母は18歳で終戦を迎えました。
戦時中に
5年間の高等女学校を卒業して
17歳で「代用教員」に。。
男性の教員不足で
そういう制度があり
当時の国民学校(小学校)の
原則低学年のみ担当することに…
授業と言っても
半分以上は農作業の日々。。
校庭を耕して、さつま芋を植え
雑草を取り、収穫して…
勉強は二の次だったそうです
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そして
昭和20年に入ると空襲が…
授業中
警戒警報(空襲警報の前)が鳴ると
全校生徒が校庭に集まり
地域毎に集団で教師が付き添い
帰宅していたそうです
小学生とは言え
1年生だとまだまだ幼児。。
女の子は警報の音を怖がり
泣き出してしゃがむ子もいて
母がおんぶしながら走ったことも…
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そんな母が
戦時中一番怖かったこと
それは。。
学校に近い教師は
警戒警報が鳴ると、夜中でも
学校を守るため…とは名ばかりで
校長室にある
天皇陛下の写真を
防空壕に持って行くため
学校に駆けつけなければならず
学校まで徒歩20分位だった母も
その要員でした
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母の家から学校までは
途中に県庁がありました。
4月のある日の深夜
警戒警報が鳴る中、家を出たら
途中で空襲警報に…!
いつものように県庁”南側”の道を
駆け抜けようとしていたら
B29の編隊が接近!
照明彈が県庁を照らし出し
母自身も照らし出され
焼夷弾が落ちるヒューー…という音
ドドーーン!という爆裂した音が
耳をつん裂くように
鳴り続けていたとのこと。。
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18歳の母は、あまりの恐怖に
県庁脇の一軒の住宅の防空壕に
そこのご家族と共に
入れてもらえたそうです。
普通の家は防空壕が
門の中にあるのに
その家は
防空壕が門の外にあって
ご家族が入る時に
ちょうど遭遇したそうです。
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その後
学校が無事だったことを
確認して帰宅する時に
母が見たのは
県庁”北側”一帯の焼け野原。。
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運命とは…
こんなことの積み重ねなのですね✨
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そして、迎えた8月15日
母は学校で
玉音放送を聞いたそうですが
その前から
何となく誰しも敗戦は
暗黙の了解だったとのこと。
よくテレビで見る
皇居前で号泣する人たちとは違い
ただ…ただ…ホッとしたそうです。
今まで
母から戦争中の話を聞き出す
…ということは
殆どしていませんでした。
空襲の時の話も
学校の校庭が薩摩芋畑だった話も
聞いてはいましたが
「あぁ、またいつもの話か」で
済ませていました。
でも、2ヶ月前の母を見ていると
具合が悪くなってしまってからでは
何も話ができないことが判明。。
せっかくブログも始めたし
戦争の話をきちんと聞いておこうと
インタビューのように
時々スマホで検索しながら
(空襲時の爆撃コースetc.)
記事を書いてみました。。
私だったら…と思うと
とても太刀打ちできないでしょう。
大袈裟かもしれませんが
18歳の少女が教師として
毅然と戦争に立ち向かえた気力は
当時の軍国主義教育のなせる技
…だったのかもしれません。。
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戦後
母は大学での研修教育を受け
正式に小学校教諭の資格を取得。
20年間教壇に立ちました。
母が退職する日
「全校生徒を前にしての
朝礼の挨拶が忘れらない」
…と同僚の方が手紙を下さいました
。.:*:・'°・°*。.:*:・'°・°*
“あなたたちが
これからもずっと
戦争のない平和な世界で
暮らせますように。。”
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