木を見て森を想う

断片しか見えない日々の現象を少し掘り下げてみたいと思います。

ワクチン陰謀論という陰謀

2022-12-11 17:08:42 | 時事

米製薬大手ファイザーの幹部は10月11日、新型コロナウイルス対応に関する欧州議会の公聴会で、自社の新型コロナウイルスワクチンが昨年市場に出回る際、伝染を防ぐことができるかどうか把握していなかったと述べました。感染拡大防止に寄与するか否かの検証が行われていなかったことがファイザー側から証言されました。

武漢コロナウイルスに対するワクチンの有効性に関しては、ワクチン接種開始当初から様々な疑義が示されていました。それも免疫学や感染症、ワクチンに関する様々な専門家からです。そのような疑義に対して、推奨側はワクチンの有効性は実証済みであると断言して、その有効性に対する疑義にまともに対応しようとはしませんでした。少なくともマスコミ上で有効性に対する疑義への誠実な対応はなかったと記憶しています。

ワクチンの安全性に関しても接種開始当初から様々な懸念が示されてきました。特に妊婦や乳幼児、アレルギーを持つ人々は大変に不安であったであろうし、事実それらの人々への接種がもたらすかもしれない深刻な影響を危惧する専門家も多数ありました。しかしそれらの声は荒唐無稽な反ワクチン陰謀論と一緒くたにして退けられてきました。

反ワクチン陰謀論としては、ワクチンによってマイクロチップを埋め込まれる、ワクチン接種者がワクチンをまき散らし非接種者にも接種されるなどのようなおよそ科学知識のかけらでもあれば信じ込めないような荒唐無稽なものも多数あります。このことにより陰謀論を信じる者は知的に劣るものというレッテル効果があるのではないでしょうか。そしてワクチンに対する素朴な疑義や懸念をこのような陰謀論扱いすることで、ワクチンを素直に受け入れる人々を「知的で科学リテラシーを有する」人々、ワクチンに懸念を示す人々を「知的に劣り科学リテラシーのない」人々とするレッテル効果があるように思います。このことは、少なくとも一定の「自分はリテラシーにかける知的に劣る」とは思われたくない人々にそのような疑義や懸念を「デマ」だと思わせる効果はあるのでしょう。

Wikipediaによると、陰謀論とは何らかの状況に対する説明で、「邪悪で強力な集団(組織)による陰謀が関与している」と断定したり信じたりするものだそうです。様々な陰謀論がありますが、それらは検証不能で、検証不能であるがゆえに荒唐無稽なものも多々あります。

その一方で、陰謀論とされたものの中には重大な真実を含むものも多くありました。水俣病などの公害病などは発生当初は陰謀論扱いされてきましたし、北朝鮮による国家ぐるみの拉致はその最たるものでしょう。拉致などという極めて野蛮な人権侵害に、一部マスコミによって「地上の楽園」とまで持ち上げられた国が関与した、という指摘は荒唐無稽そのものでした。北朝鮮による拉致の可能性も含めて真相を解明しようとする努力は、「地上の楽園」である北朝鮮を貶め、共産主義を攻撃しようとする右翼の陰謀であるという陰謀論にすりかえられたのです。

したがってある言説が「陰謀論」と決めつけられるならば、何らかの不正を企む人々が隠蔽したい、かれらにとって「不都合な真実」がその言説に隠されている可能性を考えなければならないのです。ワクチンの有効性に関する疑義は陰謀論、ワクチンの安全性に関する懸念は陰謀論、のような「陰謀論」の連呼があるとき、私たちはワクチンの有効性や安全性に関する疑い持つべきなのです。なぜそこから人々の目をそらしたいのかという意図を考えるべきなのです。「陰謀論」の連呼は、そこにそのように連呼する人々が隠蔽したい何かがあるかもしれないから。

そして有効性に関する疑念が実は事実であったことが明るみになった今、ワクチンに対する疑義を「反ワク陰謀論」と決めつけていた人々は次のいずれかであることになります。(1)ワクチンの有効性が確かでないことを知らないにもかかわらずにその有効性を断言し、その有効性に疑義を唱える人を反ワク陰謀論にはまった愚かな人呼ばわりしていた、(2)あるいはワクチンの有効性が確認されていないことを知ったうえで、すなわちワクチン有効性に対する疑義が正当であることを知りながら、それらを反ワク陰謀論扱いしていた、のいずれかです。(1)の人は単なるおバカのように見えます。ただ、多くのマスコミ等はこの範疇ではないかと思います。マスコミには(彼らがそう考える)その道の権威のレクチャーを垂れ流す傾向があります。これについてはまたの機会に論じたいと考えています。マスコミの影響力は衰えたとはいえいまだ強いものがあり、単なるおバカと言って笑って済ませられるものではありません。(2)は効果の疑わしいワクチンを多くの人々が摂取することにより何らかの利得のある人々、つまり不正に積極的に関与した人々と考えざるを得ません。その人々がマスコミにそのようにレクチャーしたのでしょう。

