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。。Slow Step 。。

75年前の母



母は18歳で終戦を迎えました。

戦時中に
5年間の高等女学校を卒業して
17歳で「代用教員」に。。
男性の教員不足で
そういう制度があり
当時の国民学校(小学校)の
原則低学年のみ担当することに…

授業と言っても
半分以上は農作業の日々。。
校庭を耕して、さつま芋を植え
雑草を取り、収穫して…
勉強は二の次だったそうです

***

そして
昭和20年に入ると空襲が…

授業中
警戒警報(空襲警報の前)が鳴ると
全校生徒が校庭に集まり
地域毎に集団で教師が付き添い
帰宅していたそうです

小学生とは言え
1年生だとまだまだ幼児。。

女の子は警報の音を怖がり
泣き出してしゃがむ子もいて
母がおんぶしながら走ったことも…


***

そんな母が
戦時中一番怖かったこと

それは。。

学校に近い教師は
警戒警報が鳴ると、夜中でも
学校を守るため…とは名ばかりで

校長室にある
天皇陛下の写真を
防空壕に持って行くため
学校に駆けつけなければならず

学校まで徒歩20分位だった母も
その要員でした

***

母の家から学校までは
途中に県庁がありました。

4月のある日の深夜
警戒警報が鳴る中、家を出たら
途中で空襲警報に…!

いつものように県庁”南側”の道を
駆け抜けようとしていたら
B29の編隊が接近!

照明彈が県庁を照らし出し
母自身も照らし出され
焼夷弾が落ちるヒューー…という音
ドドーーン!という爆裂した音が
耳をつん裂くように
鳴り続けていたとのこと。。


***


18歳の母は、あまりの恐怖に
県庁脇の一軒の住宅の防空壕に
そこのご家族と共に
入れてもらえたそうです。

普通の家は防空壕が
門の中にあるのに

その家は
防空壕が門の外にあって
ご家族が入る時に
ちょうど遭遇したそうです。


***

その後
学校が無事だったことを
確認して帰宅する時に

母が見たのは
県庁”北側”一帯の焼け野原。。

***

運命とは…
こんなことの積み重ねなのですね✨

***


そして、迎えた8月15日
母は学校で
玉音放送を聞いたそうですが
その前から
何となく誰しも敗戦は
暗黙の了解だったとのこと。

よくテレビで見る
皇居前で号泣する人たちとは違い
ただ…ただ…ホッとしたそうです。





今まで
母から戦争中の話を聞き出す
…ということは
殆どしていませんでした。

空襲の時の話も
学校の校庭が薩摩芋畑だった話も
聞いてはいましたが
「あぁ、またいつもの話か」で
済ませていました。

でも、2ヶ月前の母を見ていると
具合が悪くなってしまってからでは
何も話ができないことが判明。。

せっかくブログも始めたし
戦争の話をきちんと聞いておこうと
インタビューのように
時々スマホで検索しながら
(空襲時の爆撃コースetc.)
記事を書いてみました。。

私だったら…と思うと
とても太刀打ちできないでしょう。

大袈裟かもしれませんが
18歳の少女が教師として
毅然と戦争に立ち向かえた気力は
当時の軍国主義教育のなせる技
…だったのかもしれません。。

***

戦後
母は大学での研修教育を受け
正式に小学校教諭の資格を取得。
20年間教壇に立ちました。

母が退職する日
「全校生徒を前にしての
朝礼の挨拶が忘れらない」
…と同僚の方が手紙を下さいました

。.:*:・'°・°*。.:*:・'°・°*

“あなたたちが
これからもずっと
戦争のない平和な世界で
暮らせますように。。”

