オメガねこ

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「憲法改正」 と 「世論」

2019年10月08日 | GHQ

 朝日新聞(社説)憲法70年 国民分断する首相方針

憲法改正は、多くの国民が必要だと考えた時に初めて実現すべきものだ。首相の意向だからと、世論を二分する改正を数の力で押し通せば、国民の間に深い分断をもたらす恐れがある。

 この社説の意味が解る人がいたら教えて欲しいのですが、取り敢えず考察してみたいと思います。

自民党の昭和30年の立党宣言

・・われら立党の政治理念は、第一に、ひたすら議会民主政治の大道を歩むにある。従ってわれらは、暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力又は思想をあくまで排撃する。・・

 と、書いていますが、自民党には共産党を排撃する能力が無いので、これは許すとして、

 【党の使命】第六

現行憲法の自主的改正を始めとする独立体制の整備を強力に実行し、もって、国民の負託に応えんとするものである。

 【党の政綱】六、(独立体制の整備)

平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。

 平成17年の新綱領

私たちは近い将来、自立した国民意識のもとで新しい憲法が制定されるよう、国民合意の形成に努めます。そのため、党内外の実質的論議が進展するよう努めます。

 平成22年の綱領

日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す。

 何れも自民党の基本方針であり、新憲法の制定に反対する議員は自民党員にはいない筈(?)ですし、悪夢の3年間以外は、ほゞ自民党が政権与党でした。つまり、国民が「新憲法制定を綱領に持つ自民党」を支持したという事は、少なくとも「改正を要求する声がある」と云う事です。

 自民党の立党時には「憲法の自主改正は国民の負託に応える事」としていて、H17年には「新しい憲法」、H22年には「新憲法の制定」を目指すと宣言しています。「憲法の(部分)改正」を「新憲法」と言えるかどうかを問われると、世論を二分するかも知れませんが、「現憲法の破棄と同時に、新憲法を制定する事」は、世論を二分しません。

 GHQによって1週間で書かれた「憲法素案」から「国民投票」を経ずに成立した「昭和憲法」をそのまま「新憲法」と認めるのも良し、日本人によって練られた「憲法素案」から成立する「令和憲法」を「新憲法」とするのも良しで、国民が何方を選ぶかの問題です。恐らく世論は二分どころか四分五裂以上に別れると思います。

 朝日社説の「憲法改正は、多くの国民が必要だと考えた時に初めて実現すべきものだ。」では、国民が必要としているかどうかを、偏った世論調査ではなく、国民投票で確認する為にこそ議論を必要とします。これこそが「民主主義」なので、当然の過程ですが、決定したら従うだけです。議論を否定する事は「現憲法」にも違反し、「民主主義」とも言えません。



「人間の生存権」 と 「日本国民の人権」

2019年07月05日 | GHQ

 憲法前文   

・・・われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。・・・

 憲法前文では、世界の国民には「生存権」が有る事を認めています。但し、この国が北朝鮮のように「日本国が『国』として認めていない地域の民」も含まれるかどうかは不明です。

 憲法第11条  

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 憲法第97条  

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 ここで問題になるのが、自然権である筈の「基本的人権」です。「この憲法が基本的人権を国民に与える。」と、昭和憲法が自然権を超越する事を宣言しています。  

更に、97条では「憲法が保障する。」筈の基本的人権が「日本国民に対し信託されたモノ」になっています。

「『モノA』を『ヒトB』に信託する。」とは「Aの管理・処分権をBに与える」事を意味し、BがAを処分した場合は、その果実は元の「Aの権者」に還す義務が発生します。ここでは、憲法に所有権がある「基本的人権A」は、「Bである日本国民」に信託されているので、日本国民が「基本的人権」を処分した場合は憲法に「その果実」を還す義務が生じます。

 憲法には「国民主権」が謳われていますが、その憲法自体の権者は「この憲法の著作者」であるGHQと言えます。当時の日本政府はこれを認めただけであり、主権者である国民の意思は直接には示されていません。今のところ、憲法は国民を超越していて、日本人は憲法教の信者と言えます。

 昭和憲法は外国人には強制力を持たないので、憲法が無くなっても世界の国民の「基本的人権」は認められますが、日本国民の「基本的人権」は保障されないと云う事になります。

 憲法第12条  

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 つまり、権利は放棄する事が許されているので「自死する場合は、公共の福祉とガイジンの生存権を侵害しないように細心の注意を払いなさい。」と理解できます。つまり、「一人で死ね」と云う事です。

 確かに、「永久の権利として、・・・」と書いて有るので、昭和憲法が無くなってもこの「基本的人権」は有効のようにも見えますが、この憲法の由来を考えると怪しいものです。

 明治憲法の「上諭」には、  

・・・朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ(朕の現在および将来の臣民はこの憲法に対し永遠に従順の義務を負わなければならない。)。  

と、書いてあるにも拘らず、「全文改正」をしてしまいました。

 「永遠の義務」が全面改正の対象になるので、「将来の保障」などは「屁のツッパリ」にもなりません。

 日本国民は自ら、「日本国民の人権よりも、外国人の人権の方が優先する」とする昭和憲法を支持しているようにも見えるので、昭和憲法を聖書のように胸に抱いて、日本国民が絶滅する姿も美しいのかも知れません。

