日本キリスト教団 清瀬信愛教会 と わたし

わたしを永遠に見捨てない方・・・に出会いました。
「神は愛(アガペー)」(ヨハネによる福音書4:8)

2020年5月10日(日)「慈愛に満ちた神」〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

2020年05月10日 | 礼拝メッセージ〔手話通訳〕 牧師 竹前 治

2020年5月10日(日)「慈愛に満ちた神」  竹前 治 牧師

聖 書  コリントの信徒への手紙二 1章3-6節

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。

 

主にあって愛する皆さん。

新型コロナウイルスの影響により、会堂で共に礼拝を献げられないのはとても残念であります。5月の第二日曜日からの礼拝再開をと願っておりましたが、それもかなわないのでとても残念であります。しかし、それぞれの皆さまが各ご家庭で共に思いを一つにしてみ言葉を聴き、祈り会うことによって、私たちは主のみもとで一つにされているのです。

さて、今朝のみ言葉は第二コリントであります。使徒パウロは言います。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」と。

まず神様は、慈愛に満ちたお方、慰め主であられると言われています。皆さまも家で過ごされる方が多いと思います。たとえ外に出ても様々な制限があり、不安や苦しみの中で過ごされているのではないかと思います。神様は私たちの全ての不安や苦しみを、十字架で愛する独り子主イエス・キリストに背負わせることによって、私たちに慰めを与えて下さいました。神様は、私たちがどんな不安、苦しみの中にあっても、主イエスを通して私たちを見捨てず、共におられ慰めてくださるのです。私たちのために苦しみを受けてくださった主イエス・キリストが、私たちのために祈り続けて下さっているのです。ですから、私たちは希望を持つことができるのです。

神様からこの慰めを受けているからこそ、私たちはその慰めを伝えていくのです。

私たちも不安の中にありますが、医療従事者たちはもっと不安と闘っていることと思います。また、コロナにかかってしまったことで、中傷誹謗を受ける方々もおられ苦しみと不安を抱えています。私たち一人ひとり、このことを憶え、神様の慰めが豊かにあるように常に祈り続ける者でありたいと思います

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2020年4月26日(日)凝縮された祈り〔手話通訳〕

2020年04月26日 | 礼拝メッセージ〔手話通訳〕 牧師 竹前 治

2020年4月26日(日)凝縮された祈り  

             竹前 治 牧師

 

聖 書 マタイによる福音書6章5-15節

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。

 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

 『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

 主イエスは私たちに何を祈るべきかを教えてくださいました。それが「主の祈り」なのです。

 祈るときまず、祈るべきお方の名を呼ぶことが求められます。祈りは神様との対話であります。

 私たちが何かを伝えたいと思う時、その相手が必ずいます。誰に対して、誰に向かって言っているのか分からないと変になります。祈ることも同じです。必ず祈るべき相手がいるのです。その相手とは人間ではなく主なる神なのです。

 そこで、主イエスは「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけ、祈りを始めます。次に神様の名を正しく私たちが知ることができるようにして欲しいと願います。なぜ、神様の名なのでしょうか。神様の名は人間が勝手に考えて造り出すものではありません。それは人間が造る神、偶像になります。旧約の時代より神様はご自身を現されるとき必ずご自身の名を明らかにされているのです。それは神様が私たちと人格的交わりを持とうとされるからです。「私はある。あると言う者だ」「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主なる神である」など神様はご自身の名を私たちに明らかにされ、その名を正しく呼ぶことを求められたのです。だからこそ、私たちは主イエスを通して神様の名を正しく知ることが求められるのです。

 主イエスは私たちに神様を「父」と呼ぶことをお赦しになられました。

 続いて御国(神の国)の到来を祈ります。神の国、人間が支配するのではく神様の支配、すなわち神様の愛が私たちを包む時を待ち望むのです。

 そして神様の御心が私たちのところで実現して欲しい、神様の救いの出来事がこの地上で明らかになるようにと祈るのです。ここまでは神様への祈りであります。

 次に必要な糧を求めます。糧とは食べ物を意味しますが、私たちが生きて行く上で必要なものすべては神様がお与えくださいます。宗教改革者ルターは主の祈りの糧について「それは、肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。食べ物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産……平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人なのです。」といいます。

