先日ひょんなことから知った「メンサ」ということば。
ある過程で、「びっくりしました。あなたはメンサ会に入れる資格があるんです」、と言われたからです。
あまりに聞き慣れないことばで実はよく聞き取れず、「えっ、そのえんさかい? ってなんですか?」と聞き返す始末。
まあ、あんまり突っ込みたくないので気になるひとは調べてください。知っているひともいるみたいですが。
でもですね、そんなこと今のじぶんにはまったく関係ないんですよね。
別に限られた少数民だから生活が安定する訳でも、仕事に有利、また健康体である訳でもないですから。原稿書くのもメタクソ下手だし。
そんで、結局今の状況に陥った故に更に実感したのは、世の中で困窮、弱者、障がいなどを持ったひとに、世界は相変わらず優しくない、ということです。
ここでは日本に於いてのみ触れますが、国も政府も、自治体(とすら呼びたくない)居住区も、こういったひとを守る、支援する、補助する、といった制度や仕組みは存在しないか機能してないのがほとんどです。
2019年の台風19号で取り上げられた台東区(東京)に於ける浮浪者の避難施設への受け入れでも感じましたが、そもそもああいった生き物を出さなければ問題は起きない訳です。
個人的には、確かに不潔、不衛生、社交性、性格、犯罪性などの面から受け入れるべきでないと思います。連中の日頃の行動から以っても、役所の人間が受け入れ拒否したくなる心情も理解できます。
ただ、そもそも最低でも、今の世の中に加わって行こう、例えば自身の足で立って行こう(生活して行こう)という意思や気持ちがあっても、どうしても自身の特性などにより、なかなかそういったことが叶わず、かといって偽善者どもの世話にもなりきれないひともいると思います。
自分自身もそうですが、結局、普通の生活を送るには(フツーの概念はひとぞれぞれ)、この国は何もまともに機能せず、無理矢理に世の中に働きに出て、無理をして心身ともにすり減らし、結果、病み、離職し傷病手当金や失業手当、もしくは障がい年金を受給しながら、その間に次の仕事を見付け、また無理をしながら外に出ていく。
学校を卒業して以降、延々とこの繰り返しです。
メンサのはなしを聞き気が付いたのが、確かにひととの会話に苦痛を感じる一面があるのかもしれません。
1言えば10伝わる、もしくは10を読み取れるところがなくはなく、ある時に「結局はどの仕事、会社でも、ひととの縁、対人関係」と言われたのも心当たりは山ほどあります。
しかし、それをせずに食っていく、要は金を得られる方法などというのがどれほどあるでしょうか?
基本的にここに於いてはかなりの庶民感覚で、最近まで「働かざるもの食うべからず」という時の政府のまやかしであった言葉まで信じていたので、地方で何十個ものモニターを前に指先ひとつだけ動かしてあぶく銭を得る、とかそういう賢く、また対人を伴わない仕事を想像できず、短絡的に「汗水たらして働く」という発想にしかなりません。思考が貧困なんです。
そうするとそこはいつものレールで、社会で擦り切れ摩耗しまた弾き出されるのです。
そんな状態を続けて解ったのが、先のそういう制度や仕組み、横文字はあまり使いたくないのですがいわゆる「セーフティーネット」なるものはないのです。
働くことが、世の中の役に立つことが、「美しい」、人間として、共同体として、「当たり前」、と植え付けられた日本では、それができない人間は極めて弱者であり、「見えないもの」「見なくていいもの」「存在しなくてもいいもの」、とされるのです。
だから、救いを用意する必要はない、と。
今、こんなのを書いているということはネットワークにアクセスしたりする環境は持っているのでマシ、とか考える輩も多くいると思いますが、下手に意思や状況がある、というのは酷です。
自分に意思がない、隔離された環境、であれば周りを見ることも影響を受けることもなく、「葛藤」などというものは存在しません。
苦しみはそれぞれにあると思いますが、いつ死んでもよいように遺書代わりの文章を書いておこう、なんて極端な発想や行動には移れないかと思います。
じぶんはとにかく不器用なので、金を得るためには外に出る、仕事をする、という考えしか持てずずっとここまでやって来ましたが、それももう限界で、また、自身の特性からそれは難しいのでは? とも思いました。
それまでに、他力本願に(ここは申し訳ないという思いもあるのですが)もうせざるも得ない、といった状況でもまったく当てにならなかった、役に立たなかった、というモノなどを糾弾する意味で列挙します。
