感謝の日々

日々の出会いとエアデールテリア空(くう)の成長を記録します。

命すなわち道

2006-09-22 | 日々の出会い
   
 *** 宮城(しずか)薯より***


 考えてみれば私たちの生活、そのしていることは、まことにお粗末
きわまりないものです。

だれの言葉であったか忘れましたが、【人間はみなチョボチョボ】というのが
あったように思います。

本当に皆、五十歩百歩の生活をしているのでしょう。
すくなくとも私は、自分の日常せいかつを、本当におそまつだなーと思わざる
をえないのです。

しかし、だからといって、私がこの身に賜っている命そのものまでをも
お粗末というわけにはいかないのです。

この命は賜ったいのちであって、自分が作った、自分のものではないからです。
護持され、護念され、常護されている命であったのです。
念じられている命なのです。

そして、実は、
念仏は自分の思いで固めていた心を破って
護持され、護念され常護されている命の
その事実に目覚め、還り、生きることなのです。

念仏を忘れる時、私たちは護持され、護念され、常護されている命を
忘れるのです。

忘れて、その命を自分の思いでとらえて生きるようになるのです。
自分の思いを自分自身と錯覚してしまうのです。

その思いを支えてくれている命そのものを忘れてしまうのです。

先日亡くなられました信国淳先生のお言葉に
( 我ら みな共に 安じて 命に立たん 
             命すなわち 念仏往生の道なればなり )
                         というのがございます。

この身に賜っている命が道であったのだ、とおっしゃっているのです。

道すでにありです。

どこかに道があるのではないのです。

この身に賜っている命そのものが道なのだ。そのことを先生は教えてくださって
いるのです。

その(安じて 命に立たん)というお言葉の中に
道を求めていたずらにあちらこちらと迷い歩き、
探しあぐねている私たちに

外の探し歩く必要はない、

お互いこの身に賜っている命そのものに立てばよいのだ。

この命を本当に受け止め、生きるとき、そこの道があるのだということを
確信をもって語っていてくださるのを感ずるのです。


                       明日に続く

     今日も感謝

                   合掌

                             恵眞尼