五ヶ月の身重の妻を連れて出かけたその近くの植物園は、日本でもっとも古い小石川植物園であった。
それは明治34年の2月、寺田寅彦22歳(帝大生)の時の、妻夏子を描いた随筆集「団栗」である。
自分が肺病とまだ知らない夏子は、感染症を恐れた父親が四国で療養という名目で、寺田家のある高知の種崎という所で一人お手伝いと暮らすことが決まっており、寅彦は医師の許可をもらってしばし別れの散歩に出かけた。
明治30年7月寅彦19歳の時、阪井夏子は14歳で父親のすすめで結婚する。
翌年夏子は高等女学校に入学しバイオリンを習う。
明治33年、妻夏子を東京文京区に呼び寄せ初めて二人で生活する。
夏子は残されたいくつかの写真でもわかるように、美しい人だった。
すらりとした姿で、大きな目。気の強い、活発な頭のいい子だと寅彦の姉も言っている。この時代、名前に子が付くだけでも相当の家の娘さんであることがわかる。
ここにその寺田寅彦の随筆「団栗」から引用してみる。
どんぐりを夏子はいくつもいくつも拾う。
「だって拾うのがおもしろいじゃありませんか」と言う。ハンケチにいっぱい拾って包んで大事そうに縛っているから、もうよすかと思うと、今度は「あなたのハンケチも貸してちょうだい」
今年の2月、あけて6つになる忘れ形見のみつ坊をつれて、この植物園へ遊びに来て、昔ながらのどんぐりを拾わせた。
こんな些細な事にまで遺伝というようなものがあるものだか、みつ坊は非常におもしろがった。「お父さん、大きなどんぐり、こいも こいも こいも こいも みんな大きなどんぐり」
亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりのすきなことも折り鶴のじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけはこの子に繰り返させたくないものだと、しみじみ思ったのである。(原文のまま)
私は高知には仕事で何度となく行ってはいるものの、種崎どころか桂浜のその夏子の小屋跡にも行かずじまい。機会があったら、今度は是非訪ねてみたい。
夏子は5月にその種崎の地で長女貞子(みつ坊)を出産した。
翌年、近くの桂浜の小屋で一人寂しく息を引きとる。
時に明治35年11月15日。享年19歳であった。
文中の「始め」とは、運命ともいえる夏子の出生のことだと思う。
季節も同じく2月。
この公園に出かけてみたい。
「つれづれ(59) 団栗と夏子」