Are you Wimpy?

次々と心に浮かぶ景色と音。
そこからは絶対に逃げられないんだ。

★「ネット小説大賞」にもチャレンジ中★

19.「愛」の本質

2020年01月31日 | 日記
ドーバーでフェリーを降りると僕たちは真っ直ぐに教会へ向かった。W.W.の仕事を完遂させるには書き溜めたメモを祭壇に奉納しなければならない。ブライトンまで2時間ほどかかったが,僕たちは日が暮れていく海を左手に見下ろしながら何も語らずに旅路を楽しんでいた。

到着すると教会の入り口でニコラス牧師とカリンが出迎えてくれた。これといった儀式というものはなく,僕は前のミッションで提出したノートと引き換えに教会から貰った黒表紙の手帳を差し出した。ニコラス牧師は両手でそれを受けとると軽く会釈をしてすぐに教会に戻って行った。

最初は気づかなかったのだが,表門の脇で赤いウィンドブレーカーを着た若者がデイバッグを足元に置いて待っていた。牧師が運転席から後部座席に乗る様に支持すると,彼は笑顔で挨拶しながらカリンと僕の前を横切った。車はすぐにそのまま走り去った。

「おかえりなさい」
「ただいま・・・」

僕はようやくカリンと抱き合って2人で旅の無事を喜んだ。一瞬全身が緊張から解放され弛緩したが,すぐにカリンの小柄な体をきつく抱き締めながら「君がいないと駄目だ」と呟いた。それは最初のミッションから帰った僕にカリンが言ってくれた愛の告白とも言うべき言葉を鸚鵡返ししたものだった。あれから4ヶ月も経ってようやく素直に,しかも何の気構えもなく自然に口をついた自分自身の言葉に少し驚いていると,カリンが小刻みに震えながら静かに泣き始めた。僕の胸に顔を埋めながら泣いているカリンの髪にキスをしてから,益々彼女のことが愛しくなって力いっぱい抱き寄せた。

僕たちはそのままフラットの方へゆっくりと歩き始めた。まだ夕方の5時を回ったばかりだったが辺りはすっかり日が暮れていて,ブライトンの町並みは秋から冬へと姿を変えようとしている。僕たちの息が微かに白く上がるくらい気温は下がっていたが,すすり泣くカリンの体は温かく僕の冷え切った心と体を癒してくれていた。

9月から一緒に地元のカレッジに通っていて,カリンが僕の部屋に住みはじめてから既に2ヶ月ほどにもなっていた。お互いに支え合いながら暮らしていたが,僕のアジャへの思いが強すぎて本当の意味での恋愛に発展することはなかった。それは,僕自身の我儘でもあったのだが,カリンのことをアジャの代用にしてはいけないと考えてのことだった。それでもアジア人とヨーロッパ人の共同生活は傍目には恋人同士に映っていたことだろう。

だからその日の晩が僕たちの初めての「夜」になった。カリンは部屋に入った途端,躊躇することなく執拗に僕のことを愛撫し続けた。僕は旅の疲れが頂点に達していたけれど,心からカリンを求めたし,カリンも激しく応えてくれた。西洋の女性がセックスに積極的なのは噂程度に聞いていたが,彼女のそれは僕の想像を遥かに越えていて,最初はただ案山子の様に彼女の思いのままに身を任せるしかなかった。彼女の口や膣の中で何度射精しても荒々しい動きは止まらず,濃厚なキスを繰り返しながら僕の身体の上で激しさを増していく。いよいよ呼吸を荒げて全身を膠着させたかと思うとカリンは甲高い叫び声を上げて痙攣しながら僕の耳元で「愛してる」と繰り返し呟いた。僕たちは暖房をつけるのも忘れて明け方まで何度も繰り返し繰り返し愛し合った。彼女の体から上がる湯気と激しい息遣いが冷たい部屋の天井へ上がっていく。僕たちは獣の様にお互いの体を貪り合って,まるでこの数か月間を取り戻そうとしているみたいだった。人間の本能がそうさせているのなら,そこには理性は不在だったのだろう。

憎悪や復讐心が渦巻く戦場にも理性は不在だった。ならば僕自身も人殺しを合法だと肯定する輩と同じ穴の狢なのかもしれない。狂おしい快楽の中で自分を俯瞰するもう1人の自分が語りかけてくる錯覚を感じた。

彼女が「愛している」という度にいつのまにか僕も「愛している」と何度も繰り返して答えている。皮肉にもカリンと始めて出会った時,アジャと別れたばかりの僕が自分のことを「誰も愛せない」という風に紹介したのを思い出した。

