風に乗れ -Winddriven Current-

ワイヤーフォックステリアのナイトさんとORIXを応援する日々
“Challenge Together @KOBE”

15年目の1.17

2010-01-17 | 風景画-神戸・播磨
1995.1.17 5:46 a.m.

あの烈震から15年が経過しました。
あのとき自分は15歳。
ちょうど震災前を15年、震災後を15年生きてきたことになります。

明らかに神戸では震災を境に街そのものが変わりました。
戦前・戦後で日本が変わったように、神戸では震災前・震災後という言葉がよく使われてます。
震災前の三宮センター街はダイエーのビルがたくさんありました。電気館とか。


その15年前のことを、この日は思い出すことになります。
もちろん、私が経験したことは、人に語れる程度の出来事だったからですが。


(当時の出来事)
15歳だった自分。何度もこちらで書いてますが、思い出す意味で書かせていただきます。
人生初めての受験まであと2週間と迫り、午前2時まで勉強していました。
塾の宿題に追われ、布団に入らずにストーブの前で寝てしまって夜を明かしたりした生活が続いていたわけですが、
その日も同じようにストーブの前で少し仮眠しようとしていたところ、
母親が「もうお風呂はええから布団で寝たら?」と声を掛けられ、宿題は諦めてベッドへ。

その3時間後。
あまりに寝不足で最初の激震は全く気付かないほど寝込んでいたんですが、
2段ベッドの上段で激しい轟音と揺れにうなされる自分。
雨戸を閉めており、部屋はまったくの暗闇の中、寝ているのか起きているのかもわからない状態。

ベッドの下段で寝ていた当時小学生の弟分から、「おい気付けよ。地震やろ」と言われて初めて目が覚めていることを自覚。
雨戸を開けてみたら、机から書棚から落ちた本や文具、なんかの破片が散乱していました。

あのとき、ストーブつけたままじゅうたんの上で横になっていたら、どうなっていたことか・・。
ただ、風呂にはその後2週間入れなかったので、あのとき入っとけば良かった・・と悔やまれるところですが。


その頃、祖父の家にて。
祖父の枕元に25インチのテレビが落っこちてきて間一髪で助かったかと思いきや、
直後に大型の家具が祖父に向かって倒れていきました。
夜が明けて祖母がその状況に驚いたと聞きます。
ただ、テレビが先に落っこちてきたおかげで、家具はテレビを潰しただけで祖父は隙間にいたために助かりました。


その後。
屋根にブルーシート張ったり、ひび割れたカベにシール材注入したり。
ガスが来ないため、給水車でもらった水をアラジンの石油ストーブでお湯を沸かしてカップラーメン食べたり。


(アラジンのストーブ)

父親は、家族のために水を運んだり食料を買ってきたりと走り回り、
ボロボロになった街をなおす歯車になるため、出勤していきました。
この震災がなければ連絡を取り合うこともなかったであろう親戚が心配して電話掛けてきたり。
(電話も不通状態の中、よっぽど根気良くかけてきたらしい)

1週間後、避難所も兼ねていた中学校でクラスメイトに会って喜び合ったり。
職員室で先生がテレビの犠牲者読み上げているときに、
前の学校に勤めていたときの教え子やその母親を亡くしたことに落胆していたり。

祖父は建築家だったので親戚の家の調査などでも奔走してました。
全壊した親戚の家に上がりこんだところ、「靴は脱げ」て言われて苦笑いしたわぁ~って話してました。


2週間後の受験前日、友達と一緒に2時間並んで銭湯に行ったり。
そのボロボロの銭湯で体洗ってるとき、でかい余震が来襲。
外で並んでる人が、「銭湯の建物が浮き上がったわ!」て話してて、半泣きになってました。

受験日。なんとか霞ヶ丘まで開通した山陽電車に乗って、受験会場へ行くことができました。明石方面だったから。

中学卒業式の日、まだあの体育館は、被災者の避難所になっていました。先生方の説得と避難者の好意で体育館、使わせてもらいました。
送辞で壇上に上がった校長が、やはり教え子を多数亡くしたこともあり地震のことを語ろうとして泣き崩れていました。


その年、祖父も私も大好きだったオリックス・ブルーウェーブが優勝。
祖父は阪急ブレーブスからのファンでした。


その後、2~3年経つうちに家を建て替えたり、
弟が多重のアレルギーやアトピーに苦しんだり、目の手術したり、
家を建て替えるときの引越しの際に母親が階段から落ちて顔面骨折したり。
そして祖父が病死したり。


そして私は社会人になり、15年の歳月が経ちました。
今も弟はアレルギーや目の病気と闘っていますが。








当時は停電状態が続き、真っ暗だった神戸も、
今は暗闇になる恐怖もなく、夜が明けたときに見た惨劇も見ることのない平和な町になっています。

辛い経験をしても今を生きてる強い人間が沢山いる町になってます。


それぞれ被害を受けた神戸・阪神・淡路・明石の各地区の今は、あのときがあってこそ。
(ちなみに阪神・淡路大震災というと明石を入れていないように聞こえますが、
 西明石駅周辺も震度7を記録していたことも忘れてはいけないと思ってます。)


だから、今日は「あのとき」を忍ばなければならないのだ。



ただね。
あまりに辛い経験をされてる方にとって、その内容を全て他人に伝えるのは難しいのではないかと思います。

 

