*** 宮城(しずか)薯より***
考えてみれば私たちの生活、そのしていることは、まことにお粗末
きわまりないものです。
だれの言葉であったか忘れましたが、【人間はみなチョボチョボ】というのが
あったように思います。
本当に皆、五十歩百歩の生活をしているのでしょう。
すくなくとも私は、自分の日常せいかつを、本当におそまつだなーと思わざる
をえないのです。
しかし、だからといって、私がこの身に賜っている命そのものまでをも
お粗末というわけにはいかないのです。
この命は賜ったいのちであって、自分が作った、自分のものではないからです。
護持され、護念され、常護されている命であったのです。
念じられている命なのです。
そして、実は、
念仏は自分の思いで固めていた心を破って
護持され、護念され常護されている命の
その事実に目覚め、還り、生きることなのです。
念仏を忘れる時、私たちは護持され、護念され、常護されている命を
忘れるのです。
忘れて、その命を自分の思いでとらえて生きるようになるのです。
自分の思いを自分自身と錯覚してしまうのです。
その思いを支えてくれている命そのものを忘れてしまうのです。
先日亡くなられました信国淳先生のお言葉に
( 我ら みな共に 安じて 命に立たん
命すなわち 念仏往生の道なればなり )
というのがございます。
この身に賜っている命が道であったのだ、とおっしゃっているのです。
道すでにありです。
どこかに道があるのではないのです。
この身に賜っている命そのものが道なのだ。そのことを先生は教えてくださって
いるのです。
その(安じて 命に立たん)というお言葉の中に
道を求めていたずらにあちらこちらと迷い歩き、
探しあぐねている私たちに
外の探し歩く必要はない、
お互いこの身に賜っている命そのものに立てばよいのだ。
この命を本当に受け止め、生きるとき、そこの道があるのだということを
確信をもって語っていてくださるのを感ずるのです。
明日に続く
今日も感謝
合掌
恵眞尼