それではどのような不正があったのでしょうか。この不正によって儲かる人々を挙げていくと、ワクチンを製造する製薬会社、その株主は筆頭でしょうか。一部の医師や医療機関もそうでしょう。製薬会社は実際には医師による処方がなければ売上がないので、医師と製薬会社の関係はきれいなものではありません。多くの研究者はその所属機関によって支給される研究費だけでは研究を行うことができず、公的、民間の資金に頼ります。その中でも製薬会社の研究費は莫大であり、医、薬学系、バイオ系の分野ではその研究費にからめとられているような研究者も少なくないようです。今回厚生省の方針決定に関わった多くの医療技官もこのような研究者であったのかもしれません。あるいはワクチン接種に関わった医療機関でしょうか。

ここで注意しなければいけないのは、怪しいと思える人を挙げることはできてもその不正の全貌は現時点ではわかりようがないということです。点と点を結んで物語にしてしまうと、陰謀論と決めつける人々の思うツボです。重要なことはそこに大きな不正が潜んでいることを認識することです。特に今回のようにその不正が私たちの健康に直結するような場合には。

現在多くの人々が3回目あるいは4回目以降のワクチン接種を控えているようです。このように自身の判断で接種を控えることができる人はその判断を大切にすべきです。一方、それが社会のための善であると信じて接種を続けている人もいるでしょう。これまでに本ブログで「日本人の強み」として捉えてきたことがむしろ弱みとなっているのかもしれません。これについてもまたの機会に論じたいと思います。

今回のワクチン不正によって、マスコミを使った扇動、デマによる誘導の一端が見えたように思います。私たちは真実を知らない側にいます。しかし今回は、自分の専門分野からは離れるものの、自然科学分野である程度馴染みのある分野であるため、ワクチン不正という大きな仕掛けに潜むデマに引っかかりを感じることができ、またマスコミがそれをどのように報じるかを見ることができました。報じるというよりも、虚偽による誘導、扇動という方が当たっているように思いますが。そしてその引っかかりは、前の米国大統領選やロシアウクライナ紛争に関しても同様に感じたことです。次回からそのパターンについて述べたいと思います。


巨星墜つ

2022-07-10 17:50:08 | 時事

安倍元首相が銃撃により死去されました。日本国民にとっても、平和を志向する世界の人々にとっても、あまりにも惜しい政治家でした。

安倍氏ほど一途に日本を想い、日本のために身を捧げてきた政治家は見当たりません。日本人行方不明者が北朝鮮によることが、陰謀論として扱われていた時から、北朝鮮の犯罪に真っ向から立ち向かい、糾明してきた最初の政治家の一人が安倍氏です。今の日本で日本人拉致について北朝鮮を非難することは誰でもできます。当時、北朝鮮による拉致というのは完全に陰謀論でした。北朝鮮の手先となって北朝鮮のプロパガンダを垂れ流す一部マスコミ、北朝鮮と一体化した一部政党や労組、北朝鮮と共犯関係にあった裏社会勢力などを相手の、政治家生命だけでなくまさに命を賭した闘いだったことは容易に想像できます。それら勢力に手を貸し、安倍氏らの奮闘を妨害する仕組みこそ戦後レジームと見抜き、それと真っ向から立ち向かおうとしたのが、それからの安倍氏ではなかったでしょうか。

戦後レジームとはまさに世界中を食い荒らそうとするグローバリゼーションと一体化したものであったように思います。日本を貶め、国富を近隣諸国に吸い上げさせようと画策する革新を名乗る国内勢力だけが安倍氏を妨害したのではなかったと考えます。新自由主義を推し進めて国富をグローバル企業に吸い上げさせようと画策する自民党内勢力、意図的か否かにかかわらずグローバリズムのいいなりとなって日本解体に手を貸す財務省や文科省、そして何よりグローバリズムの手先となって総力を挙げて愛国者安倍氏をつぶしにかかった大手マスコミたちでしょう。大手マスコミには保守をかかげる某新聞も当然含まれると考えます。安倍氏の闘いは、自身の政策を実現するために働くはずの官僚のサボタージュ、捏造も辞さずに安倍氏を貶めて支持をそらそうとするマスコミ、同じ政党であるにも関わらずグローバリズムの手先となって日本解体に積極的に手を貸す政治家、これらすべてとの闘いであったように見えます。