翌日の昼過ぎ,喉が乾いて目を覚ました僕は,まだ夢の中にいるカリンの静かな吐息を聞きながら真っ白な背中に軽く口づけしてキッチンへ向かった。ミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫から出して直接ガブガブと乱暴に飲んだ後,大家のウイルソンさんが僕たちの「同棲祝い」にプレゼントしてくれた勉強机の前に座って頬杖をつきながら美しいカリンの寝顔を眺めた。

時計は再び動き始めていた。

僕の中の時計がゼンマイ仕掛けだとするなら,アジャが帰国してからの毎日,錆びついたゼンマイを少しずつせっせと巻いてくれたのはカリンなんだ。

18.決別

2020年01月31日 | 日記
牧師が乗船の手続きをしている間,僕は待合室のベンチで7upをちびちびと飲みながら寛いでいた。

目の前にあった公衆電話にテレフォンカードを入れたり出したりしながら険しい表情でドイツ人らしき親子4人が揉めている。

とうとう父親が大きな声を出して2人の娘と奥方相手に騒ぎ始めたので,見かねた僕はお節介を焼きに立ち上がった。英語で話しかけたが反応がなかったので,スロットカバーを閉じてプッシュボタンの方を指差してやるとようやく理解できたらしく,満面の笑みで礼を言ってきた。

僕にフランスのテレフォンカードの使い方を教えてくれた円山さんの笑顔が一瞬浮かんですぐに消えた。

ラースに習った「テュース」という挨拶を思い出して言うと,親子の笑顔が更に強みを帯びて嬉しそうに「テュース,テュース」と繰り返してくれた。

言葉が上手く通じなくてもこんな単純なやり取りだけで幸福が広がりを見せるのに,どうしてあの場所では同じ言葉を話しているかつての隣人同士が殺し合っているのだろう。

僕は元の場所に戻って,背中を丸めながら深く腰かけるとポケットにしまってあったお守りを取り出して両手で優しく愛でた。ガトウィックで別れる時に僕がアジャにあげた紫色のお守りには彼女の血液が染み付いていて所々痛々しく黒く変色していた。

7月と今回の2度のミッションでアジャやイレイナ,そして円山さんに会うことも叶わず失意のどん底にいた僕は,自分でも焦れったくなるくらい,まだ未練がましくもがいていた。少しでも気を抜くと,耳鳴りのように爆音と悲鳴が甦ってきて気が変になりそうだった。記憶から逃げる様にして耳を塞いで踞っていると,牧師が戻ってきて優しく背中を摩りながら出発の時間を伝えてくれた。

既に火曜日の午後になっていたがフェリーはそれほどは混んでいなかった。

僕は船尾のオープンラウンジのベンチに腰掛けフェリーを追って来る無数の海鳥たちを見上げていた。両親が投げたクッキーの欠片にまとわりつく鳥たちの様子に興奮して幼い兄弟が天使のような歓声を上げている。なぜか底知れぬ怒りと悲しみが込み上がってきた僕は突き抜ける様な秋空を睨み付けて,さっき取り出したお守りを力一杯握りしめた。

すると突然アジャの幸せそうな横顔が目の前に現れた。それはまるで幻想ではないくらいはっきりとしていて,僕は慌てて顔を自分の膝の上に伏せた。すると今度は耳元でアジャの声がはっきりと聞こえた。

「ありがとう,ソーヤン」
ガトウィックで別れ際にこのお守りを手渡した時の彼女の声だった。

「さよなら」
彼女はあの時そう言ってから唇にキスをしてくれた。

僕はしばらく声を殺しながら泣いていたが,海風が背中を優しく撫でる様に流れたと同時に船の汽笛が鳴って,ふと我に返った。

顔を上げるとさっきの子供たちが楽しそうに騒いでいる。それを幸福そうな笑顔で見守る両親や周囲の乗客たち。僕の脳みそを冷却するみたいに風が耳の中に迷い込んできて,その向こう側で船が波を掻き分けて力強く進む音とカモメの鳴き声が混ざった。空はどこまでも青く,浮かぶ真っ白な雲は僕たちの後をゆっくりと迫ってくる。僕の怒りや哀しみが急激に冷まされ温かな気持ちに変わっていった。

