韓国の従軍慰安婦や徴用工への謝罪要求はかなり特殊なものであると理解していたが、ビルマ方面イギリス兵士・捕虜への日本軍の虐待への謝罪・補償要求についての本を読む機会があり、認識を改めた。
1990年代には天皇訪英にからみビルマ方面イギリス兵士・捕虜への日本軍の虐待への謝罪・補償要求がかなり激しいものだったことを理解した。当時、この件にからんだ日本での報道は断片的であったため、全体の構造を理解していなかったことを痛感した。日本への謝罪要求は韓国よりのものばかりではなくイギリスよりも存在しており、結局、イギリス兵士・捕虜への謝罪は失敗していたのだ。謝罪する必要があればの話ではあるが。
このイギリスよりの謝罪要求と韓国よりのそれの経過は以下の点で全くの相似形をしている。
a)国家による”お詫び”はある程度奥歯にものが挟まったような表現であることは避けられないがその点が理解されることはなくマスコミにより揚げ足取りがされている。
b)マスコミが商業目的のために”お詫び”を受諾しない方向で論評しており、いくら"お詫び"してもそれは相手方へ伝わらない。
c)日本文による”お詫び”の内容はそれなりに真摯なものであるにかかわらず、文化・言語の違いによるコミュニケーションギャップが生じ、その真摯さは相手方へ伝わっていない。
d)上記結果、”お詫び”は相手国に受諾されない。
これらを鑑みると”お詫び”を受諾するかしないかは、その国の社会が”お詫び”を受諾するかしないかの”気分(感情)"に依存しており、受諾する”気分(感情)"が醸成されない限りは何をどのように”お詫び”しても結局それが受諾されることはないのだ。絶望的な結論となるが、このような類のことは長い時間が経過して当事者およびその関係者がみんなこの世から去ってしまう以外に解決方法はないのだ。
”お詫び”を受諾するかしないかの”気分(感情)"がイギリスにて醸成されない理由は白人の黄色人種への人種偏見であり、韓国では事大主義であろう。つまりはその国の感覚で本来下であるべき国と考えられている国から、本来上であるべき国と考えられている国へこの種のことが行われた場合は決して謝罪が受け入れられない。
ナチスドイツより連合国への”謝罪”が本当に受け入れられているかどうかはそれに関するレポートを知らないので私にはわからない。現時点で国家的な謝罪要求は具体的にはないようだが、下位レベルで簡単に”謝罪”が受け入れられているとは思えないが。
ビルマ方面イギリス兵士・捕虜への日本軍の虐待への謝罪・補償要求については別な感覚もある。
他人が自分と同じ過ちを犯していることを指摘しても、自分の過ちが許されるわけではないことは承知の上でのコメントだが、確かに日本軍はビルマ方面でイギリス兵士・捕虜へひどいことをしたが、イギリスも随分世界に対してひどいことをしている。それを言わずに自分への謝罪を要求するのみであるのは偽善であるように思う。(日本の原水爆禁止運動が日本の戦争責任に触れずに被害だけを申し立てれば説得力がないことと同じように。)
サンフランシスコ平和条約での連合国の日本への賠償放棄は徳であると認識できる上でのコメントである。
イギリスの行ったひどいこととはアジア・アフリカへの植民地支配、中国へのアヘン戦争、パレスチナ・中東での3枚舌外交そして他人の血を蛭のように吸い続けているイギリス系タックスヘイブンを指す。
参考;「日本人はなぜ謝り続けるのか」中尾知代 NHK出版