安倍氏は偉大なナショナリストでした。ナショナリストとは日本が栄えれば他国はどうなってもよいという考えではありません。安倍氏は世界レベルで日本と他国とのWin-Win関係を求めてきた政治家であったと思います。それはグローバリゼーションと戦うすべての国との同盟を可能にするものでした。プーチン大統領率いるロシアとさえ一時協調が可能に見えたのも不思議ではありません。安倍氏の死去を受けて、トランプ大統領の深い弔意、インドやブラジルでの国を挙げて服喪するのは大いにうなづけることと思います。

安倍氏にとっては、日本を完全には取り戻せなかった、横田めぐみさんを含めて北朝鮮による拉致被害者を取り戻せていない中での志半ばの無念の死であったことでしょう。しかし安倍氏がこの世に存在しなければ、今でもニュースでは北朝鮮ではなく朝鮮民主主義人民共和国と呼称され、北朝鮮の犯罪行為はとどまることを知らず、さらにそのことを口にすることすらタブーであったかもしれません。郵政民営化を皮切りとして日本の国富を外資に売り渡す政策が粛々と推し進められていたかもしれません。皇室も存在はするものの何やらよくわからないものに取って代わられつつあったかもしれません。安倍氏一人の力ではなくても、旗頭たる安倍氏の存在があったからこそ、今なお辛うじて日本が存在するといっても言い過ぎではないように思います。その意味でこの混乱の時代に安倍氏のような政治家を持てたことはまさに奇跡であったとしか言いようがないように思います。この奇跡のような功績を日本人一人ひとりが理解し、受け継ぐことは私たちの責務でしょう。

安倍氏の闘いは私たちの戦いでもあります。日本だけでなく世界の宝であった安倍さんを守れなかったことは日本人にとって重い十字架になるかもしれません。幸い安倍氏は多くの後進の政治家を育ててくださいました。私たち有権者にできることはそれらの政治家への積極的な支持、だと思います。どの政治家を支持すべきかしっかり考えることが必要です。中には安倍氏の薫陶を受け、引き立てられてきたにも関わらず、嬉々としてグローバリズムの手先となっているような政治家もいるようですから。

 

安倍氏のご冥福を祈るとともに、日本人として神となられた安倍氏に恥ずかしくない生き方をすることを誓って合掌。

 


Chinaの民主化はありうるのか?

2021-10-09 17:51:42 | 時事

China共産党が諸悪の根源か?

China経済の行き詰まりが報道されています。普通は経済の行き詰まりは政権の行き詰まりを意味します。民主主義体制であれば、政権が行き詰っても政権交代をすれば済みます。さて、権威主義による専制のChinaではどうなるのでしょうか?

 巷には現状のChinaを取り巻く混乱について、China共産党政権を諸悪の根源のように決めつける言説が見受けられます。China共産党政権が倒れさえすれば、Chinaは民主的でまっとうな政権が誕生し、周辺諸国とうまくやっていけるのでは、というものです。あるいはChinaは人口規模が大きすぎて民主主義を機能させるためには人口が大きすぎるため、4か国程度の民主主義国に分裂すると良い、というのもあるようです。今回はChinaの民主化の可能性について考えてみたいと思います。

 China共産党が様々な悪を生み出していることについては疑問の余地はありません。しかし、China共産党を除去すれば、Chinaは民主化して、台湾のような同じ価値観を有する友好国に生まれ変わるのでしょうか。私はChina共産党政権が倒れることがあっても、同様の権威主義政権による専制政治になると思います。もちろん誰も政権がとれずに、ぐだぐだに分裂した不安定な状態がしばらく続くことも十分考えられますが。

民主主義の前提条件

民主主義が成立するためにはいくつかの前提条件があるのではないでしょうか。国民の真っ当な権利意識は言うまでもありません。自分の物は自分の物だと主張できることです。国民の間の遵法意識もその1つだと考えます。他人の物は他人の物なのです。権利意識とも関わりますが、社会的に上位の立場の者に対して遵法を求める姿勢も重要です。権力者だからといって好き勝手出来ない、権力者も法に則ってしか権力をふるえない、という意識が上から下まで共有されることが、民主主義が機能するための大前提であるように思います。

 民主主義の前提条件が満たされた過程を考える前に、世界的に民主主義が機能している国を見ていきたいと思います。中欧を含む西欧(バルカン諸国やスラブ諸国は含みません)、北米、中南米の一部、オセアニア、東アジアの一部、東南アジアの一部、南アジア、イスラエル、トルコなど中近東のごく一部、アフリカの一部ということになるでしょうか。この中で、自力で民主化したのはほぼ西欧、日本および米国に限られます。