。.:*:・'°・°*。.:*:・'°・°*




コメント一覧

wakoslowstep
Passyさん こんばんは
お母様も戦時中代用教員だったのですね。
学童疎開の付き添い教員というのは、初めて知りました。
東京では疎開するのが当たり前と聞いたことがあるのですが、子供たちはもちろん先生だって18歳くらいだと心細いのに。。
よく疎開先で嫌な思いをさせられた話を聞きますが、子供たちが泣けば、先生も泣きたくなりますよね。。
でも、Passyさんのお母様ですから、グッと我慢して笑顔で子供たちを慰めていらしたのでは…と想像できます✨
「虱」という漢字!初めて知りました。読めて良かったです(^^;
お母様はご自身の櫛で丁寧に取ったのですね。
そうそう!虱の退治方法で、父がよく「DDTを頭に真っ白に噴霧する」と言ってましたねぇ(^^;知らないけれど、その単語が懐かしい。。
こうやって想像するだけですが、戦時中の話が出来るのも、私たち世代まででしょうか。。
せめて8月の6日と9日、そして終戦記念日くらいは、誰もが平和に思いを馳せたいものですね✨
お話しくださって感激です。。
コメントありがとうございました。
wakoslowstep
@hotaru-3939 蛍さん こんばんは
なんと!上野で東京大空襲に遭われたのですか?
祖父と祖母、父やその弟妹たちも駒形橋の近くに住んでいて東京大空襲で焼け出されたのですよ。
家を守るために残った祖父祖母と別れ、父とその妹は、二人っきりで隅田公園を目指し、そこで待ち合わせをしたそうです。
そこで会えなければ戦争孤児になるはずでした。。
考えてみると、叔母(父の妹)は生きていれば80代前半なのですよ。
また蛍さんと繋がりましたね*^_^*
お時間がある時に、2020年2月16日父の命日の記事に東京大空襲のことも書いたので、お時間ある時に覗いてみて頂ければ嬉しいです♪
蛍さんのご両親は、一大決心をされて北海道に渡り、慣れない寒さにも耐えて、大変な思いをされて、土地を切り開いたり、小さかった蛍さんを育てて。。ご苦労されたのですねぇ。。
お話しくださって、感激です✨
コメントありがとうございました。
Passy
wakoさん、こんばんは♪

先程、今日の「残暑お見舞い」の記事を拝見していて、お母様のお話に惹かれて...こちらに飛んできました。
実は、私の母も代用教員でしたから。
愉しかった女学校時代の余韻も残る年頃なのに、過酷だったと思いますよね。
私の母は、北関東への学童疎開の付き添い教員として児童たちに同行したのだそうです。
子どもたちは可愛かったけれど...と...「けれど」が気になりますよね。
毎晩、順番で児童たちの頭虱を持参の黄楊の櫛でとかして、取り続けたと言っていました。
東京の空襲からは逃れることができたけれど、東京で生まれ育った母には、厳しい生活だったと思います。
苦しかった経験は、ほとんど何も語ってはくれませんでした。
wakoさんがおっしゃるとおり、私たちとは全然違う厳しい経験を乗り越えているのですよね。
戦後は、また別の苦労が待ち受けていたようですし。
想像を絶する経験だったことは間違いないと思います。
平和を願い、非戦の誓いを守り抜く...それが私たちの使命だと思っています。
悲惨な経験のある親から、多少なりも直接経験談を聴いたのですから。
78年の歳月は、「直接、親から経験談を聴いた」世代も高齢者にしました。
猛暑酷暑の日々、お母様もwakoさんも妹様も...皆様くれぐれも御身おいといくださいね。
hotaru-3939
wakoさんへ
東京大空襲で私たち家族は上野で焼け出されました。
もし、戦争がなければ私も東京で育っていただろうにと
いつも終戦記念日に想い続けます。
両親も北海道へと疎開して町人だった人が農業を
初めて苦労の連続でした。
自分の話ばかりでごめんなさいね。
お母さまはごりっぱな方ですね。
18歳でどれだけ怖かったことでしょう。
大切になさってくださいませ。
wako
ameさん 追伸です!
いつか…と言わず(笑)
近いうちに、東京へいらしてね💕
お待ちしてます🎶
wako
ameさん
こちらにまでコメント頂いて、恐縮ですm(__)m
「終戦記念日を決して忘れない」まさにそうですね。若い世代では、8月6日も9日も15日も何の日か分からない人たちが大半らしいです(^^;学校で教えていると思うのにね。。
ameさんのお母様も焼夷弾のことお話ししてましたか?母も「ヒューー」のところは、リアルに再現してましたよ。18歳の女の子が聞いた恐怖の音は75年たっても忘れていなかったのでしょうね。。
今年はネタ切れかと思ったのですが(笑)また来年聞いてみますね(^^;
ameさんの仰るように、どんな形でも、実際に体験した方々の証言をシェアしていかないといけませんね。忘れることが一番怖いことだから。。
ご丁寧なコメントありがとうございました。
ame
wakoさま

終戦記念日、本当に今ここにいる私達が
決して忘れてはいけない日だと
つくづく感じます
お母様の体験談を拝読いたしました。
B29、焼夷弾など母からも聞いたゾクッとする言葉。防空壕に入れたことは今のお母様の命が守られたということですね。
18にして、なんとも使命感ある行動強いられて。。とても心の奥に残るお話を
ありがとうございます。
原爆体験者の平均年齢はおよそ84と聞きました。生の体験談がきかれることが難しくなってきてる昨今、こうしてお嬢様wakoさまが、ブログを通してでも一人でも多くの方に語り継がれていくということは、
本当に素晴らしいことですね。
まだまだ、お母様のお話の続きがありましたら聞いてみたいです。
教壇での最後の言葉も染み入りました。
昨日たまたまみた深夜のテレビ、アメリカ人のお若い女性が広島でピースボランティア。。どんな形であれ小さくても行動を起こす。。とっても大切ですね。
来年もまたwakoさまのお母様の体験が聞けたらなと思います😃

