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たっつぁんのwahahaの日々

うたを歌っています。川下りをします。
キャンプもします。
そんな遊びの毎日を書いて行きます。

玉井くんのこと 2

2015-02-16 | 日記
 玉ちゃんのホームコンサートに行った。伊那の春日さんもやって来てくれた。嵐山で豆腐定食を食べて、亀岡までトロッコ電車で行った。保津峡はカヌーもできる気持ちいい峡谷だった。風が気持ち良かった。
 玉ちゃんの家はコンサートが出来るように、小さな小さなホールがあって、音響も揃えてあった。うたをいつも身近に感じていたんだろうな。
 玉ちゃんの地元の人たちが集まってくれた。京都時代の文ちゃんや友だちもやってきてくれた。突然、フォーク集団ポロの時代に戻ったようだ。
 こんな関係をずっと続けてきた玉ちゃん。素晴らしいね。うれしかった。
 
 あ、思い出した。郵便受け事件があって、亀岡の玉ちゃんのホームコンサートに行く前に、玉ちゃんが新潟にやってきてくれたんだ。
 角田山妙光寺さんでのコンサート。このコンサートの打ち上げは地元の人たちが料理を作ってくれて、同じ会場で打ち上げして盛り上がったな。田島征三さん、おおたか静流さん、長谷川義史さん、大友剛さん、吉田一郎さん、そして新潟の歌い手たち勢揃いの大掛かりなコンサートだった。その印象が良くて、地元亀岡のメンバーに話してくれたんだ、それでスムーズにホームコンサートができたんだね。ありがとう!

 そして、新潟と川越でのフーテナニーにやってきて歌った。歌うことがどんなにかうれしかったか。奥さんも一緒にやってきたね。

 川越で行われた「赤パンコンサート」が最後のコンサートになった。このコンサートには行けなかったけど、埼玉の人たちが言うには、「小さな小さな声、でも、うたいたい気持ちが伝わって来て、、、歌うって伝えたいという想い、伝わるんだね」って。

 玉ちゃんはこれが最後とわかっていたんだろうか?京都に帰ってからすぐに入院したと聞いた。

 玉ちゃん、いっぱい、いっぱい ありがとう!!
 一緒に歌えて良かった。

 合掌

玉井くんのこと

2015-02-16 | 日記
玉井真信さんが亡くなった。
玉ちゃんといつも呼んでいたので、玉ちゃんで書くね。



 京都でフォーク集団ポロに入って、うたを歌い始めた。うたを作ったのもこの時だった。フォーク集団ポロは中島光一さんが中心になって作ったサークルで、関西フォークの精神を継承するサークルだった。アメリカのフォークソングの歴史を学んだ。ウディガスリー、ピートシーガー、公民権運動、ブルース、日本民謡、わらべうたなどなど、フォークソングの原点を学んだ。そして、歌づくりを始めたのもここからだった。
 フォーク集団ポロに玉ちゃんが入ってきた。一緒に歌った。一緒に遊んだ。一緒に歌づくりもした。やさしい人柄でみんなは玉ちゃんを頼りにしていた。
 その後、新潟に帰ってしまったので、彼らとは直接のつながりがなくなったのだが、玉ちゃんは京都フォークソング連絡会議の中心メンバーになり、「うたの里」の企画にも参加していた。
 しばらくして、玉ちゃんは歌うのをやめたらしい。子育てやいろんなことがあったんだろう。年賀状のやり取りだけが続いていた。

 ある日、それは、、、。郵便受けを開くと、茶封筒にMDとテープが入っていた。封筒には切手が張ってない。後ろを見ると玉ちゃんの名前が、、、。ということは、京都にいる玉ちゃんが住所だけを頼りに、ぼくの店に来て、朝早く郵便受けに入れていったということなんだと気づいた。
 なんてことを!電話でもすればいいのに、、、。ここまで来ているのに連絡もなしに、、、。
 そのテープとMDは今住んでいる亀岡でうたい始めたグループの録音だった。オリジナルの歌がぎっしり入っていた。
 歌っていたんだ! すぐに電話した、久しぶりに話した。

 玉ちゃんが地元で地元の人たちと歌を作って歌い続けている!!
 玉ちゃんがやっているホームコンサートに行きたくなった。突然連絡して、「今度行くよ」

この項 続く

笠木透さんのこと 3

2015-02-16 | 日記
 その後、1983年頃、今度は笠木さんに新潟に来てもらった。加藤隆正さんは息子さんと一緒に車で新潟までやってきた。笠木透さんは大島博さんと一緒にやって来た。(加藤隆正さんはこの後フェリーに乗り、息子さんと二人きりの北海道の旅を楽しんだ。今でもこの時の事を昨日のように話してくれる。よほど印象深かったんだろう)

 会場は木揚場教会という会場で、新潟市の中心部にある古い教会だった。会場いっぱいの人で、それはそれは盛り上がった。そうだくんたちが旗を持って入って来て、コンサートが始まったように記憶している。新潟のメンバーは自分たちのうたを歌った。笠木さんたちも自分たちのうたを歌った。このコンサートのことは加藤さんや大島さんに聞くと、もっと立体的に見えると思う。