 欧米の植民地であった国々も独立の過程で民主化に至った国々も多くあります。不十分ではあっても法治を経験したこと、植民地支配下あるいは併合支配下で芽生えた強烈な民族意識がプラスにはたらいて民主化に至ったのでしょう。インドや台湾などがこの範疇にはいるのではないかと思います。

自力で民主化した国々

 欧州や日本など自力で民主化した地域は支配者と被支配者の間で、Win-Winが成立するような歴史を経験しています。欧州ではその後絶対王政になりましたが、Win-Winに基づく規範意識の発達があったため、被支配者の権利意識や支配者に対する遵法を求める意識が高まったことが市民革命の基礎となったのではないでしょうか。

 一方日本では、明治維新までは欧州のように明文化された法体系を持つには至らなかったかもしれません。ただし、江戸時代には武士と百姓の間は検地という契約に基づく納税や、また農村では百姓による高度な自治が行われており、法治による秩序が維持されていたといってもよいと考えます。明治維新によって封建制が破壊されたというよりも、Win-Winに基づく社会の発展により、封建制では立ちいかなくなっていたのでしょう。当時の日本人がより高度な法治を求めた結果、徳川体制では収まり切れない状態に達していたのではないでしょうか。したがって明治維新後の自由民権運動の高まりに始まる民主化は歴史の必然だったように思います。アメリカの占領政策で日本が民主化したわけでは決してなく、むしろその時点ではアメリカより日本の方がはるかに進んだ民主主義国でした。当時アメリカでは選挙権があったのは白人だけでした。

他国の支配を経て民主化した国

欧州や日本のように外の力を借りずに民主化に進んだ国以外にも民主主義がよく機能している国があります。そのような国々ではどのようにして民主主義の前提条件を得たのでしょうか?台湾を例にとって考えてみたいと思います。

 日本による統治前の台湾は清国の領土ではありましたが、マレー・ポリネシア系原住民と漢民族が暮らす島で、マラリアを始め伝染病の蔓延もあり人口はさほど多くありませんでした。また清国は統治には消極的であったそうで、原住民の小王国やChina本土で食いっぱくれた貧民や海賊などの漢民族が入り混じる、西部開拓時代のアメリカのような様子であったのであろうと推察します。China本土より統治程度は低かったこと、また原住民の比率がそこそこあったことから、荒っぽくはあっても人間社会がもともと持つWin-Winの気風はそれほど損なわれていなかったとのではないでしょうか。

台湾民族の誕生を生み出した日本による統治

 日本による統治に対しては、何度も暴動をおこしては鎮圧されています。しかし日本は完全な法の支配による統治を目指したようです。法治といっても台湾人から見れば理不尽な占領統治であり、そのような意識が台湾民族としての民族意識を高めたのは間違いないと考えます。一方、総督府はマラリアを始め伝染病の撲滅や、灌漑、鉄道、製糖などによる農産業振興を行い、台湾は急速に文明化し経済発展しました。おそらく当時の台湾人から見て、日本は理不尽な占領者から台湾人にWinをもたらす支配者として変化していったのだと思われます。李登輝元台湾総統の自伝などからも日本人としての意識を強く持っていたそうです。あと数十年日本による支配が続けば台湾人の民族意識も薄まって完全に日本民族化してしまったかもしれません。

 日本の敗戦後、台湾を占領したのはChina国民党でした。China国民党というと、結党当初こそそれなりに高い理想を掲げていたようですが、すぐに単なるごろつき集団になりました。Chinaの国共内戦とは共産党組と国民党組という暴力団の抗争とみなせるのではないでしょうか。日本の敗戦後、国民党による支配を受けた台湾は、いわばChinaの暴力団抗争に巻き込まれたとみなすことができます。

 暴力団によって国を乗っ取られた台湾人はしかし、すでに民族意識を持ちはじめ、高度な法治の概念を持ち、Win-Winが理解できる人々でした。苛烈を極め、腐敗著しい国民党支配の下で、台湾人の民族意識は急速に高まったのでしょう。それらが台湾人の法治や民主主義への要求を高め、李登輝元総統による民主化の後押しをしたと考えることができます。

話はそれますが、台湾の独立とは共産党Chinaとは何の関係もないものです。China本土の暴力団抗争から自由になることです。国民党が民主主義政党に変革し、民主的な政権交代が行われた現在、台湾はすでに独立しています。ただ、それを声高に宣言しないのはChina共産党への刺激を避けるというよりも国内の外省人(China本土人)の存在によるものではないかと考えます。China国民党とともに多くのChina人が共産党から逃れて台湾に渡ってきました。彼らは台湾民族意識を持たず、大陸とのつながりもあり、おそらく暴力団による支配に対する抵抗もないのでしょう。台湾民族による民主主義より、本土Chinaとの経済的な結びつきの方を重視する人も多いのでしょう。したがって現時点での台湾独立宣言は台湾国内の深刻な分断の原因となる可能性があります。ただ、台湾民族を主体とする完全な法治の下で、少数民族である外省人もいずれ台湾民族化していくと思われます。そうなったときが台湾の真の独立と言えるのかもしれません。

China社会は民主主義の前提条件を満たしているか?

