天下統一
前回に、戦国時代に領主と領民との間にWin-Win関係が構築された可能性や、そのような状態が生まれたのは日本の地形ゆえであるとの仮説を述べました。一方、第2地域の典型とされるChinaにおいても春秋戦国時代という群雄割拠の時代はありましたし、もしかしたらその時代には領主と領民のWin-Winは生まれていたかもしれません。しかしながらChinaはそのような小邦が分立して存続できるような、防御効果に優れる地形ではありません。また大陸にあって、力を持つ周辺諸民族が流れ込んできます。その結果、中央集権的な大帝国化してしまう運命にあったのでしょう。そのような帝国での民度の形成についてはいずれ考察したいと思いますが、日本では戦国時代以降どうだったのかについて思いを馳せたいと思います。
戦国時代の小邦均衡状態から抜け出たのが信長でした。信長は商業の改革を通じた独創的な手法で国力を増強しました。またその過程で鉄砲を手に入れるなどして優位な位置を手に入れました。国力を高めることで兵力を高めるという方向性は他の戦国大名と共通でありましたが、国力を高める手法が画期的であったのでしょう。
信長を継いだ秀吉といえば太閤検地や刀狩りです。検地については前に述べましたが、刀狩も特筆すべき出来事だったのではないかと思います。教科書には刀狩は武士による百姓支配の強化が目的と書かれています。しかし本当にそれだけなのでしょうか。そうだとすると刀狩に対する抵抗がもっとあってよかったように思いますが、刀狩りに対する反乱は一部を除いてほとんどなかったようです。百姓からすると抵抗の手段を奪われるようなものです。なぜ大した反乱もなく、すんなりと刀狩ができたのでしょうか。
Win-Winに加えて社会の安定がもたらされた
百姓と領主の関係がすでにWin-Win関係、そして一定の信頼関係が構築されていたからではないかと考えます。領主が百姓の生産力向上の後押しをするなかで、また検地を通じた領主と領民の間に契約社会が生まれる中で、領主に治安維持を任せるのが合理的であることに気づいていったのではないでしょうか。
前に述べたように治安の維持は豊かな庶民生活のための最も基礎となるものです。当時は貴重な水資源をめぐる隣村との争いや小競り合いなどは日常茶飯でした。自ら武装して治安を守るためのコストは大変なものだったでしょう。下手すると土地や命を失う可能性もあります。百姓にとって、治安維持および司法を領主にゆだねることは、そのためのコストを減らし、生産活動に専念できるというメリットが大きかったと推察されます。
秀吉の治世は長くは続かず、しかし結果として江戸時代を迎え、むしろ小邦均衡状態が冷蔵保存されるような状態が300年近く続くことになりました。戦国時代ほどではありませんでしたが、国(藩)の間には緊張関係がありました。江戸時代は身分が固定され、ひたすら高い年貢にあえいでいたというイメージで語られがちです。もちろん長い江戸時代には不作の年もあったでしょうし、そのような不作どころか飢饉に至ることもありました。必ずしも有能な大名ばかりではなく、領民から収奪して一時しのぎに走る者もいたでしょう。しかし領民を追い詰め一揆をおこされると、お家取り潰しなど、厳しい処罰が支配者側にも下されました。安易に領民から収奪するということが禁じ手であることを大名側はよく理解していたと思います。
江戸時代は頑張りが報われる社会だった?
戦国時代のWin-Winほどは切実ではなかったものの、百姓のWinありきの領地経営という考えは変わらなかったのではないでしょうか。また戦国時代とは格段に平和で安定した時代でした。江戸時代は百姓や町民にとっては、才覚と努力の人が報われる社会であったことが見えてきます。そしてそれが事実であったことは、二宮尊徳ら貧農から身をおこした人物が枚挙にいとまないことで十分証明されるでしょう。
江戸時代とは、様々な分野で技術革新が花開いた時代です。これは頑張りが報われる社会であったればこそです。このような社会で、寺子屋による庶民の初等教育が広まり、一般庶民も読み書きそろばんができるようになったことに不思議はありません。知的欲求が初等レベルにとどまらなかったのは和算、連歌や浄瑠璃が裕福な百姓や町人の趣味となっていたことからも明らかでしょう。
以上のように江戸時代までの日本は大国のChinaとは海を隔てて独立した天下(文明圏)を保つことができ、またその天下は平野の少ない山がちの地形で圧倒的な勢力が出にくかったため、分権的な封建制度が長く続いたのではないかと思われます。そして小邦が均衡して存在していたがゆえに、領主と領民がWin-Winの関係を構築せざるを得なかったのではないでしょうか。持続的な国力増強のためには領主は領民の生産意欲の向上を必要とし、そのために領民が一定以上頑張れば領民も繁栄できるような仕組みが出来上がりました。そのことは裏返すと領民は頑張ればそれだけ報いられる環境にあったともいえるでしょう。そして生産性を高めるための様々な創意工夫による技術開発や教育への投資が一般庶民の文化および知識レベルを世界でも稀なレベルまで引き上げたのでしょう。勤勉を貴ぶ道徳観が貫徹したのは当然でしょう。
西欧では?
もう1つの第1地域である西欧も中近東の巨大帝国からは地中海や大きな山脈で隔てられていました。ただ西欧の地形は日本よりはるかに起伏が緩やかで、防御効果はあまり期待できそうではありません。なぜそのような地形にも関わらず分権的な封建社会が一定程度続いたのでしょうか?西欧は中世までは深い森で覆われていて、虫食い状に人間の手が及んでいたような状態であったそうです。深い森が日本の山脈のように防御効果を持ったかもしれません。ただ森は開発が進むにつれて防御効果を失います。西欧では日本より早く中央集権化し絶対王政が誕生したのはそのためではないかと考えています。