 
(1995.1.18.神戸新聞より)


あのときの報道は、状況をリアルに伝えようとすればするほど、行過ぎた避難所でのインタビューなどがありました。
頭に巻いた包帯が血で染まった避難所のおばあちゃんに、「大丈夫ですか?」と聞く女性アナウンサー。
おばあちゃんは「大丈夫です」とにこやかに笑うも、「大丈夫なわけないですよね」と泣き出す女性アナ。

だからといって、この惨劇を知られないままの方が、酷いことになったのかもしれない。
そう思うようにもなりましたが、地震から1週間の番組内容まで覚えてる人はいないですよね。

あのときの惨劇について書かれたのが「満月の夕(ゆうべ)」という歌。



ソウル・フラワー・ユニオンというバンドが被災地で歌われたことから始まり、
その後多くのミュージシャンに歌い継がれてきました。
震災に遭い、私と同い年たちのガガガSPも、この曲を歌い継いでいます。




ガガガSPは、24時間テレビでも放送されましたが、
・震災の出来事は風化させてはいけない」
・でも辛いことをずっと心の内に秘めている人も多い。
 そんな心の傷を音楽を聴いてるときだけでも忘れさせられるようなバンドでありたい。
と語っています。
ガガガSP 24時間テレビ出演(YouTube)

ここで、読売テレビのアホは「あえて風化させたい」と趣旨と違うナレーションを入れてますが無視ですよ。
コザック前田さんは震災の風化を無くすため、いろんなチャリティーに参加されてます。(ガガガSP-Wikipediaより

2009年も地元・長田の町を題材に「NAGATOWN」という曲を出しました。
彼らも私と同じように年をとり、学生から社会人としての立場になり、思春期から大人になった心情の変化や、
今の年齢になってこそわかる親のありがたみや郷土愛が伝わってきます。

歌詞を知ってほしいと思いましたので引用させてもらいます。


【NAGATOWN歌詞】
工場の煙と灰にまみれ 親父は僕を育てた
夢も希望全てこの僕に 託して僕を養った
泥まみれで家に帰ってくる 親父を見て僕は思った
社会で生きるということは何て 大変で難しいのだろう

そして思春期に入りこの僕は 反抗期というのをむかえた
自分のすべてを投げうった親父を 僕は全て否定した
親父の働く長田の街も すべてを含め否定した
工場地帯特有の泥臭さも すべてに嫌気がさしたんだ

しかし人生とは不思議なもんで 今ではこの街を愛し
親父の生きてきた人生も すべてが美しいと思える
長田の泥臭さやガラの 悪さも何もかもが全部
本当の人間の素晴らしさを 表している最高の街だ

形ある物は全て崩れてしまう 震災で崩れる長田の街を
見ながら僕は感じたんだ 世の中の不公平を
いろんな所を上がってる 火の手を見て僕は思った
これは火災の火ではなく 本当の心の炎だ

今の時代の真実を僕からすれば アスベストや不景気などではなく
本当のアスベストや不景気は 人の心の中に宿ってる

生きてる価値は 愛すべきものを どれだけかけ愛せるか それだけだろう
いろんな事が ある毎日を 愛していくそれが 生きていく理由(わけ)だ

心の炎 絶やすことはなく 夢と街と人を 愛していこう
この人生は 一度きりなんだ 育った街や自分を 肯定していこう
Let's Step NAGATOWN!!



そして、私の15歳ときの出来事について、今の15歳は・・
阪神大震災 命の重み受け止めた生徒たち(産経新聞)
それぞれ命の大切さや、生きていることの価値が伝わってるわけですね。


今後、同じ地元でも、震災を知らない人が増えてくることになります。
ましてや他の地域の方に対しても、震災の状況を伝えたいと思うなら、
「経験してみないとわからんわな」という気持ちを押し殺さなければ、うまく伝わらないような気がします。


最近になって、祖母が何度も伝えようとする戦争の状況について、
須磨の海岸に逃げたときに火炎放射で海が燃え上がったという話もようやくリアリティーを持って聞けるようになったと思います。


現実に起こったこととして。
やっぱり相当な被害に遭われた方、犠牲になった方、今もあの震災の影響で苦しんでる方へ精一杯の思いを込めて、
これからも一生忘れないように。

そして、郷土である神戸・明石を肯定して、これからも精一杯生きていこうと思います。

 



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2 コメント

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ガガガの、歌詞が気になって、 (ひとみ、)
2013-04-20 11:35:36
検索したらヒットして、読んでいるうちに、涙がでてきました。わたしも、兵庫県でしたが、神戸ではなく被害が少なかったのですが、たまたま、最近ガガガ好きになって、きいて、いろーーーんなこと、思い出しました。忘れてわいけません、私たちの子供達にもずーっと教えないといけませんね。
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ひとみ、さん (かずまん)
2013-04-23 00:54:21
ご来訪ありがとうございます。
ガガガのメンバーは私と同じ地域出身で同い年だけに,
私も共感できる部分が多くて歌詞も聞き入れやすいと思っています。
また,同じような人生経験を経て,相手の気持ちもわかってくるようになるものですね。
阪神大震災はもはや遠い過去の出来事になりつつありますが,経験しているからこその何か伝え続ける努力を続けようと思います。
またよろしくお願いします。
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