台湾の例で見ると、法治による秩序の経験が権利意識および遵法意識を高め、民主主義が機能する前提条件が満たされるのではないかと考えます。インドなども同様のことが当てはまるように思います。ガンジーに導かれた非暴力による独立も、不平等ではあっても法治下であったからこそ可能であったと考えます。

さて、Chinaの場合においても、民主主義が定着するためには、厳格な法治による秩序の維持が数世代にわたって継続することが必要であると思われます。しかしながら、Chinaは有史以来、法治を経験したことがありません。被支配民は支配者の意のままに収奪され、支配者と被支配者の間のWin-Win関係は成立しようがありませんでした。さらには被支配民同士にもともとあったはずのWin-Win関係すら破壊され、不信社会が出来上がってきたのでしょう。そのような社会環境の中で、健全な権利意識や遵法意識が芽生えるとはとうてい思えません。

外国に統治されることによってもChinaの民主化は可能でしょう。香港がその例です。しかしながら、このご時世でChina全土を統治してあげようなどというお人よしの国はどこにあるでしょうか。戦前の日本くらいでしょうし、私は日本が最も反省すべきは、他国の統治に善意で関わったことではないかと考えています。これについてはまたの機会に考察したいと思います。

話はそれますが、米国がアフガニスタンを民主化するたった一つの方法とは日本による台湾統治をモデルにすることだったと考えます。法治を経験したことのないアフガニスタンで民主主義が成立するとは考えられませんし、またアフガニスタン民族としての民族意識を持たない多数の民族が1つの国にまとまろうと思うこともあり得ないと考えるからです。ただ、現在の国際環境の中、民主制を敷かずに他国を長期間支配することはおそらく許されることではないのでしょう。そう考えるとアフガニスタンが民主化するのは不可能なことだと思えてきます。

Chinaの民主化は考えられない

 現在の腐敗しきった共産党政権が倒れたとしても、Chinaに民主主義政権が誕生する見込みはないと考えられます。仮に民主的な指向を持つ政権が樹立されたとしても、人民の側が民主主義の準備ができていないのです。賄賂で法をすり抜けようという人はなくならないでしょうし、投票用紙の偽造や票売買が横行することでしょう。たとえ当初は高い理想を掲げた政権が誕生したとしても、ほどなく民主主義やその前提となる法治は腐食され、無秩序状態となっていくことでしょう。

Chinaという社会土壌では、権威主義による専制でなければ秩序の維持は不可能だと思われます。Chinaという社会土壌では権威主義による専制に収斂していくのでしょう。お隣の国が民主化するかもしれないなどとの幻想を抱くことなく、腐敗した専制国家と冷徹に対峙する覚悟を持つべきだと思います。


ウイグル人迫害問題で思うこと

2021-04-05 07:25:50 | 時事

ウイグル人問題は人権問題?

最近にわかにウイグル人への弾圧に脚光が浴びています。ウイグル民族だけではなく、チベット人やモンゴル人への迫害は共産Chinaの建国以来続いてきたものです。特に文化大革命時のChinaにおける少数民族への迫害は陰惨なものであったと言われています。特定の民族の人種的および文化的な抹殺はそれ自体ナチスのユダヤ人に対する迫害に何ら変わるものでないだけではなく、その継続期間を考えるとナチスのユダヤ弾圧がかわいく思えてくるほどの重大なジェノサイドです。これらの事実が周知のものでありながら、一方でChinaとの友好や関与政策などが掲げられてきたのです。Chinaによるジェノサイドが注目されること自体はよいことでしょうが、今になってことさらに取り上げられることへの違和感は禁じえません。

蛇足ですが、ナチスの犯罪行為をことさらに取り上げる人々ほど、また気に入らない言説にナチスだのヒットラーだのレッテル貼りをする人々ほど、Chinaの非人道的なジェノサイドを見て見ぬふりをするような印象を持ちます。なぜなのでしょうね。

人権と「人権」

ウイグル人、チベット人、モンゴル人に対する迫害、ジェノサイドに関する報道への違和感の正体を考えると人権という言葉に行きつきました。人権とは人が生まれながらに持っていて、国や他人に侵害されてはいけないものだ、とされています。それを護る主体があって成り立つものです。人権を護る最大の主体は国であろうと考えます。国を超えたものとして、国際人権法なるものがあるそうですが、何ら罰則や強制力を持つものではありません。