本遺書はそれが1番の目的でもありますし。
・役所の障がい福祉課
典型的役所感覚。色々な障がいを抱えた、まあかなりのひとが不便している筈の来所者を前に、カウンターも人員も余裕があるのに延々待たせる。呼ばれても、相談をしている背後で、朗らかにブライベートや遊びのハナシで盛り上がっている。相談中でも聞こえてくるのだから、声の大きさは推して知るべし。A型事業所の職員も呆れるレベル。
・役所関連の障がい者就労支援センター
完全機能不全。圧倒的な人員不足に加え、異動があった際の引き継ぎも皆無。挙げ句、相談時に先方が泣き出す始末。ここは、A型事業所の職員すらも見放したレベル。
・役所の生活保護窓口
財政難が酷すぎてとにかく支出を減らすことしか念頭にないので、そもそも支給する気がはなからない。極めつけは、重要な相談事なのに予約が出来ず、「来所して空いてたらOKです」、と言い出す始末。入口からして拒否する気満々。
・具体例はないが、結局は国や政府、為政者が見えないものとしている
例えば、就労移行支援事業所を使おうとした場合、役所から補助金が出るのは1回切りなので、非課税の身分であっても2回目以降は自腹となり(これがかなり高額)、事業所や職員との相性が悪くても、そこで打ち切りとなる。もしくは無理をして紹介先で働くことになる。これにより、そもそも事業所を使うタイミングに慎重にならざるを得ない。
先のA型事業所なども年々締め付けが厳しくなり、廃所が多発。ヤクザな事業所が散見され問題視されているのも事実ではあるが。
外に出なくても生活できる金を得られる仕事は実際としてない。そういう仕組がない、とも言い換えられる。
仕事をすると傷病手当金はストップ。失業手当も同じくストップ。かといって、仕事を無理にしてそれの代わりになるかというと、障がい者には容易なはなしではない。さりとて、この2件は期限付き。切れれば、仕事をしないと生きていけない。
障がい年金はその限りではないが、これ単独で生活していくのは無理。生活保護は条件をのむと、それはもう「人間」という概念ではない。ただの「生き物」になる。
つまり、この国の制度、仕組みでは、何らかの事情で「働けません」「金を得ることができません」、という人間は「存在してはいけないモノ」、という扱いになる。
以前、ドラマのタイトルで『健康で文化的な最低限度の生活』ってありましたが、この「文化的な」、はまずこの国では保証されません。個人的に、ここは自死を速める要因です。
うっかりすると、「健康で」、も怪しいです。
自分は、抱える障がいについては1割負担になっていますが、それ以外の医療費は通常の3割負担です。今も、ある部位に悪性腫瘍の可能性や、別の場所には酷い痛みを抱えていますが、どだい、診察費もCTスキャン代も、出ません。病院に行く交通費だって、楽ではありません。
医療保険だってこの身では支払いが厳しいです。入院、手術などになったら払えないので、この腫瘍についての診察をそもそも躊躇します。払える身分でないのに「入院、手術OKです」、なんて言える訳ないじゃないですか。
とすると、こういった補助が利かない病状につていは放置するしかないんです。結果的に、それが身体を蝕んだり死期を速めるかもしれません。
個人的にはそれで歓迎かもしれませんが。
もう、こういう苦しい状態は耐えられないので。
死ねば楽になる。きっとそうなんだと思います。失敗するとたいへんらしいですが。
どうするか、どうなるか、なーんも解りませんけど、最後に恨み言遺すのもアレなんですが、そうでもしないとやってられない気分なので、こんなものを書いてみました。
まあどうかなった時は、「ああコレだったのね」、と。
関わった医療機関と薬局、カウンセラーには恨みと憎しみしかない。ソーシャルワーカーは除いて。これは障がいに関係なく。
・オーディオ関連
いったんはステレオサウンド編集部に。マッキンSP専用のEQは別箱にあり
・CD、DVD、本関連
ブックオフやむなし
・プラモ、エアガンなど
ホビーオフやむなし
・カメラ関連
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・自転車関連
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・オートバイ関連
アテになるところなし
・クルマ関連
調布は絶対に嫌だ