 そして、巻原発住民投票一周年のコンサート(1997年)へ。

 雑花塾が始まり、増田さんがいつも笠木さんと一緒に活動を始める。1997年にやってきた時、増田さんが笠木さんと一緒に話を聞きに行って、筆ぺんでインタビューを記録していたのが妙に残っている。なんでかな?筆ペンで書くのが不思議だったのかな?
 増田さんが残している笠木語録や取材記録をまとめることが増田さんのこれからの仕事かもしれない。

 この後、新潟の関係は関川村でのコンサートに続く。このコンサートの事は「ひとつだけの村 ふるさとの明日を語る関川村ライブ」(本の泉社)に詳しい。
 ここでも何回も関川村を訪れ、地元の人たちと交流しあいながらライブを準備してきた。本番でのコンサートは重要文化財の渡辺邸いっぱいの人たち、関川村の平田村長のユーモアたっぷりな話。シンポジューム。笠木透と雑花塾の演奏。それぞれがそれぞれ、あたたかい空気の流れるライブだった。

 改めて思う事は、笠木さんは現場を歩いてきた。現場から感じることが創作のエネルギーになっていた。そして、その地域に暮らす人たちとのつながりを大事に大事に作ってきた。
 ぼくの家に泊まったとき、ぼくの歌詞カードの入ったノートを読んでいたが、ぼくの歌については何も言ってくれなかった。話したくなる歌ではなかったのだろうか?
 笠木さんと歌づくりについて、もっと話せたら良かった。

 合掌

笠木透さんのこと 2

2015-02-16 | 日記
巻原発の住民投票は今までの保守と革新という枠からはずれ、子どもたちの未来はどうなるんだという根本の問いを問うたものだった。だから地域の人たちの意思をゆっくりと丁寧に問うた。住民投票の投票率が85%以上になったということはそれだけ自分たちの問題として考え抜いて投票したんだ。対立ではなく、自分の意思を大事して話し合いながらの結果だった。
笠木さんが訪ねていったTさんもそのことがよく判っていた人だった。現場でしか見えないものがあるといつも思っていたんだと思う、笠木さんは。
コンサートも200名ぐらいのこじんまりしたものだった。原発を止めた町のコンサートだから、すごい盛り上りなんだろうと思ってやってきたのかもしれないが、現実は現実。地域の人たちはもっと冷静だった。この現実にも笠木さんは現場を経験してきた人だからこそ、理解できるものがあったに違いない。
岩田さん夫婦と増田さん、笠木さんが家に泊まって、遅くまで話していた。岩田さんもおもしろい人で、こだわりいっぱいの人だったな。

笠木さんと初めて出会ったのはいつだったんだろうか? よく憶えていない。
1982年の9月に「笠木透と地の人々」のゲストで岐阜の御浪ホールに出かけて行った。その年の12月がオールナイトでのコンサート。同じく御浪ホールだった。ここで、加藤さんや大島さんに会ったのだった。笠木さんにも会ったのだろうが、コンサートの真っ最中、それもオールナイトということで、話もできなかったんじゃないかな。画家の堀尾一郎さんとここで会って、意気投合してそれ以来、年賀状のやり取りが続いた。



このオールナイトコンサートは、そうだみつのりや故富所正一も参加していて、遠くまで出かけるのと初めて出会う人たちに囲まれて、興奮状態。今でもそうだくんはこの時のことを「楽しかったな」と話す。そうだみつのり、叫ぶ詩人から歌う詩人への変身が始まった。

この項 続く

笠木透さんのこと

2015-02-16 | 日記
2014年12月22日、笠木透さんが永眠。
突然の知らせにびっくりしてしまった。

あれから、笠木さんの本を読み直した。CD文庫のテーマはすでのあの頃の本に書いてあった。



そして

いわき雑魚塾のCD「でれすけ原発」は
歌いたいことが歌になる手助けを笠木さんがして、いわき雑魚塾のみんなが応えた。
笠木さんは、暮らしの中で生まれる歌を求めていた。それもそこに生きている人たちが自分たちの歌を歌うことを。
簡単なようで、簡単ではない。
「でれすけ原発」が生まれてくる中で、メンバーのみんなはどれだけ自分の伝えたいことを見つめただろう?
どれだけ推敲を重ねただろう。笠木さんの要求は高い。
そして、「でれすけ原発」が生まれた。みごとな作品だった。
このCDを聴いて、笠木さんが作りたかったCDはこれだったんだなと思った。

名もなき民が自分たちで歌いたいことを歌い、自分たちで表現する。
へたでもいい、歌いたいことを歌う、歌ったように生きる。

ぼくは笠木さんとは直接に教えを受けたりしたことはなかった。
いつも遠くから遠くから見つめていた。歌を聴いていた。

巻原発建設を住民投票で問う運動の中で歌をうたい続け、CDブックとして記録を残した。
笠木さんに、住民投票一周年記念のコンサートに来てもらった。
巻町に到着するなり、住民投票の中心にいたTさんの家に行き、話を聞きに出かけた。
ここがすごいところなんだな。現場に行って、現場の話を聞くってことが、、、。

この項、続く