僕は何かに引っ張られたみたいにすっと立ち上がってラウンジの端っこまで移動した。そして操られているマリオネットの様に無意識に右手で握りしめていたお守りを顔の前まで掲げてからキスをしてそのまま空中に放った。柵の下には船が立てた白波が力強く流れて消えて行くのが望めた。紫色のお守りは風に煽られながら白波の中へ吸い込まれた。

「アジャ,ありがとう」

僕もあの時と同じように優しく囁いた。

「さようなら」

その時偶然また汽笛が鳴った。

僕は今度こそきちんとアジャを見送ることができたんだと確信した。

それ以来もう涙は溢れなかったし,あの場所から持ち帰ったはずの爆音や悲鳴は小さくなっていった。

17.ブライトン

2020年01月23日 | 日記
アジャ達を見送ってガトウィックから自分のフラットに戻って来たのは8時前だった。
僕をフラットの前で降ろすと,何の余韻も残さず青いフィアットティーポは静かに走り去った。丁字路の先のビーチでは真っ青な空と交わる白波が何本も立っている。歩道に行き交う人たちのシルエット。連休明けのブライトンは忙しなく動き始めていた。


僕が借りているフラットの隣でB&Bを経営するハミルトンという老人がいつもの様にエントランスで友人と歓談している。僕に気づくと,待ち受けていたかの様に元気よく声をかける。

「よぉ,若造。久しぶりだな!」
「元気だね」
「ああ,チャンピオンの気分さ!」

そのまま地下へ続く狭い階段を下りてフロントドアを開けると,丁度でかけようとしていた隣人が楽しそうに話しかけてくる。

「あら,しばらく」
「どうも」

ようやくかび臭い部屋にたどり着いて懐かしい空気にホッとする。少しだけベッドに腰かけたが,僕はそのまま眠る気にもなれずフワフワした感覚のまますぐに出かけることにした。

学校も何の変哲もなく普段通りの騒がしい朝を迎えていた。

僕は空港でイーゴからサンドリンへの手紙を預かっていた。彼はサンドリンに急な帰国のことを伝えてはいなかった。

エントランスでしばらく待っていたのだが始業の時間になってもサンドリンは現れなかった。

僕は仕方なく2階の教室へ向かった。

イレイナと円山さん二人がいないだけでガランとした印象に何となく違和感を感じながら僕が軽く挨拶をして席に着くと,クラスメイトたちが何かを察した様に同情の眼差しをこちらへ向けた。隣の席のビクトリアが小声で2人のことを尋ねてきた。僕は知らないというジェスチャーで答えて授業の準備を始めた。間もなくジェニファー先生が入室して,イレイナの事情を説明した後,クラスの一瞬の動揺を押さえ込むように淡々と授業を開始した。

夢を見ている様なぼんやりとした感覚が残る中で午前の授業を何とかやり過ごした。昼休み,サンドリンが学ぶプロフェッセンシーの教室やカンティーヌへ行って探したのだが彼女は見当たらなかった。僕はサンドウィッチと紅茶を買って食べようと,クラスメイト達とテーブルに座ったが,2口ほど食べて午後の始業時間になってしまった。その時友人たちと何を話したかは記憶していない。

放課後,一人になって回り道をしながらゆっくり海辺のキングズロードを歩いていると,ようやくアジャのいない喪失感が強くなっていくのを感じた。急激に激しい孤独に自分が支配されていくのに気づいて全身が震えた。前日までの満たされた幸福感と正反対の冷たい感情は,まるで麻薬が切れたジャンキーが怯えているのと同じ様なものなのだろう。僕は急に円山さんに会いたくなって大きな歩幅を取ってグイグイとホーヴの町中を急いだ。

20分も歩くと円山さんの自宅前に到着した。どことなくいつもと違う沈んだ雰囲気に包まれた様子に少しおどおどしながらベルを押したが,開いた扉の向こうから円山さんは僕をいつも通り親切に歓迎してくれた。

「やぁ,今朝は大変だったね」
「少しは休めましたか」
「何ともね・・・何かしてないと,気分がね」
「僕も・・・まだ信じられなくて」
「どうぞ」

昨日までのパリ旅行のことを思い返すこともせず,2人とも陰鬱な面持ちでリビングのソファに腰を下ろした。カウンター式のテーブルでサイフォンがコポコポと音を立てていて入れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。ここでは紅茶よりコーヒーというのが定番で,ちゃんとした美味しいコーヒーが飲める唯一の場所だった。カウンターの向こう側に仕切られた小さな作業スペースがあって,組み立てかけのオースチンミニのボディシェルが4ヶ所でジャッキアップされたまま佇んでいる。

