-03-05 13:15:00 | 日記
私の故郷はもうない。
とはいっても、家そのものはある。
ただ村名が合併でなくなった。

そんな村を故郷に持つ私のお話。

(固い口調→説明
です.ます口調→心情)


名前ががなくとも。
「村名がなくても家があれば良いじゃない?」と言う人がいる。

まぁ間違ってはない。
村名がなくなっても土地そのものはある。
見た目の上では合併後と前で変わったことを探す方が難しい。

でも、よく考えてほしい。

村としての名前がなくなると言うことは「廃村一歩手前」という状態にあるということ。
そして残りの一歩は確実に踏み出すことになる。
もしかしたら、もう踏み出していて足が地面に付く寸前かもしれない。

どちらにせよ私の故郷は「死んではないが新陳代謝が行われない状態」なのだ。


それは確かに悲劇だ。
だが、喜劇でもある。




村が衰退した理由
簡単な話、時代に乗り遅れたのが主な理由。

農業以外の仕事は殆ど無く、お店の店員になるか長距離の配送をするか公務員になるかぐらいしか選択肢がない。

都会ではWebの仕事やテレビだなんだって言ってるときにこの様。

私が生まれた時点で、若者の流出を止められないどころか生産人口の流出を止められていない状態だった。

あくまで経済的な面だけで言えば衰退するのは当然。

それに対して対抗策もなく死んでいったのは、住民にとっては悲劇。
しかし、遠くからみれば死んだことも知らない地域だから「元から生きていたのかも知らない地域が死んだ」というのは、やはり何処か喜劇的。

ある意味では死んで当然だったのかもしれない。



ここからは個人の心情。

私は「衰退し無くなっていくあの村」を愛していました。





私が愛していた死に向かう村
私が物心付く頃には村は死にかけていました。
同級生は五人程度、夏休みのラジオ体操はおばあちゃんと二人きり、お盆の時ですら帰郷する人は疎らでやがて来なくなった。

村から石油や金が出土しない限り息を吹き返す可能性は殆どありませんでした。

そういった状況だからかもしれませんが、たくさんの愛情を注いでもらえました。


常に誰かが居てくれた。
何かあれば構ってもらえた。
泣けば優しく慰めてもらえた。
私の話を聞いてくれた。


私が受けた愛情は、どれもこれも特別なものではありません。
何処にでもある、ある意味普遍的なもの。

当時の私はそれにありがたみを感じず「あって当然のもの」
たくさんの愛情に対して、あんまりな感想を持っていました。
その程度に恵まれていました。


私がその普遍的なものの価値を知ったのは私と両親の引っ越しが終わってから。

核家族となった私は孤独を知りました。


家に誰もいない。
構ってくれる人も、泣けば慰めてくれる人も、話を聞いてくれる人も。


死にかけていた村でしか味わえない愛情をようやく知ったのです。





郷愁の念を知る
引っ越してからの私は、家にいるのに「家に帰りたい」と思う不思議な状態。

でも、村に帰ることが実現不可能だともわかっていました。

あの環境は、もう二度と戻らない環境であることは子供の私でも理解していて、だからこそより強く「帰りたい」と思うようになり事態は悪化の一途。

失った「私だけに向けられていた愛情」を知ったのと同時に「私が愛していた村が消えた」ことを知ったのです。
消えたのは私たちの方なのに。


結局、そのまま今の年齢になってしまいました。


現在、私が愛した故郷はもうありません。

地名を無くし、今や残された人々も少なくない。
見る影はあるものの、影ばかりで実体の無いあの村。
家屋ばかり残された、新陳代謝の止まった村。
帰ってもあのときはもう戻らない。


なのに、未だ帰郷の念を感じるのはおかしいことでしょうか?
それとも、帰郷の念とはそういうものなのでしょうか?






読んでくれてありがとうございます。
あなたにも幸せと帰る場所がありますように。

(あの村では手に入らない情報端末から、帰郷の念を込めて。)

濡れた私と濡れ煎餅。

2022-03-04 03:00:49 | 日記
ぬれせんべいってありますよね。
人気でもないのにずっとある。

私はそんなぬれせんべいが好きなんです。
理由は簡単で、ケーキやポテトチップスと違って我先に取り合う物じゃない。
なので、ゆっくりたくさん食べれるんですよ。

のんびり屋さんで食いしん坊な私と相性がいい。



そんな、ぬれせんべいとの初接触は散々なものでした。
たしか小学校に入りたての頃。

煎餅をもって家の中を歩いていたら、親がこぼしたお茶が煎餅に当たってしまいました。
当然、煎餅は濡れるわけです。
私が怒ると「ぬれせんべいだと思って食べれば悪くない」と親は言うのです。

私が怒っているのは、なんの謝罪もしないその精神に対してであって。
せんべいが濡れる濡れないの話ではない!
そうやって論点をすり替えるな!

そんな旨の言葉を伝えれば良かったのですが、語彙力貧困で口下手な私は甘んじてぬれせんべいを食べました。

それが、初ぬれせんべいでした。

実は洋服もびしょびしょに濡れていた私。
言いたいけど言い出せないもどかしさを感じながら、ぬれせんべいを口のなかにいれました。

それが意外に美味しい。
醤油とお茶の合わさった味も悪くないし、大部分がシナシナで所によりサクサクする食感も癖になる。
腹持ちは少ない枚数でも結構もつ。

むしろこっちの方が好きかもしれないと思いながら食べていました。
すると、親が「何で濡れた服でいるの?!着替えなさい!」と怒られてしまいました。

理不尽な出来事、怒りを感じるも言葉に出来ないもどかしさ、怪我の功名のぬれせんべい、再び理不尽に怒られる。

一連の出来事を思い返し、私は涙で顔を濡らしたのでした。

詩的トラウマエッセイ1 夜勤中に聞こえてくる声

2022-03-01 12:55:58 | 日記

夜勤中にうごめく声

私は仕事で夜勤をすることがある。

夕方16時から翌朝10時までの時間働くのです。

これがほんとうに大変。

 

そもそも長時間の労働ってだけで辛い。

でも、特に辛いのは「トラウマとの自問自答」。

それは、仕事中に行う業務やちょっとした空き時間にやってくる。

 

夜勤の移動中、突然トラウマを思い出す。

これが自問自答の開始の合図。

「あのときあの人に優しくすれば結果は変わったかもよ」とトラウマ。

すかさず私は「もういい。忘れろ。」とトラウマに対して自答。

しかしトラウマは怯まず「あなたの言動が原因なんだよ?あのときだってそうでしょ」もうひとつのトラウマを用意する。

私も怯まず「忘れろ。」と同じ自答。

何度かトラウマとの「自問自答」を繰り返す。

トラウマも攻め方を変えて「私は本当に駄目なやつだ」と一人称で攻めてくる。

そうすると、トラウマとの自問自答なのか自省なのかわからない。

これが大変。

 

(あのときああしていれば)

「もういい忘れて」

(私のせい)

「私にそんな影響力はない」

(なんでやさしくしてあげられないの)

「私にだって事情がある」

(わたしはだめなやつだ)

「そりゃそうだけど」

(見栄ばかり張るのをやめようかな)

「そうだね」

 

こうして夜が更けて、朝になる。

トラウマとの自問自答を夜に始め、朝になる頃にはそれを終える。

何が変わったのか。それはわからないが過去に犯した罪だけは知っている。