 


「選挙結果」 と 「自衛隊」

2019年06月25日 | GHQ

  一票の格差により「選挙は違憲状態でも選挙結果は有効。」との最高裁判決が有ります。

  選挙は公職選挙法に則って行われているので、公職選挙法が違憲状態と言えます。この違憲状態の法律の結果として成立した国会や政府でも、合憲と判断された事になり、その行為が「立法権・行政権の範囲」で有効であると「司法権の範囲」で認めた事になります。

 日本には「国家主権」が現存せず、国民が自分自身に認めた「国民主権」があるだけですが、どのような「違憲状態」でも、選挙による「国民主権の範囲」で認めた事は、有効であるとも言えます。

 同様に自衛隊を、最高裁は「一見してきわめて明白に違憲・無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない。」としています。

 多くの憲法学者は「自衛隊は違憲だ。」と言ってますが、その言い方は間違いであり、正しくは「自衛隊法は違憲だ。」です。そして、最高裁は現在の自衛隊法の憲法判断は出来ないとしています。 しかし、例え「自衛隊法が違憲状態」だとしても、同様に設立された自衛隊が違憲だとは言えません。

 「現在の選挙結果」も「現在の自衛隊」も統治行為として、最高裁は有効性を保障しています。 つまり、行為の優先順位は、立法>行政>司法、と、なります。これは、三権分立の定義からは外れますが、「国家主権」自体が無いので、当然とも言えます。

「国民主権」の前には、憲法学者の入り込む余地は有りません。

 そもそも憲法学者なる者は、自身が存する法的根拠は有りません。 国際法や明治憲法から見て違法である「昭和憲法」を、GHQから「新憲法を合法化しろ」という命令が出され、憲法学なるモノが生まれて「八月革命説」を唱えたのが「憲法学者」の走りである帝国大学(東大)法学部の宮澤俊義教授です。

 GHQには日本の占領統治が認められていたので、統治行為論からすると国際法に違反した行為でも、その結果は有効とされます。よって、GHQの指令により創られた昭和憲法も自衛隊も、国際法によってその結果の有効性は保障されています。

 勿論、昭和憲法を破棄する事も軍隊を創立する事も「明らかに違憲」でなければ、統治行為論では「違憲状態」だとしても可能となります。事実として、昭和憲法には「憲法破棄の禁止条項」は無いので、「明らかなる違憲」とは言えません。

 国際法から見ると違法状態の昭和憲法でも、昭和憲法から見ると違憲状態の自衛隊法でも、統治行為論では有効と言えます。

 若し、ここで自衛隊の存在が違憲だと仮定すると、同時に日本国政府の存在自体も違憲となります。 自衛隊の違憲性を法律論で正当化するには、「日本国は米国の被保護国で、米国の統治下にある。」との解釈で「統治行為論」を主張し、米国の判断を仰ぐ以外にありません。



「所謂、天皇制」 と 「所謂、民主制」

2019年05月22日 | GHQ
 「象徴天皇制を日本に残った最後の奴隷制だと考える。」と言う法哲学者がいます。
 その理由として、「現状の天皇制とは、国民が集合的なアイデンティティ形成のために天皇を用いており、その結果として天皇の人権が極度に制限される結果となっている。いわば『民主的奴隷制』である。そして、人権が制限されている現行制度から天皇を解き放ち、三島由紀夫が「雅」と表現した美的・文化的存在として新たに位置づけなおすべき。」と主張しているようです。

憲法前文
・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。・・・

憲法第1条
 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 この憲法は、昭和天皇の御名御璽が為されている事から、天皇が認めた事になっています。勿論、国会の承認も得ています。しかし、「主権の在する国民」の判断は下されていません。当時の国会議員が正当に選挙されたとしても、選挙時における公約には「明治憲法の全文改正」は無く、「主権の存する日本国民の総意に基く。」筈がありません。

 つまり、「所謂、象徴天皇制」は天皇自身と、GHQに脅された国会議員の独断で決められたモノです。決して「民主的(奴隷制)」とは言えません。天皇が奴隷的拘束を受けているとしたら「自主的奴隷制」と言えます。
 そもそも、昭和憲法は「明治憲法違反」で、また手続上「主権の存する国民の信任」を得ていません。GHQの判断では、明治憲法は非民主的だとされていたので、その非民主的な明治憲法の下で選出された国会議員が制定したした昭和憲法は「自明的に非民主的」と言えます。
 明治憲法が「非民主的憲法」であるとの説は、GHQと同様に、現在でも自称「憲法学者(主権の存する国民から見ると『憲法無学者』)」の間では通説となっています。

 GHQと憲法学者の判断によると、天皇独裁の「非民主的」な明治憲法に則って、「非民主的」な国会議員が可決し、「独裁天皇」の承認を得たのが「昭和憲法」です。ここには「民意」が入り込む余地はありません。

 天皇自ら決裁した「所謂、天皇制」が「民主的奴隷制」と言えるのなら、GHQの支配下で国際法にも違反して生まれた「昭和憲法」は、日本国民に「奴隷的民主制」を強いていると言えます。