「いつもはイレイナが入れてくれるから,今日のは味の保証できんよ」

円山さんは微笑みながらマグカップを僕に渡すとコーヒーを注いでくれた。サーバーをテーブルに置いてカップのコーヒーをすすりながら円山さんがガレージの方へ向かった。僕も招かれるように円山さんの後を付いて行った。円山さんの自宅には何度かお邪魔したことがあったがガレージに入るのは初めてだった。

円山さんとは普段から自動車の話でも馬があった。工業デザイナーとしての視点からあれこれと語ってくれて僕の興味を強烈に刺激してくれる兄のような存在だ。服装や物腰もすべてが英国的で堂々としている立派な紳士で,僕はそんな円山さんを尊敬し慕っていた。

「コイツを完成させてドライブするのが楽しみにだったんだよな・・・」

円山さんはそう言うと息をつまらせた。そんな可愛そうな円山さんを見たことがなかったから,僕も胸がギューと締め付けられた。

「手伝いますよ」

それから僕たちは2時間ほどガレージで黙々と作業した。

夕方6時を回った頃一段落したので食事に誘ったが,円山さんはその日は早く休みたいとのことだった。

別れ際,扉を閉じながら挨拶すると円山さんはソファに腰かけたまま軽く手を挙げて弱々しく微笑んだ。

それが円山さんとの最後の挨拶になってしまった。

16.パリの風景

2020年01月17日 | 日記
賑やかな話し声で僕は目を覚ました。

サイドテーブルに置いてあった小さな時計に目をやると8時ちょっと前を指している。

昨夜は着の身着のまま熟睡してしまった様で,ホテルのセントラルヒーティングのお陰でホカホカとした部屋の中で快適な朝を迎えて気分は爽快だった。

布団の上でヒトらしく眠るのも3週間ぶりだ。

牧師は昨夜出掛けたまま戻っていない様子で,僕は半開きのドアの向こうから聞こえる賑やかな声に吸い寄せられるみたいにフラフラと部屋の外へ出た。

入り口すぐ右手のフロントから威勢のいい声が聞こえた。

「ボンジューフ️」

反射的に片仮名の「ボンジュール」で答えると,フロントで歓談中だった若い男性2人が愛想の良い笑顔で話しかけてきた。何を言ってるのか全く理解できなかった僕は「メルシー」とだけ言ってから逃げる様にして階下へと降りた。急いで駆け降りる僕の背中に投げられた嫌味のない笑い声が心地良かった。

ホテルの前に飛び出してみると,昨夜とは違った動的な雰囲気が漂っていて少しドキドキしたが,朝の澄んだ日差しの中で陽気な声が溢れているのに安心感を覚えて,そのままトボトボと無意識に僕は歩き始めた。

すれ違う人たちがこちらへ軽く視線を向けるのが気になる。髭や髪の手入れをしていないアジア人がモスグリーンのフィールドコートのポケットに両手を突っ込んで背中を丸めながら歩いていたらさぞかし不気味なんだろうと納得して,僕は誰とも目が合わないように下を向いて歩き続けた。

石畳の繋ぎ目を追う様にしてそそくさと歩いていると,通りを挟んだ向こう側からオモチャのラッパみたいな音がパッと聞こえた。

咄嗟にそちらを見ると,中年のパリジェンヌ2人が僕の方を見ながら尻の辺りで手をパタパタとさせて笑っていた。

その様子に思わず吹き出した僕はちょっと元気が出て「ボンジュール」と呼び掛けた。その女性2人も手を挙げてニコニコしながら挨拶を返してくれた。

「11時まで時間があるな。1時間くらい歩いて戻れば丁度いい頃か」

余り腹も減っていなかったし,何だかとても楽しい気分になって,今度はしっかりと顔を上げてスピードを上げながら通り沿いを真っ直ぐ進んで行った。

10分もしないうちに黄葉のコントラストが絶妙なバランスをとった,思わず溜め息が漏れるほど美しい並木通が僕を歓迎してくれた。

まるで絵画にでも描いた様な風景に気をとられながらも速度を緩めずに歩いていると,更に10分ほどしてどことなく見覚えのある広場が視野に入った。

「ここは・・・」

そのまま森の様な並木通を抜けて広場に 辿り着くと,左手に広がる人工的な石造りの公園の向こう側にエッフェル塔が佇んでいた。

ドイツで見た大聖堂と似た畏怖も感じたが,どことなく優しさを纏いながら気品高く立っているその姿に心を奪われて一瞬見とれたのも束の間,突然目眩のような感覚が僕を襲った。

