感謝の日々

日々の出会いとエアデールテリア空(くう)の成長を記録します。

命すなわち道

2006-09-23 | 日々の出会い
     
      宮城(しずか)薯より  (昨日に続く)

  そして、この身に賜っている命が道だからこそ、この賜っている命が
かたじけないのです。
そのことから申しますと、仏教と申しましても、つづまるところは
汝自身の命のかたじけなさに気づけ、ということにつきるのだと思います。

賜っている命のかたじけなさに、目覚めるか、目覚めないかなのです。

していることは、迷いでしかないし、愚かなことしかしていない。
日々の生活は、有頂天になったり絶望したり、一喜一憂の生活しかないのですが。
しかし、そうゆう私を支えている命があったのです。

していることは、どんなに愚かでお粗末であっても、その私の日々の営みを
支えている命そのものは、かたじけないもの、賜ったもの、
護念され護持されているものであったのです。

もし、そのような命でないのなら、つまり、【命すなわち  念仏往生の道】
でないのなら、仏陀【 汝自らを 灯とせよ 】という教えも
その意味を失うことになるでしょう。

そのことは、言いかえますと、私たちは念仏においてはじめて、
その念々にこの身を賜るのだということであります。

この現前の生を賜るのです。

信心歓喜は、私が何かを喜ぶ体験ではなく、
実は初めてこの自分自身を歓べる体験なのです。

そして、念々にこの身を賜り、この身を歓べる生活が他力の生活なのです。

それは、この身が生かされてあることの不思議を感ずる心に開けてくる
生活です。

そのような他力の生活、自分自身を歓ぶ心というものが、
孤独な心でないことは言うまでもありません。

つまり、わが身を歓ぶ心は、わが身のあるがままの事実に素直な心です。

それは、よきひとと同朋の中に自分自身を見出した心なのです。

          **今日も生かされて感謝**

                         合掌

                               恵眞尼