 隣人への罪の赦し。人を赦すことは大変なことです。憎しみからは憎しみしか生まれません。キリストは私たちの負い目を一切背負い十字架でお赦しになられたのです。キリストの赦しを誰しもが受けているのです。それゆえにキリストの赦しを受け、自分に負い目を与える人を赦せますようにと祈ります。キリストは、その人のためにも十字架にかかってくださっているのですから。

 誘惑から助けていただく祈り。キリストから引き離す力は働きます。これに打ち勝つ力をくださいと祈るのです。すべての祈りは神様との関係が第一にあって成り立つのです。

 私たちが常に祈るべきことが、この「主の祈り」の中に凝縮されているのです。主イエスは「主の祈り」を祈ることを通して、私たちが何を祈るべきかを、また祈りの必要性を教えているのです。

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★清瀬信愛教会 定例集会案内

2020年04月25日 | 清瀬信愛教会定例集会

★清瀬信愛教会 定例集会案内曜日の主日礼拝、★印以外の集会は、変更または休会になることもあります)

 ★主日礼拝-----------毎日曜日 10:30~11:45 2階礼拝堂

 ☆日曜学校----------毎日曜日 9:00~9:25 2階礼拝堂

 ☆キリスト教入門講座--毎日曜日 9:30~10:00 1階会議室

 ☆誕生会------------第4日曜日 礼拝後  2階礼拝堂

 ☆聖書研究祈祷会----毎木曜日 14:00~15:00 1階会議室

聖書研究祈祷会は、休日にあたるは日は休会、また、夏休み・冬休み期間があります。都合により急遽、休会になることもありますので出席される前に、お問い合わせください。

聖餐式は、毎月第1日曜日、またイースター礼拝、ペンテコステ礼拝、クリスマス礼拝に行っております。
 
礼拝において席上献金がありますが、ご用意のない方は献金紙袋をそのままお入れください。

 

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2020年4月19日(日)祈りの家

2020年04月19日 | 礼拝メッセージ〔手話通訳〕 牧師 竹前 治

2020年4月19日(日)「祈りの家」 

           竹前 治 牧師

聖 書 マタイによる福音書21章12-17節

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」

 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。 

 

 ある日、主イエスは祈るために神殿に行かれました。神殿とは現在の教会であるといえます。主イエスが神殿の境内に入られると、両替人や鳩を売る人たちが商売をしていたのです。神殿で用いるための犠牲の動物が売られており、神殿の当局もこれらの収益を得ていたのです。

 主イエスはこの光景をご覧になられ、商人たちを追い出し、彼らの店をひっくりかえしたのです。商人たちは、神殿当局の承認を得て商売をしていたので憤慨します。主イエスは言われます。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と。主イエスの言葉は、神殿(教会)がどのような場所であるかをはっきりと示しています。それは祈りの家と呼ばれるべきであると。だれがだれに向かって祈るのか。それは人が神様に向かって祈る場所、それが神殿であり教会なのです。

 またこの物語にはとても大切な意味が隠されています。商人たちは、神殿に来る人たちに犠牲の動物を売っていた。旧約では罪を犯した時、償いの献げものとして動物が用いられていたのです。犠牲の動物を焼き尽くし神様になだめの供え物をするのです。つまり罪を犯すごとに、繰り返し動物の犠牲を献げていたのです。

 しかし主イエスは罪の赦しをお与えになるために、たった一度の完全な犠牲として、ご自身を神の小羊として献げられるのです。この時は、まだ主イエスの十字架、犠牲の時ではないのですが、やがて来たるべきその時には、人間の側からではなく神様の側から一方的に完全な犠牲が献げられるのです。それゆえ、もはや人間からの償いの献げものは必要なくなるのです。

 境内での商売を容認し神殿を人間の思い中心としていた神殿当局。しかし主イエスは神殿を、神様中心とするものへと変えようとされたのです。

 教会は人間の思いが支配する場所ではなく、主なる神様が支配される場所です。私たちはこの場所(教会)に集められ、神様から恵みの奉仕を受け、私たちは祈りをもってそれに応答していくのです。

