ジジコと過ごした記憶は旭野が2才になった頃からある。1枚だけ赤ん坊の自分を父が抱き上げている写真があるから、父は 妾だった母の元に幾度か顔を出していたのだろう。どうやらその写真も母が撮影したものらしく、実際に母の顔が確認できるものは何もなかった。ひょっとしてジジコが意識的にそういったものを自分の周囲から排除していた節すらある。しかし、当の旭野には記憶の欠片として覚えていることがいくつかあった。
その1つは、ジジコが自分を母の元から連れ去った日、砂利が敷かれた狭い駐車場の向こうに見える薄汚れた白壁の平屋のちっぽけな1枚ドアを開け放しにしたまま呆然と立ち尽くす母の面影だった。それは僅か5分ほどの出来事で、その時に脳裏に焼き付いた母の姿は豊満で、どちらかと言うと太目の体型だった。
その時のジジコとのやり取りもはっきりと覚えている。乗って遊べるハンドル付きの0系新幹線のおもちゃに跨いで板張りの部屋で遊んでいると、すぐ側の流しでトントントンと母が包丁で何かを刻んでいる音が聞こえていた。そこは、今で言うワンルームアパートの様な作りになっていて、背を向けて母が仕事をしている流しの左手に小さな出入り口があって、それは幼い頃見ていたテレビアニメの「サザエさん」の家の様子に似ている気がしていて、アニメを見る度に何度も思い出すほどだった。
そこへ突然グレーの背広姿のジジコが現れて、すぐさま片方の腕で新幹線のおもちゃを取り上げると、旭野の手を掴んで直ぐ様部屋を後にした。すると母が持っていた包丁の柄を握りしめたまま裸足で駐車場まで追いかけて来たのだ。その時父は振り向き様に「馬鹿!」と言っただけで、そのまま2人でその場を後にしたのが記憶に残っている。
19才の時に自分が養子だという疑惑が確信に変わった後は、その出来事を思い出す度に自らの出生についてあれこれと自分勝手な推理をする旭野なのだった。
それは、こんな具合だ。
戸籍謄本の記録から、旭野が養子縁組されたのは3才の時となっているが、自分の記憶と計算によると2才頃貰われているはずだった。当時、旭野家は朝霞市の集合団地の3階か4階に住んでいて、そこには既に大きな女の子がいて、一緒に住むことになった自分のことをあまり歓迎していない様子だった。玄関から小さなダイニングを抜けて、一番奥に6畳ほどのリビングがあって、その更に奥にベランダがあった。
19才の時に自分が養子だという疑惑が確信に変わった後は、その出来事を思い出す度に自らの出生についてあれこれと自分勝手な推理をする旭野なのだった。
それは、こんな具合だ。
戸籍謄本の記録から、旭野が養子縁組されたのは3才の時となっているが、自分の記憶と計算によると2才頃貰われているはずだった。当時、旭野家は朝霞市の集合団地の3階か4階に住んでいて、そこには既に大きな女の子がいて、一緒に住むことになった自分のことをあまり歓迎していない様子だった。玄関から小さなダイニングを抜けて、一番奥に6畳ほどのリビングがあって、その更に奥にベランダがあった。
ベランダからは大きな駐車場に自動車がたくさん並んでいるのが見下ろせた。ある日、自分が置き放しにしてした三輪車を牽き潰してしまった中年の男性が怪訝そうに残骸を持ち上げてるところを目撃したこともある。そのベランダには"モコ"という名の大きな犬が飼われていたはずなのだが、旭野の記憶には全く残っていない。
リビングから左手に折り返した所に子供部屋があって、襖のような扉を開いて中に入ると、左手には継母が使っていた足踏み式のミシンが、右手にはいつも布のかかったまま使われていないオルガンが置かれていた。その奥に2段ベッドが据えられていて、旭野はそのベッドの下の段に寝ていた。義姉は旭野とは10歳も離れていたから、ジジコと義母の間には長らく子供ができなかったことになる。
