「Where are you from?」
その男を見かけたとき、そんな一言が思わず口を突いて出た。その日は、朝からどんよりとした雲が上空から垂れ下がっていて、11月にしては珍しい程の湿気が街の中に立ちこめていた。左肘や額の傷にはまだ多少の違和感が残っていたが、痛みというほどのものは既に無く、“旅”の終わりが近付くのにつれ、目的を失った僕はただ時間だけが漠然と流れていくのに身を任せていた。
彼が定まらない視線をちらりとだけ自分に向けて「Japan」と答えた途端、ポツポツと小雨が落ちてきて、一緒に歩いていたビクターが大きく溜息を一つついた。
「何でこんなところで?」
僕は、自分の立場も棚に上げて、不躾な質問を投げかけてから、僕が放った日本語をただのノイズとしてしか認識しないリアノやビクターが先を急ぐのを見届けた。男は何かに怯えるようにして相変わらずキョロキョロと見回しながら、被っているヘルメットの小さな傷を指さして、小さな声で酷く吃りがちに話し始めた。
「が、外人部隊なん・・・だ。 こ、ここに、た、弾が当たって・・・し、し、死ぬとこだった・・・」
突然焦げ臭い排気ガスを撒き散らしながら、大きな装甲車が僕達のすぐ脇を走り抜けたとき、彼が一瞬身を屈めとものだから、僕もつられて思わず背を丸めて後を確認した。
「そういえば・・・」
円山さんと2人だけでパターゴルフをした帰りに、喉を潤そうと偶々立ち寄ったパブで、ビジネススーツ姿の若い男性に声をかけられたことを僕は思い出していた。最初は円山さんと自分が日本人だということに大層興味をもっていろいろと質問してくるのに少し警戒していたが、ビールが進んだせいかいつの間にか打ち解けて、円山さんが止めてくれなかったら、あるいは僕も“外人部隊”とやらの契約書にサインをしてしまうところだったのだ。
パトリックという名の、体格の良いその男性は愛想の良い笑顔を振り撒きながら、いとも当然の如く切り出した。
「以前は500人以上はいた日本人も、ほら、あちこちの内戦でね・・・、そうだな、今はざっと50人ほど。10分の1しかいないんだ」
IBMという信用のある企業の名刺を後ろ盾に、まるで懇願するように僕達に入隊を促している必死な様子に、半ば同情するように耳を傾けていると不意に男は付け足した。
「5年だ。5年間生き延びればフランスのパスポートがもらえるし、福祉も受けられるんだ」
そして「世の中の為に働いてみないか」と締めくくってから、しばらく僕達の顔を覗き込んで返事を待っていた。「世の中の為に」というフレーズは若者の心を鷲掴みにするだろうが、意気地のない僕にとってはそれよりも「生き延びられたら」という言葉が引っかかって、彼の投げたボールを受け取れない様な気持ちになっていた。まるで、マニュアル通りの話術に危うく騙されそうな僕の肩を円山さんが2回ほど軽く叩いて「そろそろ、僕等はお暇しますよ」と答えると、パトリックは残念そうな表情を浮かべながらも「送りましょう」と、手に持っていたパイントグラスを一気に飲み干した。円山さんが丁寧に断ろうとしたが、「大丈夫、諦めますよ。つまらない話をしました。忘れて下さい」という神妙な態度に謂われの無い安心感の様なものも覚えて、僕達は彼の提案を呑むことにした。途中、車線を間違えて交差点に侵入したことを除けば、特に問題も無くその晩はやり過ごして、以来彼からは何のコンタクトもなかった。
もし、あの時、パトリックの提案を受け入れていたのなら、僕も今目の前で怯えている男と同じ目に遭っていたのだろうか。
「日本人は君だけか」
「い、い、いや・・・あ、あと2人」
「2人?」
「そ、そ、そう。ふ、2人・・・。でか、出掛けてるん・・・だ」
男を気の毒に思って「帰れないのか」と尋ねると、眉を顰めた苦しそうな表情で下を向いたかと思うと、犬が身体に付いた水分を払い散らすみたいに勢い良く水滴を飛ばしながら首を横に数回振った。
「ぱ、パスポートを、と、と、取られちゃったか・・ら・・・」
そして、今度は恨めしそうに僕の方を睨んだ眼差しに少し狼狽えながら、「僕もね、同じ様なもんだよ」と答えると、彼はざまあ見ろとばかりに厭らしい笑みを浮かべた。
「ウィンプ!」
あの時円山さんが僕のことを遮った様なタイミングでリアノの声が遠くから響いた。
「魔が差す」ということはそういうことなのだろうか。ともすると相手の思うままに操られそうになる瞬間が時々僕達に襲い掛かるとき、意識を正常な軌道に戻そうとする何か別の力が働く。その「魔力」の大きさによっては、大気圏に突入した隕石の如く引力に逆らうことは不可能なのだろう。いうなれば、自分が今存在する場所へは、きっとその様な目に見えない力で導かれて辿り着いているともいえる。
リアノたちは50mほど先で僕のことを待っていたが、小雨混じりの霧雨が濃くなってシルエットの輪郭を霞ませた。僕は男に別れを告げようと振り返ったが、彼の興味は既にこちらにはなく、その場所をグルリと取り囲む様に聳え立っているビル群の方へ視線を上げていた。今にも発砲しそうな具合にギュウっと小銃を握り締めて、白い吐息を小刻みに立ち上らせながら、相変わらず落ち着かない様子で周囲を見渡している姿に憐みすら抱く僕だった。