 礼拝で、教会に招いてくださった神様のみ言葉を聴き、罪の赦しの宣言に感謝の祈りを献げる。そして新たに創造されて新しい歩みへと出発する祈りをします。

 礼拝のすべては、祈りによって構成されているのです。

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清瀬信愛教会 交通案内

2019年11月04日 | 清瀬信愛教会 地図と交通案内

      清瀬信愛教会

    牧師 竹前 治

204-0024 東京都清瀬市梅園 2-5-15
    電話 042-491-0851




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電車
 
 ①西武池袋線・秋津駅で下車、南口より徒歩12分
    (*タクシーはありません)

         ②JR武蔵野線・新秋津駅下車、徒歩17分

     (*タクシーあります)

西武バス
         西武池袋線・清瀬駅南口発「久米川駅」行き乗車

 「上宮(じょうぐう)」バス停 下車徒歩7分

清バス清瀬駅南口秋津駅北口⇔清瀬駅北口〉 

   「信愛病院前」バス停前が清瀬信愛教会です

 

 

「きよバス」路線図・時刻表|清瀬市公式ホームページ

清瀬市公式ホームページ

清瀬市公式ホームページ

 

 

 

〈信愛無料バス  休日:運休

清瀬駅北口②番乗り場⇔信愛病院玄関⇔新秋津駅ロータリー

 

https://shin-ai.or.jp/wp-content/uploads/2022/05/bus.pdf

 

タクシー〉 

        ①JR武蔵野線 新秋津駅より3分

           ②西武池袋線 清瀬駅南口または北口より4分

        *最寄り駅の西部池袋線 秋津駅は、タクシーありません(徒歩12分)

 

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「定められた約束」

2019年10月25日 | 礼拝説教〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

「定められた約束」               

 エレミヤ書10:1-8

 ガラテヤの信徒への手紙3:15-20

  竹前 治牧師

 パウロはアブラハムが義とされたことは神のみ言葉を信じたからだと言い、さらにこの義はすべての人に向けられていると言います。パウロは信仰によって生きる者と律法に生きる者の違いをはっきりと言いました。律法に生きる者はその定めに生きる。

つまり律法の奴隷として律法の呪縛から逃れられない、律法によって義とされるならば、キリストの救いは無になると言います。さらに律法を自分の解釈の中でとらえるために、自らが神になり自分の正義を律法の中に探し出し、律法を守れない者、知らない者を裁くことをしてしまうという呪縛であります。ですからパウロは、律法は信仰をよりどころとしていないというのです。

 では信仰によって生きるとは何か。その者たちは律法を守りますが、律法の呪縛から解き放たれた形で律法と向き合うのです。ただ律法の呪縛からの解放は自分の力ではどうにもなりません。この呪縛から解き放つ方との出会いが大切なのです。

 それがキリストなのです。キリストは十字架と復活を通して、罪を赦し、さらに律法の呪縛から私たちを解放するのです。それは律法のあるべき姿の回復であります。

 パウロはさらに信仰による義について語ります。そこでパウロは法律の例えを用います。それは当時の人々にわかりやすく理解させるためです。

そこでパウロは遺言状のことを持ち出します。遺言状は自分が死んだ後のことについて書き残すものであります。それが有効となるのは書いた人が死を迎えた後になります。法律的に有効とされた遺言状を本人以外には、勝手に書き直したり無効にしたりはできなのです。

ではパウロはこの遺言状を例にして、何を言おうとしているのでしょうか。それは約束と契約の議論をするためです。約束も契約も同じ意味ではないかと思われます。広辞苑には、約束は「くくりたばねること」、「取り決めること」と書かれています。契約は「神が救いの業を成し遂げるために人間と結ぶ恵みの関係」、神の側から私たちに向けられたものであるということです。

遺言は遺言者の意志に基づくという本質からすれば、神の契約の性質をよく現すことができる例であるのです。神が執行される契約を人間の側で勝手に書き直したり、無効にすることができないと。