先日のコメントとっても嬉しかったです。💖いつか東京へ。。😃ね✨✨
ありがとう❤wakoさま
wako
olive-oliveさん
ご両親とも戦争の体験は覚えていらっしゃらないのですね。確かに自分で考えても11歳位の頃の出来事は覚えていないかもしれませんね。

母の言葉が、その時の生徒たちが覚えていてくれたら、母もどんなにか嬉しいことでしょう(*´▽`*)「心に刻まれる」なんてステキな言葉♪忘れてました。olive-oliveさんまで心に刻んでくださるなんて。。嬉しすぎます(*^^*)
コメントありがとうございました。
wako
@maru-peace さん
母のこと誉めすぎです(^^;毎日毎日、水分取らなくて喧嘩!ばかりですよ(笑)
でも、ずっと口うるさい祖母(母にとっては姑)に仕えていたので、忍耐強いのも、頑固なのも、戦争中の教育のお陰かもしれませんね。
maru-peaceさんご一家は当時樺太にいらしたのですね。生死を懸けた逃避行の中でのお兄様の「ダメだよ!生きなくちゃ!」の絶叫に心が震えるような想いです。。大変な思いをして、無事に引き揚げられて、本当に良かったですね。
我が家のお隣の家も、2年前に97歳で亡くなられたおばあさまが樺太から引き揚げて来られたそうで、その時のご苦労を何回も聞かされてきました。男の格好をして船に乗ったそうですよ。。
お兄様、画家さんなのですか?戦争の絵がテレビで紹介され、お兄様が出演されたなんて♪ぜひお兄様の絵を拝見したいです(*^^*)
コメントありがとうございました。
olive-olive808
お母さま
そんな経験を・・
そしてちゃんと伝えられるお母さま!すごいです!
私も今まで聞いたことがなかったのですけれど、今年初めて聞いてみたところ
その頃の母の記憶がほとんどないのです。母は11歳でした。
もちろん父は何も覚えていません。
「あなたたちがこれからもずっと戦争のない平和な世界で
暮らせますように」素晴らしいお母さまですね。
きっとこの言葉を聴いてたくさんの子供たちが胸に刻んだと思います。
私もこの言葉を刻んでおきたいと思いました。
maru-peace
お母さま....
戦争中は、若いまだ18歳の教師...子供たちを守るのも大変だったでしょうね。
退職の最後のメッセージには本当に心をうたれました。
素晴らしいお言葉を残されたのですね。
これはやはり戦争という辛い経験をして来たからこそでだと思います。
今のお母様の頑張りはそんなことからもありますね。
私たちとは精神が違いますね。ご立派だと思っていましたらこのようなこともおありだったのですね。
納得いたしました。
私の兄弟の長男も戦争をもろに体験していますので一番しっかりしています。
我が家は樺太におりましたから戦争はまともに受けました。
母は男の子四人を引き連れて一人はおんぶで長男は今年87歳ですからその当時12歳くらいだったと思います。
逃げれーという町内の掛け声で...真夜中の真っ暗闇の山の中を焼夷弾が飛び交う中を逃げ回ったそうです。
家からはご飯を炊いた釜も持ったり衣類も持っったりして逃げてきたそうですがそれは重たくってすぐに捨てたそうです。
焼夷弾があまりにも凄くってもうだめだぁ~と母はもうあきらめようと言ったのですがしっかりしていた長男はダメだよ!生きなくっちゃ...死ぬのは嫌だーと言って隠れよう!と言ったそうです。山の中は隠れる所は無く....隠れたところは大きなフキの葉っぱだったらしいです。
その後昭和22年に樺太から引き上げてきました。
私はまだ生後数ヵ月でした。その辛い体験は兄がしっかり事細かく覚えていて文章にも残してそれを私たち兄弟に送ってくれました。
それを読んで私は号泣しました。想像絶することがたくさん書いてあったからです。
そして私はそんな辛い戦争体験した母に今まで何をしてきてあげたんだろうと思って余計に悲しくなったのです。
当時12歳だった兄がこんなに鮮明に覚えていることがこの惨い戦争を物語っていると思いました。先日も北海道放送に戦争の様子の絵を何枚か応募して絵が紹介されてテレビに出たそうです。

お母さまが子供たちに残した言葉....
本当に戦争のない世の中になるといいですね。
貴重な体験のお話とても心に響きました。
wakoさん💛お盆に今日のお話ありがとうございました。
長文になってしまい申し訳ございません。<m(__)m>
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