追求すべき理想として掲げることはよいことかもしれません。しかし、それを実現する手段を持たないのであればファンタジーとしての人権です。ファンタジーであるがゆえに無限の広がりをもたせることができてしまいます。そして現実から離れた絶対的な人権を求めることができます。このようなファンタジーとして人権を鍵かっこ付きで「人権」とします。

誰が人権を護るのか

日本を含む民主主義国では憲法その他で人権が手厚く保証されています。日本では、憲法において包括的自由権、法の下の平等、思想・良心の自由、信教の自由、学問の自由などの内面の自由、職業選択の自由や居住の自由、奴隷拘束からの自由、受益権、社会権、参政権などが明記されています。このように、約束事として、機能として人権として捉えることができます。

人権はそれを護る主体が明確です。私たちの人権を護るために日本国政府は膨大なコストをかけています。私たちが犯罪者の餌食になることを防ぐために警察や司法が整備されていますし、敵意ある近隣国の国家犯罪による人権侵害を防ぐために、十分とは思えませんが自衛隊も整備されています。

 政府が人権を護る主体であるとするならば、論理的には権威主義国家でも人権の尊重は可能です。いくつかの小王国などで必ずしも民主主義体制ではなくても、公正で有徳の王様が国民の人権を尊重して平和に暮らしている、という例はこれまでもいくつでもありました。ただ権力者と国民との力関係が一方的である場合には、そのような関係は権力者側の一存で反故にすることができます。人権を護る永続的なシステムとしては、国民が主権者となる民主制をとるしかないように思います。

人権とは限定的で相対的なもの

 一方、人権は民主主義国家の運営のためにはきわめて重要な機能を持つと考えます。民主主義のルールというのは多数の人が賛同によって集団としての意思を決定することだと理解しています。話し合いで決まらなければ多数決で。しかし多数の賛同によって嫌われ者を排除することができれば、それは全体主義です。全体主義化のブレーキとなるのが人権だと考えています。少数派を護るためのブレーキともいえます。

ルールあるいは機能として捉えた人権とは、きわめて限定的でかつ相対的なものです。法の下の平等という絶対原則がある以上、ある人の人権の無限の追及が他の日本人の人権侵害になってはなりません。山奥や離島で生活すれば、すべてのしがらみから解放されて完全な自由が達成できるかもしれません。しかしもし家族がいたら?子供の教育を受ける権利が侵害されているともいえます。

人権とは相対的であり限定的であるために、ある個人の絶対的な自由や権利であるファンタジーとしての「人権」は常に侵害された状態にあると言えます。つまり、ファンタジーであるがゆえに「人権」問題はどこにでも作り出すことができます。ある個人や団体に無限の絶対的な「人権」を与えよという「人権」問題は解決不可能です。

恣意的に作り出せる「人権」問題

したがって、「人権」問題の提起はその解決そのもの目的とは思えません。むしろ、解決できないことを前提に、その妥協案として何らかの経済的なメリットを得るとか、政治的なごり押しをするための口実として「人権」問題が利用されているように見えます。その結果重大な人権侵害が発生し、民主主義社会が損なわれるとしても。社会の分断や混乱を意図しているのかもしれません。そのことはいわゆる「人権」団体の多くが、暴力革命すなわち民主主義の破壊を目指している政党と結びついていることからも明らかです。

 差別問題も同様にしてつくりだすことができます。もちろん本当の意味での差別問題は許容できるものではありません。ただ、どこにでも作り出すことができる「人権」侵害の原因を、侵害されたとする集団の属性に対する「差別」とすることにより、「差別」問題もどこにでも作り出すことができるのです。

「差別」問題が騒がれるとき、この騒ぎで誰が儲かるのか、と考えてしまう私は相当心が汚れているのかもしれません。その中には許してはいけない、本当の差別問題が含まれている可能性もあるのですから。「人権」問題を食い物にしている人々のために、人権ということばを胡散臭いものにしてしまっていることは極めて残念なことです。

ウイグル問題の解決とは?

さて、Chinaや北朝鮮の人民に人権はあるのでしょうか?かの国々は法治ですらありません。法の支配のない国で、ルールとしての人権が成立するわけがありません。

もっともChina当局に言わせればウイグル人の人権も手厚く保護されているかもしれません。China国内における人権とは、二足歩行をする権利であったり、手を使ってものを食べる権利であったり、賄賂を払ったりという権利であるとすれば。しかし仮にそれらを人権といっても、当局の一存ではく奪されるのがChinaという国です。日本人並みの人権は、ウイグル人、あるいは一般のChina人どころか共産党貴族にも認められていません。もちろん貴族には人権はなくてもピンハネや収賄による蓄財の「特権」はあるようですが。

以上のように考えると、ウイグル人に対する迫害、ジェノサイドは「人権」問題です。1世紀近くにも亘って行われてきた人道犯罪が、これまでほぼ無視されてきたにも関わらず、なぜか今になって取り上げられるのか、という違和感の正体はこれが「人権」問題であることでした。もちろんこれをきっかけにこの人道犯罪が解消されればいいのですが、それはChinaの支配からの独立を抜きにしてあり得ないといってもいいでしょう。根本的な解決なしにこの「人権」問題が話題に上らなくなるとすれば、それは何らかの政治的あるいは経済的な誰かと誰かの裏取引を示唆するのではないでしょうか。


独裁は強いのか?

