四月中旬の空気というか世論を記しておこう。
猫にとってデュナミスとエネルゲイアは同一であるから
こうきたらどうする? とか、これだからああなるなど
という杞憂や安閑とした無駄な時間はあり得ないので
あります。
アリストテレス先生に言わせると、そうなるのです。
即ち、侵略されたらどうするとか、このまま国難を放置
していても死にはしないと思い定めて、己が何なのか
何がしたいのかも見ずに滅ぶ幸せなんてものは、ない。
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春先の花は、今はもうない。
来年また咲くかどうかも分からないけれども、時時の花はある。
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猫も花も同じなのに、ヒトだけ、特にこの時代の人だけは
殊に無駄な時間を招いてエネルゲイアを否定する。
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飼主なんかを端から見ていると、ベラチャオを唄いながら、
やれることというより、やるべきことだけやって余計な
ことをしていない。
"Bella Ciao"
侵略者やらと出会ったならば、パルチザンなんかは、
ある日突然死ぬんですよ。
だから、デュナミスとエネルゲイアは一致するのです。
今(5/29)想い出したから、追記します。
昨年晩秋頃に、トルコのエルドアン大統領死亡説が出たときに
モールト、モールトと盛んに言われました。ほんの二時間くらい
ですが、誰も何語かと訊ねなかった。イタリア語だと知ってたん
ですね。しかし、何故トルコの出来事をイタリア語で世界に
流したのか、飼主はインサイダーではないから知りません。
翌日、「わしゃ生きとる」とエルドアンが強調していました。
何故想い出したかといいますと、先週つまり5月最終週のひとつまえ
の週に「エルドアン逃亡説」が流れたからです。
どうなるんだエルドアンというわけで、トルコの人々の平和を。
強調したいRは巻き舌にするのも、よく訓練しよう。
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飼主が元来猫的だったのか、猫に感化されたのか、知りませんけどね。
ところで、gooブログの規約がまた変更されました。五月二十三日。
日本国の法改正に準拠するものらしい。
第三者に対する毀貶は、之をあるまじき事とする、というのです。
名を挙げて殊更に誰かを貶黜する、誰かを特定して魯魚烏焉の誤り
を論う、なんてことを飼主はしてないから、セーフっすね。
あ、前回ナショジオの特定記事の最後の一文はどうなんだろう
というのは、貶黜ではなくて評価ですよ。公正なる評価である。
あれさえなければ、と残念に思っているくらい良い記事だったと
高評価していたからリンクしたわけでしてね。
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飼主がネット始めた頃なんて、醜い口論や感情の込められた罵倒合戦
如きものを「議論」と混同している連中がうぞうぞしておりましたよ。
実に飼主なんかは、それらの中にありながら、常に礼節を守り要を
外さずに議論のみを続けて、主題で無いときに殊更他者の人格を
問題にすることなど避けてきた。
酒場で愚痴ることはありましたけどね。それはもう、同じ人かという
くらいに愚痴る。およそ器というものは、暗部の広さに相即するもの
であるよ。ペンタブラックより深くて黒いのは自認しておりますけれ
ども、それは公的な部分、表現部分の基礎となって流麗なるアーチを
支えるのでありますよ。大いに議論すべきだが、単なる貶黜は愚物の
所業であると『ウルタールのうる』に於いても、繰り返しています。
これが、飼主の立場、かつてのアルカヘストの立場であります。