サロン・ド・クロノ分社

Harmony中国茶&SpiritualCareサロン 埋蔵LOG

100万回生きた猫

2012年11月10日 | 徒然

弥山の山頂からさらに峰を越えた駒ヶ森の巨石磐座
まさにガイアの龍穴・宇宙ポータルと連動している場所

そこでのプラネタリーワークを終え白糸の滝、竜宮神社を経て下山
最後の鳥居をくぐる手前にあったのが懺悔堂

ブログ記事に文章を打ち込みながらよぎった想い

懺悔したかったもの、それは

どんなに著名人や誰かのメッセージを聞いても
自分の中に在り在りとして在るものは確固として動かず
それはすでに己の中に在り
それに相応する時には心踊り、曇ることなく速やかに行動するのみ
しかれども少しでも違和感を観じるとそれはどうにも我慢ならず
結局自分の中に在るものに沿うものであれば受け入れ
そうでないものは受け入れられないということを繰り返しつつ
全ては自分の中にすでに在ることを認めずにいるくせに
メッセージやイメージという形を借りて発信するも自らは矢面に立たずにいたこと
そしてそうして常に自らを欺いてきたことも自らに告解し、懺悔したかったのだ

すべての言葉という言葉が
限りなく原形に近く言語化さたとしても
それは内に在る「モノ」とは似て在らざる物
それは己が言語化したとしても同じこと
自分が口にしてさえも
「チガウチガウチガウ」とずっと内側にむかって叫び続けていた自分

それはまるで
木や石の中で彫られるのを待つ仏像のように
自分の中ですでに生き、呼吸しながらそこに在るもの
それは限りなく本物に近いレプリカより
いっそ子どものクレヨン画の方が治まる心地
それは己の口から顕れる言葉でさえも我慢ならず

わたしの胸に空いた穴にぴったりのピースはいつまでたっても見つからず

そしてずっとずっと泣きたかったのだ・・・

そしてそれは三男君のお陰で
まるで100万回生きた猫が最後に声を上げて泣いたように
オイオイ泣くことが出来てスッキリ。



ここのところずっときていた「権現」のキーワード
その都度その場その時に相応する「モノ」
世の中に流されている情報のさらにその奥にある真意とつながるモノが
姿を現してはまた去ってゆく
それはすでに名前を必要としないモノ
名前を持たぬからこそ動ける「意」
形を与えようとすればスルリと抜け出てしまう「意」


意図することでその意を「場所」や「人」や「物」に設定することは
ヒトにとってそもそも自在
神聖幾何学模様さえも勝手に顕れ設置されてゆく
それはヒトの意図でなく
その人類のDNAとその龍脈の意図であるから
そしてヒトは古の己からたくさんの欠けたピースを預かり
いわばそれを現場担当の実体を通して本体に帰還させているようなもの


余りにもシンプル過ぎ、そして当たり前過ぎて
いつも「つまらない」を連発。
いつも何かが為される時、そこに「ワタシ」という自己はなく。
ワタシはわたしとワタシとのギャップにいつも「つまらない」を連発。

 

わたしのほんとうにしたいこと
わたしの魂がもとめていること
それは
大いなる意図とつながりその意図を顕現すること

それは

ただただ、やわらかなる安寧の境地の体現


だからこその「つまんない」
わたしはワタシをやりながら
常に前に進み、そして「今」に足りないピースを埋めてゆく
過去に「ない」と思ったものが全てすでに在ったことを自らの内に確認しながら
次元の全てを内包しつつ
虹のプリズムの煌きを体感する


何かを為すのではなく
ただその場に立ち会うことだけですべてが成されてゆくのを
常に自らに見せられている
すでに人は輝き、そして常に完全なものであったこと


それを受け入れるも入れないも好きにするがいいと
変わらず光は降り注がれ
これでもかと常にどんぐりは何もない空から落ちてくる

わたしが出向いて行く場所
そこでわたしが何を話そうと
何をしようと
そこは常にいないようで常に共に在る存在達との共同創造の「場」
それはこの肉体に限ったことではないけれど
この星辰の並びは流石に稀有なるタイミング

あーあ
謝りたい人がたくさんいたんだな

ごめんなさい!

そしてありがとう!

潜水用の酸素ボンベもそろそろ終わりかな~
さあ、さらにここからさらにバージョンアップ
水の戸からいきましょうか


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