木を見て森を想う

断片しか見えない日々の現象を少し掘り下げてみたいと思います。

独裁は強いのか?

2021-01-31 07:55:10 | 時事

年が明けて早一か月経ってしまいました。本業の論文執筆に忙殺されてなかなか時間が取れませんが、少しずつ投稿していきたいと思います。今年もよろしくお願いいたします。

嫌われる独裁者

コロナ禍の世界において、Chinaはその強権によっていち早く危機的状況を脱しました。そのことをもって、民主主義に対する独裁体制の強みとして宣伝しているようです。確かに、人権を考慮する必要がないということおよび合意形成に時間をかけずに済むことから、極めて強権的な政策をトップダウンで迅速に取ることができます。

また、混迷の極みに達したアメリカの大統領選挙にChinaの介入があったとの指摘もあります。その真偽のほどはわからないとしても、オーストラリアの政界工作が露わにされたことからも、Chinaの介入が事実であったとしても、やはりそうだったのだろうという感想しかもたないでしょう。民主主義体制は悪意の第3者に付け込まれる隙は確かに持っています。しかし本当に独裁体制は強いのでしょうか。

Chinaは確かに初期の感染爆発の状況をうまく避け、危機的状況から早く脱しました。しかし、その有利な状況をうまく利用することはできなかったようです。全世界に対して、それも全世界が注視する中、相手の足元を見た強請のような態度をとってしまいました。全世界に対して、Win-Winで行くつもりがまるでないことを露わにしてしまったのです。そして欧米各国の対China感情を大きく悪化させることになりました。2020年10月の時点で多くの欧米諸国でChinaに良い感情を持っていない人の割合が7割以上となっています(Pew Research Center社、アメリカ)。

世界の親China派の梯子を外す習近平総書記

習近平総書記の打つ手ごとにChinaを孤立に追い込んでいるように思えます。コロナ感染者が見つかった当初の対応に関する隠蔽、各国から防護服やマスクの買い占め、それらの商品の外国への出荷の停止、等々です。それらが露見した時、謝罪する、またその方針を是正するなりするどころか、習近平総書記を始めとしてChinaの高官は、開き直り、恫喝を繰り返します。このような行為はどのような効果を生むでしょうか。

どの国にもChinaに対して好意を持つ人は一定程度います。もちろん単純な感情ではなく、利権を持っている、あるいはそれほどでなくても利害関係からその国を大事にしなければならないと考えている場合などもあるでしょう。日本の場合は特に、先の戦争に関する贖罪意識や、古典文学を通じた彼の地への憧憬も関わってきて、かの国への好悪を決めるのはChina共産党の政治姿勢だけではないことにも注意する必要があります。日本にも親China派という人々がいて、Chinaとの友好関係を重視する人がいます。さらにはChinaの利害の代弁者のようになって、媚China派などと揶揄される人々もいます。

ところがChinaの開き直り、恫喝、他国の利益を一顧だにしないような姿勢をあらわにしています。その結果、普通の感覚を持つ人々はChinaに嫌悪感を抱くようになり、親China派の立場は悪くなることが予想されます。実際に鳴り物入りではじめられた一帯一路政策もあまりうまくいっていないようです。Chinaの投資を呼び込もうと親China姿勢をとっていた欧州各国も離反の動きが見られます。Chinaの独善的な独りよがりの姿勢が、他国の親China派の梯子を外して、その結果、離反を招いていることになぜ気づかないのか不思議で仕方ありません。Chinaの振舞いを合理化するような国内要因について考えてみました。

宣伝に頼る独裁者

外交とは外国とのWin-Win関係の構築を目指します。そのために国益のある部分を犠牲にせざるを得ない場合も出てきます。その時に必要なのが犠牲となる分野への支援なのでしょう。戦後、工業立国を目指した日本では、どうしても農業分野が犠牲となってきました。食糧安全保障の観点からも農業は極めて重要ですが、日本の地形ゆえに産業としての強みを出しにくい側面があります。その結果、日本では農業が割を食う形となってきました。しかしながら、ただ犠牲を農業に押し付けてきたわけではありません。様々な振興政策や補助との抱き合わせでした。このことをもって農業に対する過保護として批判する人がいますが、それはあたらないと考えます。適正な程度ややり方というのは常に議論されなければなりませんが、他国とのWin-Win構築のためのコストととらえるべきなのでしょう。いずれにしても、外交とは、本来国民多数派のWinの実現の手段だといえるのではないでしょうか。