ところが1年ほどすると、弟が生まれた。きっとコレがジジコたちにとっては予想外のことだったのだろう。
10年間子供が生まれなかった夫婦のお間に如何なる事情があったのか。この10年というのはどのような意味をもっているのかが鍵だった。それは、自分で家族をもち、親兄弟に一切頼らずに就職し、結婚し、家や車を買い、今や一家の主となった旭野にとって想像するに容易い事の様な気がしていた。
弟が生まれた時、それを機にしたかどうかは不明だが、一家は埼玉県越谷市の一軒家に転居した。その客間に据えられていた大層立派な食器棚に民芸品のコケシ人形が何十体と飾られていたのを思い起こすと、義母は流産し易い体質だったのかもしれない。いずれにしても、長女の誕生から13年もして授かった男の子、つまり嫡男が誕生したわけなのだから、後々、この弟の誕生が自分自身の存在価値を急激に下げてしまう転機となったのは間違いなかった。その証拠に、それからの旭野の人生において、その家にいることが苦痛でしかないような日々が続くことになった。それは、大人になってからも常に感じていることだった。
旭野が北条時輔を慕っているのは、彼の境遇が自分と重なり合うからだ。元寇の時代、執権として歴史に名を残した北条時宗にはもうひとつのエピソードがある。それは「兄殺し」だ。時輔は時宗の異母兄弟で、武士の世の中にあっては至極当たり前の流れかもしれないが、実権を握った時宗によって失脚させられた挙句粛清される。父親の時政にも時輔の存在を疎んじる気配があったのだが、それは嫡男たる時宗や正室に対するコンプレックスの現れだったと見て取れる。
ところが1年ほどすると、弟が生まれた。きっとコレがジジコたちにとっては予想外のことだったのだろう。
10年間子供が生まれなかった夫婦のお間に如何なる事情があったのか。この10年というのはどのような意味をもっているのかが鍵だった。それは、自分で家族をもち、親兄弟に一切頼らずに就職し、結婚し、家や車を買い、今や一家の主となった旭野にとって想像するに容易い事の様な気がしていた。
弟が生まれた時、それを機にしたかどうかは不明だが、一家は埼玉県越谷市の一軒家に転居した。その客間に据えられていた大層立派な食器棚に民芸品のコケシ人形が何十体と飾られていたのを思い起こすと、義母は流産し易い体質だったのかもしれない。いずれにしても、長女の誕生から13年もして授かった男の子、つまり嫡男が誕生したわけなのだから、後々、この弟の誕生が自分自身の存在価値を急激に下げてしまう転機となったのは間違いなかった。その証拠に、それからの旭野の人生において、その家にいることが苦痛でしかないような日々が続くことになった。それは、大人になってからも常に感じていることだった。
旭野が北条時輔を慕っているのは、彼の境遇が自分と重なり合うからだ。元寇の時代、執権として歴史に名を残した北条時宗にはもうひとつのエピソードがある。それは「兄殺し」だ。時輔は時宗の異母兄弟で、武士の世の中にあっては至極当たり前の流れかもしれないが、実権を握った時宗によって失脚させられた挙句粛清される。父親の時政にも時輔の存在を疎んじる気配があったのだが、それは嫡男たる時宗や正室に対するコンプレックスの現れだったと見て取れる。
きっとジジコも旭野に関する事で家族に対して時政と似た「後ろめたさ」の様なものに支配されていたに違いない。ジジコの旭野に対する「教育」は、現在なら児童相談所が関わるであろう程に壮絶なものがあった。何か上手くいかない事案が発生すると、それは全て旭野の存在そのもののせいにされたし、旭野が犯す"子供らしい"過ちも徹底的に叱責され、その尋常ではない“御仕置”は精神的及び肉体的拷問に近い様相を呈していた。