2021-01-31 07:55:10 | 時事

年が明けて早一か月経ってしまいました。本業の論文執筆に忙殺されてなかなか時間が取れませんが、少しずつ投稿していきたいと思います。今年もよろしくお願いいたします。

嫌われる独裁者

コロナ禍の世界において、Chinaはその強権によっていち早く危機的状況を脱しました。そのことをもって、民主主義に対する独裁体制の強みとして宣伝しているようです。確かに、人権を考慮する必要がないということおよび合意形成に時間をかけずに済むことから、極めて強権的な政策をトップダウンで迅速に取ることができます。

また、混迷の極みに達したアメリカの大統領選挙にChinaの介入があったとの指摘もあります。その真偽のほどはわからないとしても、オーストラリアの政界工作が露わにされたことからも、Chinaの介入が事実であったとしても、やはりそうだったのだろうという感想しかもたないでしょう。民主主義体制は悪意の第3者に付け込まれる隙は確かに持っています。しかし本当に独裁体制は強いのでしょうか。

Chinaは確かに初期の感染爆発の状況をうまく避け、危機的状況から早く脱しました。しかし、その有利な状況をうまく利用することはできなかったようです。全世界に対して、それも全世界が注視する中、相手の足元を見た強請のような態度をとってしまいました。全世界に対して、Win-Winで行くつもりがまるでないことを露わにしてしまったのです。そして欧米各国の対China感情を大きく悪化させることになりました。2020年10月の時点で多くの欧米諸国でChinaに良い感情を持っていない人の割合が7割以上となっています(Pew Research Center社、アメリカ)。

世界の親China派の梯子を外す習近平総書記

習近平総書記の打つ手ごとにChinaを孤立に追い込んでいるように思えます。コロナ感染者が見つかった当初の対応に関する隠蔽、各国から防護服やマスクの買い占め、それらの商品の外国への出荷の停止、等々です。それらが露見した時、謝罪する、またその方針を是正するなりするどころか、習近平総書記を始めとしてChinaの高官は、開き直り、恫喝を繰り返します。このような行為はどのような効果を生むでしょうか。

どの国にもChinaに対して好意を持つ人は一定程度います。もちろん単純な感情ではなく、利権を持っている、あるいはそれほどでなくても利害関係からその国を大事にしなければならないと考えている場合などもあるでしょう。日本の場合は特に、先の戦争に関する贖罪意識や、古典文学を通じた彼の地への憧憬も関わってきて、かの国への好悪を決めるのはChina共産党の政治姿勢だけではないことにも注意する必要があります。日本にも親China派という人々がいて、Chinaとの友好関係を重視する人がいます。さらにはChinaの利害の代弁者のようになって、媚China派などと揶揄される人々もいます。

ところがChinaの開き直り、恫喝、他国の利益を一顧だにしないような姿勢をあらわにしています。その結果、普通の感覚を持つ人々はChinaに嫌悪感を抱くようになり、親China派の立場は悪くなることが予想されます。実際に鳴り物入りではじめられた一帯一路政策もあまりうまくいっていないようです。Chinaの投資を呼び込もうと親China姿勢をとっていた欧州各国も離反の動きが見られます。Chinaの独善的な独りよがりの姿勢が、他国の親China派の梯子を外して、その結果、離反を招いていることになぜ気づかないのか不思議で仕方ありません。Chinaの振舞いを合理化するような国内要因について考えてみました。

宣伝に頼る独裁者

外交とは外国とのWin-Win関係の構築を目指します。そのために国益のある部分を犠牲にせざるを得ない場合も出てきます。その時に必要なのが犠牲となる分野への支援なのでしょう。戦後、工業立国を目指した日本では、どうしても農業分野が犠牲となってきました。食糧安全保障の観点からも農業は極めて重要ですが、日本の地形ゆえに産業としての強みを出しにくい側面があります。その結果、日本では農業が割を食う形となってきました。しかしながら、ただ犠牲を農業に押し付けてきたわけではありません。様々な振興政策や補助との抱き合わせでした。このことをもって農業に対する過保護として批判する人がいますが、それはあたらないと考えます。適正な程度ややり方というのは常に議論されなければなりませんが、他国とのWin-Win構築のためのコストととらえるべきなのでしょう。いずれにしても、外交とは、本来国民多数派のWinの実現の手段だといえるのではないでしょうか。