アブラハムの義が何であったかを示し、行為義認ではなく、神と人の間に立ち、契約の仲保者となられた方を信じることによってのみ義とされることを語るのです。

救いへと導くのは人間の側の力ではなく、あくまでも契約を全うされる神の一方的な恵みによるものなのです。

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あなたはわたしたちの父「わたしたちの贖い主」

2019年09月30日 | 日曜学校
今日の聖書は、旧約聖書です。

イザヤ書 63:16

あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らずイスラエルがわたしたちを認めなくても主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。

聖書は、一言で簡単に言うなら
「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖(あがな)い主』」
と、言うことが書かれている本です。   
 
「贖(あがな)い」って、難しいけど「罪を償(つぐな)う」という意味です。
ですから、聖書は
「神様は、私たちの父です。私たちの罪を償(つぐな)ってくださる方です」ということが、書いてある本だと言えます。
 
旧約聖書は、イエス様がお生まれになる前に書かれたので、イエス様のお名前は1回も出ては来ませんが、もっと解説を加えると 
「神様はイエス様の十字架によって、私たち人間の罪を償って
死から救ってくださる」という預言が、書かれている本だとも
言っていいと思います。
 
それで、ここからちょっと、イエス様のお話をすることにします。
 
イエス様は、神様の子供です。
ですから、イエス様は本当の神様です。
イエス様は、父なる神様にとって大切な、大切な愛する独り子です。
イエス様は、私たちと同じ体を持つ本当の人間でもあります。
イエス様は清らかで全く罪がない、というところが私たちと違います。
 
イエス様は、お父さんの神様を片時も忘れることなく信頼しきって、「父よ」、「アッバ父よ」と呼んで、祈ってました。
「アッバ父よ」というのは、子供が「お父さん、おとうちゃん、パパ」
と呼ぶけれど、そういう親しみを込めた呼び方です。
 
子供讃美歌に、こんな讃美歌がありますね。
「悪いことは、小さくてもお嫌いなさ~る~神様♪」
神様は、悪いことが大っ嫌いです。
人間の目にはどんなに小さく見えても、神様からすれば、悪は悪、罪は罪です。
キリスト教でいう罪とは、神様に背を向けて生きることをいいます。
罪は「神様のことなんか無視、無視。自分勝手に生きる方が、自由で楽しいよ。バレなきゃ、悪いことする方が得だよ」
と、誘惑して来ます。
 
神様は、罪に対して怒ります。
罰しないではおかない厳しいぃ~方です。
どんな罰かって?
それは、最終的には死です。  
コワ~~ッ!   
でも、大丈夫!   
十字架のイエス様が私たちの間に立ちはだかって、命を懸けて守ってくださったからです。   
 
人間は、いつか必ず死にます。
ということは、「自分は、警察に捕まるような罪なんか犯してないもん」って思ってる人も、だれもが罪を持ってることになります。
 
神様は、罪の私たちを罰する代わりに、大切な大切なかわいいい神様の独り子イエス様を、怖ろしい十字架刑にしました。
罪ある私たちの罪を、代わりにイエス様に背負わさせて死なせました。
よりによって、全く罪のない愛するイエス様を罰っすることで私たちの罪を償って、帳消しにしてくださいました。
十字架とは、こういう事です。
正しい人や好きな人のためならまだしも、怒りの対象である大っ嫌いな罪人のために、自分のかわいい息子を死なせる人が、どこにいるでしょうか。
しかし、神様はそういうことをなさったのです。
これが奇跡でなくて、何が奇跡だっていうのでしょうか?
 
神様は、十字架で死ぬまで従順だったイエス様を死なせたままにはしませんでした。
三日目に、復活させてくださいました。
それで、私たちを罪あるままで罪のない者と見なし、神様の子供としてくださいました。
神様の子供ということは、イエス様の復活にあやかって、私たちにも、復活の命、永遠の命が与えられたということです。
だから私たちも安心して、神様を「父よ」、「おとうさん」と、呼べる身分になりました。
    
イエス様は、十字架という永遠的な苦しみを、味わいました。
ということは、大切な大切なイエス様を十字架につけなければならなかったイエス様のお父さんの神様も一緒に苦しんでおられたということになります。  
「大っ嫌いな」罪の私たちのために、神様が痛み苦しんだのです!
   
