8月4日,日曜日,午後2時。僕は既にドーバーに向かうフェリーに乗っていた。
往きの旅で見かけたイギリス人二人もブリュッセルから一緒だった。防弾ベストやヘルメット,泥や汗や血に塗れた“作業着”のことが不思議なくらいに懐かしく,ふわふわとした軽い体に重力すら失ったかの様な違和感すら覚えて,僕はぎこちなく船上の旅の中にあった。もはや,そこには黴臭い土や金属と硫黄の混じった殺し合いの臭いもなく,ただ少しだけじめりとした夏の潮風の香りが僅かに漂っていた。旅の途中で遇った幼い不思議な兄妹のことを思いながら,上空を漂う雲を見上げては時折目を瞑って,果たしてそれが現実だったのか夢だったのか漠然と考えていた。
同行していた牧師は,イギリス人らしい丁寧な発音で細かく指示してくれたが,僕たちに名乗ることはなかった。でも,出会いが別れの始まりなのだなどという,ある種トラウマの様なものにとりつかれていた僕にとってそれはありがたく,逆に余計に優しくさえ思えたし,牧師はそのことを察していたのかもしれない。
不規則に,しかも唐突に目の前に鮮やかに現れるイーゴやゲイリーの姿を追い払うことができず,断続的に目を開いてはアジャのお守りを何度も握り締めて,僕はただラウンジのベンチに腰かけて俯いていた。
「やぁ,大丈夫かい」
例のイギリス人二人が僕の両側に腰かけた。
「ベネディクトだ,往きでも一緒だったろう,コイツはマシュー」
「僕は・・・」
二人と握手を交わしながら,僕は一瞬自分の名前を言うのを躊躇した。リアノが僕につけてた“Wimp”というあだ名に多少は愛着があったし,いろいろな記憶をまだ整理できないのと同時に自分自身が一体何者なのか証明する自信すらなかった。それに,名乗るということは別れの導入である出会いを受け入れることになるのだから,この短期間に受け入れ難い永遠の別れをいくつも体験した僕には,まるでその名前を自分の手帳に記さなければならないという錯覚すら生じて,酷い抵抗感があった。
「面白いだろ,コイツの名前は“ベンドディック”(折れたチンポ)ってゆーんだぜ」
「何だと,この“マシュマロ頭”め」
何だか二人で示し合わせた様な漫才に絆されて,僕は自然と“ソーヤン”というニックネームを選んで伝えた。
「もう21歳だから,若くはないけど“So Young”」
「同じ歳じゃないか。中国人かい」
「いや,日本から来た」
「じゃあ,あいつは・・・ほら,ゲイリーとか言ってたろ」
「・・・彼は・・・」
一瞬目の前が真っ暗になって「寒いんだ」というゲイリーの最期の声が聞こえた。
マシューがハイネケンの小瓶を僕に差し出して肩を摩りながらベンとの漫才を続けた。
「あいつはイギリス人だ。中国系のな」
「へぇ」
「往きの便所で少し話した」
「小便の友」
「ああ,少なくともチンポは曲がってなかったけどね」
「黙れ“マッシュルーム”め」
ベンが僕の肩越しに何度かマシューの頭を叩いた。余りのくだらなさに僕がクスっと漏らすと「笑ったな,コイツめ」と今度はベンが僕の肩を摩った。僕たちは古い友人の様に瓶をカチンと合わせてから冷たいビールで喉を潤した。二人が僕の頭越しに元気よく談笑を続けた。
「やっぱりビールは冷えてるのが1番だな」
「でもパブのぬるーいビールも懐かしい」
「それにしても,拍子抜けだったよな,戦場ってのは」
「来る日も来る日も物資運びだけで腰が痛くなっちまった」
「そっちはどうだったんだ,ソーヤン」
イーゴの泣き声と僕が見送った大勢の人達の「神の息吹」が甦った。僕はそれを振り払う様に右手に持っていたお守りを固く握りしめ立ち上がってから彼らを見下ろした。二人は一瞬ぎょっとした目で僕を見上げたが,僕が自分の影の下で怯える彼らの様子にはっとして「もう御免だな,あんな仕事は」と応えると二人ともホッとした様に立ち上がって一緒に船尾の方へ歩き始めた。
僕は本当に心の底から二度とは戻るまいと思ってはいたが,イレイナの消息を掴んでいないこともあって,僅かに後ろ髪を引かれる感覚も持ち合わせていた。数か月後,もっと過酷な状況に陥ったかの地へ,まさか自ら志願して出かけることになろうとはその時は微塵も想像していなかった。
「なんだ,ソーヤン,ブライトンなのか」
「俺たちはプレストンだよ」
何の因果か,もう誰とも出会うことを望んでいなかった僕に,神は新しい出会いを下さった。それは新しい「試練」として与え給うたものなのか,この上なく嬉しそうに燥いでいる二人とは対照的に複雑な心境にあった僕には苦笑いしか浮かばず,それが逆に彼らの気持ちを高揚させた。
「マシューのクルマで来てるんだ,通り道だから送るぜ」
「ああ,あの陰気な牧師ともおさらばだ」
僕は彼らの申し出に丁寧に礼を述べてから,教会で待つカリンのことを理由にして牧師と同行する旨を伝えた。見たところ,彼らには教会に届けるべきノートは持ち合わせてはいない様子だったし,彼らが体験したものはどうやら僕のものとは大きく違っていた。
ベンが厭らしい長めの口笛を吹きながら羨ましそうに頷いた。
「そりゃ,仕方ないな」
牧師はマシューが車を預けている親戚の家まで送ると提案したが,二人は早く状況を脱したかったのか固辞してフェリーで車に乗り込むことはなかった。その晩ブライトン駅近くにある“KING&QUEEN”というパブで落ち合う約束をして,僕は黙って牧師の色褪せた銀色のフォードシエラの後部座席で船着き場へ到着するのを待った。船の倉庫はひんやりとしていて,エアコンを装備していない車でも広々とした室内は居心地が良く,僕はそのまま深い眠りに誘われていった。