Chinaではどうでしょうか。China共産党は選挙によって選ばれたわけではありません。人民の信任による政権ではないのです。人民解放軍というChina共産党の私兵によって武力で政権を得た勢力です。力づくの支配しか機能しません。人民が身の程知らずにも民主化などと口にしようものなら、戦車でひき殺してでも鎮圧しなければなりません。

剝き出しの暴力による支配はコストがかかるため、取られる方法が国内外に悪魔集団を作り上げることだと思われます。邪悪な資本主義や固陋な宗教に囚われた悪魔から人民を解放する中央政府、という正統性神話を創作し宣伝するのです。人民の敵である悪魔から人民を守らなければならないとすることによって、中央政府は多少手荒なこともする口実を得るのです。

1つは周辺国を悪魔化してその悪魔から人民を守護する正統政府だという宣伝でしょう。Chinaにとっての悪魔国として、長らく日本がその役目をおってきました。欧米の民主主義国も悪魔であったのでしょう。少数の事実にフィクションを混ぜ込むことにより、一見もっともらしい宣伝がなされるのです。「南京大虐殺」や「731部隊」等の日本軍の残虐行為として宣伝される「事実」も、そのような文脈で理解される必要があると思います。

もう1つは国内のスケープゴートです。この場合にもかれらが人民の敵であるという「根拠」もなくてはなりません。Chinaの中央政府に従順でない、また仏教やイスラム教の熱心な信者であるチベットやウイグルは恰好のスケープゴートだったのでしょう。宗教は共産主義では悪そのものです。「チベット民族やウイグル民族を不当に支配している宗教から解放する」という大義名分があります。同様に、文化大革命や最近では習近平主席による反腐敗キャンペーンもその文脈でとらえることができます。「反革命」とレッテルを張ることのできる人や集団を作り出し、衆人環視の中で彼らを徹底的に痛めつけることにより、洗脳と恐怖による支配を可能にし、抵抗の意欲をなくさせることが目的なのでしょう。

そのような国内外の悪魔と戦う「正しい政府」が、Win-Winなどといって悪魔化してきた他国政府に頭を下げることはそれまで作り上げてきた神話の破綻を意味します。裏でどのような交渉があったとしても表向きは頭を下げられないのがChina政府なのです。フィクションで塗り固めた「正統性」が崩れた瞬間、独裁者は力を失います。そのように考えると、国際社会で世界を敵に回しても、戦狼外交などという、外交政策としてはおよそ合理的ではなくばかげて見える外交政策をとらざるを得ない状況が見えてきます。

全知全能ではない独裁者

独裁者であるというのは存外にしんどいことなのでしょう。人民には少しばかりの飴を与えながら、恫喝と弾圧でもっていうことを聞かせないといかないのです。そして人民は絶対に本音を教えてくれません。政権中枢にいる者たちが信頼できるとは限りません。何より彼らは「正統性神話」が嘘であることを知っています。より良い嘘を作り出せたら、最高権力者の寝首をかいてそれに取って代わろうとするものばかりだと考えたほうが良いかもしれません。嘘で塗り固めた「正統性」を人民に押し付け、それがばれることを心底恐れながら、いつ寝首をかかれるかおびえながら、独裁者は孤独なのでしょう。

そのような独裁者にとって、他国との持続的永続的な関係構築が優先的な課題ではないことは容易に察せられます。国民のWinなどどうでもよい国では、外交によってそれを最大化することなど2の次なのではないでしょうか。政権の優位性を内外に誇示することこそが外交の目的でしょう。

Chinaでは、遠い古代の一時期を除いて、支配者と被支配者の間でWin-Win関係が成り立つことがありませんでした。このような国における「合理性」とは私たちの考える「合理性」と果たして同じものかどうか、についても考え直す必要があるのではないかと思います。多くの日本人は無意識のうちに他人とWin-Win関係を結ぼうとします。これは私たちの先人が培ってきた「大いなる遺産」ではないでしょうか。多くの国ではそれは当たり前ではありません。

戦国大名もある意味独裁者でした。しかしながら、かれらは大名家の持続的な繁栄のために、領民とのWin-Win構築という方法を選ぶことができました。領民にWinをもたらす領主は力ずくでなくても言うことを聞いてもらえます。このことがすなわち領主と領民との間にWin-Winを構築する文化を培ってきたと考えることができます。明治維新以降に独自に民主化を進めることができたのはこの文化の土台ゆえではないでしょうか。