ですから、私たちもこの神様の愛を信じ倣って、「好きな人だけじゃなく嫌いな人をも愛せますよう聖霊をください」と祈りたいと思います。
 
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2018年「信愛の友」秋号

2018年10月22日 | 「信愛の友(社会福祉法人 信愛報恩会季刊誌)」より
リンク
「信愛報恩会」ホームページ
「信愛の友」最新号&バックナンバー

「長崎教会群が世界遺産に登録されて」
「お笑い療法」

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「ハイ、ここに居ます」 H.S.

2018年06月11日 | 証し

「礼拝出席から受洗に至るまでの経緯を、証しとして語ってほしい」―そんな主旨の原稿依頼が、私のもとへ届きました。教会へ行き始めたのは、60年近くも前のことです。直接の動機が何であったのか、今となっては思い出せません。日常の様々な場面で傷つき哀しむ時、人々は安らぎを求めて教会へやって来ます。自分もまた、そうした人間の一人だったのでしょう。

しかし今は、こう思い直しています。「旧約聖書」の初めの所、禁令に背いたアダムとエバは、罪責の念に駆られて樹間に姿を隠します。隠れた2人の姿を捜し求めて神様は、「あなたはどこにいるのか」(創世3:9)と声を掛けておられます。父なる創造主の、「子」を思い遣っての呼び掛けです。この神様の呼び掛けは、私には、イエス様の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)との呼び掛けに重なって聞こえて来るのです。神様は、いつも私達のことを心に掛け、私達の応答を待ち望んでおられます。「愛なる」神は、罪や穢れに塗れ疲れ切ったこの私を覚えて、まず神の方から我が名を呼んで下さった、だから教会への道を歩み続けて来たのだ、そう思っています。

幼い頃の私は、キリスト教とは無縁の世界で育ちました。長じては、厄介な病に苦しみました。生き難いことが多々ありました。そんな負の連鎖の中にあって神様は、私をご聖別下さり、信仰へと導いて下さいました。「わたしの恵みは、あなたに十分である」(「コリント二 12:9)とのお言葉のとおりです。辛い試練も、恵みに変えて下さるのです。

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」(1954年改訳聖書 ピリピ2:15)―これは、私達に力を与え励ますパウロの応援歌です。「いのちの言葉」を堅く持ち、「つぶやかず疑わず」救いの達成に努め、生死を超えて信仰に生き続けていきたい、そう願っています。

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「信愛の友」2018年春号

2018年05月14日 | 「信愛の友(社会福祉法人 信愛報恩会季刊誌)」より

リンク
http://www.shin-ai.or.jp/honbu/index.html



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Q.ペンテコステってなあに?

2018年05月08日 | ペンテコステ礼拝

Q.ペンテコステってなあに?

A. イースターの日からちょうど50日目をペンテコステ(聖霊降臨日)というんだよ。

今年のペンテコステは何日かな~?

イエス様は復活されて40日後に聖霊を遣わすことを約束し天に昇られたんだけど、その10日後に、つまりペンテコステに約束通り聖霊が降されて教会が誕生したんだ。

復活のイエスさまは、聖霊として今も生きて私たちに働きかけているよ。

そして、どんな悩み、苦しみ、悲しみも・・・、

それらの最も大きな苦難である死からも救ってくださるんだ。

 

あなたも教会で、私たちの命を救おうとされている

「父・子・聖霊」の神様の愛に出会ってくださいね。

あなたの内にも聖霊が宿り、神様の愛で満ち溢れ幸せになりますように。

 

あなたがたを襲った試練で、人間として

耐えられないようなものはなかったはずです。

神は真実な方です。

あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることは

なさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、

逃れる道をも備えていてくださいます。

             (聖書 コリントの信徒への手紙 10章13節)

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多くの実を結ぶために 2018年4月1日

2018年04月29日 | 礼拝説教〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

「多くの実を結ぶために」

イザヤ書53:11-12節

ヨハネによる福音書15:11~17節

         竹前 治牧師

愛する皆さん。受難週をそれぞれが祈りをもって過ごして来たと思います。今朝、主イエスの復活の喜びの日を迎えました。この喜びをイザヤの言葉より聴きましょう。

主の僕である主イエスは多くの人の過ちを担い、多くの背いた人の執り成しのために十字架にかかられました。その十字架の苦しみの実は多くの人が正しい者とされるためでした。正しい者とは義とされるということ。罪深い私たち、とうてい義とはいえない私たちを神は主の僕、神の独り子、主イエスの死を通してお赦しになられるのです。そして、神は私たちに赦しだけでなく、さらなる恵みを用意してくださるのです。それが復活であります。