フラッシュバックの様に景色が歪んで,砲弾の音が耳の奥で木霊する。

とうとう立っていられなくなった僕は両耳を塞いだまましゃがみ込んで目をつぶった。

すると畳掛ける様に僕が見送ってきた何人もの人たちの最期の息遣いが甦る。

聞いたことがあるだろうか・・・。老人も子供も,男も女も関係なく漏れるあの声を。

あれは遠い昔,神という存在が土を使って象った人間の体に吹き込んだ息吹が戻る音なのだと牧師は説明した。

しかし,それは決して神々しいものではなく,僕には不快で恐ろしいものにしか思えなかった。

ニット帽の女の子の笑顔,ビクターの笑い声,人々の笑顔,道端の遺体,ジェイ・・・次から次に浮かび上がる記憶に交じってあの不気味な音が聞こえる。

僕の心臓はもはやそれに耐えられそうになかった・・・。

15.後悔

2020年01月17日 | 日記
午後7時頃,まだ日が高いブライトンに戻り予定通り学校の前まで来ると,イーゴがたった一人重たい面持ちをして僕たちを待ち構えていた。

僕たちが降車するとすぐイーゴが青ざめた顔でぽつりと呟いた。
「明日帰らなきゃならない」

一瞬時間が止まった様な気がした。受け入れがたい現実を突然叩き付けられて,誰もが言葉を失ってしばし呆然とした。

「明日,朝6時,ガトウィック・・・」

イーゴの言葉を遮るようにアジャが自国語で話しかけた。意味はわからなかったが声の調子から動揺と哀しみが滲み出ていた。イレイナも加わって3人がしばらく話し合っているのを円山さんと僕はただ見つめるしかなかった。

イーゴが泣き出したアジャを抱きしめて頭をなで始めると,イレイナが僕たちへ近づきながら大きな深呼吸を1つして,決心した表情で語りかけた。

「パリ,本当に楽しかったわね」

イーゴ達の国の情勢が悪化してイギリスから出る飛行機に制限が加えられ,その週の内に帰国しなければならなくなったのだ。イーゴやイレイナの家族との連絡も取れなくなってしまった。飛行機が数回臨時で運行されるが,イギリス中にイーゴ達と同じような身の上の若者が大勢散らばっているから,混み合う前にと慌てたホストファミリーがチケットを予約してくれたのだという。

円山さんが翌朝ガトウィックまで送り届けることを提案するとイレイナが円山さんに抱きついて静かに泣き始めた。するとアジャが僕の方へ駆け寄ってしがみ付きながらしゃくりあげる様にして号泣した。

混乱した僕は状況を整理できないでいた。学校の入り口の階段にイーゴがしゃがみ込んで肩を震わせているのが見えた。

僕はアジャのカールした金色の髪を撫でながら慰めるように優しく囁いた。
「大丈夫だよ。すぐまた会えるからね」

アジャは小刻みに何度か頷きながら泣き続けていた。

「少しの間会えないのが寂しいけど,絶対に会いに行くよ」
「ソーヤン,本当?」
「うん,絶対。君の国に行ってみたい」
「手紙も書くわ」
「勿論」
「約束よ」
「1日に100回書くよ」

僕のくだらない冗談に少しだけ笑ったアジャのことが物凄く愛しくなって,まだ震えている柔らかい体を力強く抱きしめた。アジャも抱き返してくれた。

そのうち僕たちは自然と5人で抱き合って額を合わせたまま「大丈夫」と何度も言い合った。もっとそうしていたかったけれど時間がなかった。

落ち着きを取り戻したイレイナが鞄を持ち上げて声をかけると,アジャもイーゴもそれに呼応して歩き始めた。

円山さんが「送るよ」と言うとイレイナが優しく断った。
「明日迎えに来て。今は歩きたいの」

円山さんと僕は彼らの姿が見えなくなるまでじっと見送った。上り坂の上で3人が腕を高く上げて大きく振ったのを合図に2人で車に戻ってから,僕のフラットに寄って荷物を下ろした後円山さんの自宅まで行って待機する段取りをした。

車が走り出してからの道中は円山さんも僕も黙り込んだままだったが,1つだけ独り言の様に円山さんが呟いた。
「このまま行かせてもいいのかな・・・」

その言葉はあれ以来心に突き刺さったまま未だに僕を苦しめ続けている。

本当は何があっても帰すべきではなかった。今なら分かるけど,それでもあの時はそれが間違った選択だったなんて知る由もなかったんだ。