Chinaではどうでしょうか。China共産党は選挙によって選ばれたわけではありません。人民の信任による政権ではないのです。人民解放軍というChina共産党の私兵によって武力で政権を得た勢力です。力づくの支配しか機能しません。人民が身の程知らずにも民主化などと口にしようものなら、戦車でひき殺してでも鎮圧しなければなりません。

剝き出しの暴力による支配はコストがかかるため、取られる方法が国内外に悪魔集団を作り上げることだと思われます。邪悪な資本主義や固陋な宗教に囚われた悪魔から人民を解放する中央政府、という正統性神話を創作し宣伝するのです。人民の敵である悪魔から人民を守らなければならないとすることによって、中央政府は多少手荒なこともする口実を得るのです。

1つは周辺国を悪魔化してその悪魔から人民を守護する正統政府だという宣伝でしょう。Chinaにとっての悪魔国として、長らく日本がその役目をおってきました。欧米の民主主義国も悪魔であったのでしょう。少数の事実にフィクションを混ぜ込むことにより、一見もっともらしい宣伝がなされるのです。「南京大虐殺」や「731部隊」等の日本軍の残虐行為として宣伝される「事実」も、そのような文脈で理解される必要があると思います。

もう1つは国内のスケープゴートです。この場合にもかれらが人民の敵であるという「根拠」もなくてはなりません。Chinaの中央政府に従順でない、また仏教やイスラム教の熱心な信者であるチベットやウイグルは恰好のスケープゴートだったのでしょう。宗教は共産主義では悪そのものです。「チベット民族やウイグル民族を不当に支配している宗教から解放する」という大義名分があります。同様に、文化大革命や最近では習近平主席による反腐敗キャンペーンもその文脈でとらえることができます。「反革命」とレッテルを張ることのできる人や集団を作り出し、衆人環視の中で彼らを徹底的に痛めつけることにより、洗脳と恐怖による支配を可能にし、抵抗の意欲をなくさせることが目的なのでしょう。

そのような国内外の悪魔と戦う「正しい政府」が、Win-Winなどといって悪魔化してきた他国政府に頭を下げることはそれまで作り上げてきた神話の破綻を意味します。裏でどのような交渉があったとしても表向きは頭を下げられないのがChina政府なのです。フィクションで塗り固めた「正統性」が崩れた瞬間、独裁者は力を失います。そのように考えると、国際社会で世界を敵に回しても、戦狼外交などという、外交政策としてはおよそ合理的ではなくばかげて見える外交政策をとらざるを得ない状況が見えてきます。

全知全能ではない独裁者

独裁者であるというのは存外にしんどいことなのでしょう。人民には少しばかりの飴を与えながら、恫喝と弾圧でもっていうことを聞かせないといかないのです。そして人民は絶対に本音を教えてくれません。政権中枢にいる者たちが信頼できるとは限りません。何より彼らは「正統性神話」が嘘であることを知っています。より良い嘘を作り出せたら、最高権力者の寝首をかいてそれに取って代わろうとするものばかりだと考えたほうが良いかもしれません。嘘で塗り固めた「正統性」を人民に押し付け、それがばれることを心底恐れながら、いつ寝首をかかれるかおびえながら、独裁者は孤独なのでしょう。

そのような独裁者にとって、他国との持続的永続的な関係構築が優先的な課題ではないことは容易に察せられます。国民のWinなどどうでもよい国では、外交によってそれを最大化することなど2の次なのではないでしょうか。政権の優位性を内外に誇示することこそが外交の目的でしょう。

Chinaでは、遠い古代の一時期を除いて、支配者と被支配者の間でWin-Win関係が成り立つことがありませんでした。このような国における「合理性」とは私たちの考える「合理性」と果たして同じものかどうか、についても考え直す必要があるのではないかと思います。多くの日本人は無意識のうちに他人とWin-Win関係を結ぼうとします。これは私たちの先人が培ってきた「大いなる遺産」ではないでしょうか。多くの国ではそれは当たり前ではありません。

戦国大名もある意味独裁者でした。しかしながら、かれらは大名家の持続的な繁栄のために、領民とのWin-Win構築という方法を選ぶことができました。領民にWinをもたらす領主は力ずくでなくても言うことを聞いてもらえます。このことがすなわち領主と領民との間にWin-Winを構築する文化を培ってきたと考えることができます。明治維新以降に独自に民主化を進めることができたのはこの文化の土台ゆえではないでしょうか。