人間にとって罪の報酬は死であります。死はすべてのものを、喜びも希望も奪い去るものでありました。ゆえに死は恐ろしいものであるのです。しかし、その死の苦しみを主自ら引き受け、死のただ中に行かれることを通して、死に一筋の光が差し込まれたのです。死は主イエスを苦しみのただ中へと呑み込んだはずなのです。しかし、呑み込んだはずが、逆に光りに呑み込まれることになるのです。つまり死という闇が光によって滅ぼされることになるのです。

コリント一15章で「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」とパウロが言います。

確かにこれだけでも多くの実を結ぶことになります。生も死も神が共にいてくださるという恵みの実であります。でもそれだけでは完全な解決にならないのです。もちろん今までのように死んだらすべてすべてが終わりではなく、死んでも主イエスがおられるのなら安心であるといえます。しかしそれだけでは本当の意味で死の解決にはならないのです。結局は死んで終わりだけとなります。

しかし、そこで、終わらないのがキリスト教なのです。苦しみの実、多くの実というのは死が終わりではないということ、主イエスが神のみ力によって復活されたことにより、初めて死を克服、解決するのです。つまり、死は終わりでなく、新しい命への導きなのです。主イエスが堅く重い石の中から、墓から復活されることは、墓が開き、墓から新しい命へと進みゆかれるということです。もし墓の石が閉まったままならば、それは主イエスの死は無意味になってしまいます。それは死の勝利としかいえません。しかし墓のふたが開いたところで死は敗北する、つまり復活によって死が敗北するのです。

死の敗北により、私たちも死が終わりではなく、その先に通じる道があるのです。多くの実りとは、私たちが死を迎えるけれども、なおもその先に新しい道がある希望の道なのです。

主イエスはこの愛を表すために十字架で苦しまれ、希望の実りを与えられるのです。

私たちはこの恵みの中に招かれる一人ひとりなのです。キリストは私たちに希望を、喜びを与えるために復活されたのです。

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「信愛の友」2018年冬号より

2018年02月13日 | 「信愛の友(社会福祉法人 信愛報恩会季刊誌)」より

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リンク:教会と同じ敷地内の信愛報恩会諸施設

2018年01月24日 | リンク

 

社会福祉法人 信愛報恩会の諸施設が、教会の隣敷地内にあります。

 

社会福祉法人 信愛報恩会グループサイト一覧 | 信愛報恩会

社会福祉法人 信愛報恩会グループサイト一覧 | 信愛報恩会

清瀬市と荒川区に展開している信愛報恩会グループの一覧です。各施設のウェブサイトへのリンクもあります。

信愛報恩会

 

 



信愛報恩会の広報誌季刊「信愛の友」の最終ページには毎号、清瀬信愛教会の竹前治牧師が執筆

 

施設・事務所一覧 | 信愛報恩会

施設・事務所一覧 | 信愛報恩会

当法人の清瀬市と荒川区にあるグループ施設一覧です。各施設のwebサイトリンクもございます。

信愛報恩会

 

 

 

 

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クリスマスにプレゼントするのはなぁ~ぜ?

2017年12月16日 | クリスマス

クリスマスは、神様が私たちにイエス様という素晴らしいプレゼントをくださった日なんだよ。

だからサンタさんが、それにあやかってみんなにプレゼントするようになったのかなあ~?

おもちゃだとかいろんなプレゼントをもらうと嬉しいけど、でも、古びたり壊れたり、飽きたりしちゃうよね。その嬉しさがいつまでも続けばいいんだけどなぁ~

でも、イエス様というプレゼントは、永遠に消えない喜びなんだよ。

どうして、その喜びがいつまでも続くのかなあ~?

それはね、教会に通い続けているとイエス様のすばらしさが分かって来るよ、継続は力なりだね。(^^)/

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