オメガねこ

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「屁理屈」 と 「詭弁」

2024年02月08日 | 思想・思考
 百田尚樹大先生が「月は永久に地球に落ち続けてると思ってる」と言った事に対して、武田邦彦博士は「そう云う言い方をしたら、そうとも言える(常識的な見方では周回軌道を回っている)。」と答えていました。

注)
「そう云う言い方」;月は地上に落下し続けているが、地球が丸いために球面に沿って落下し、地面に衝突することは無い。

 月の起源は、地球に巨大隕石(小天体?)が常識的言い方では「落下(客観的には衝突)」し、その反動で地球のマントルが飛散し常識的な言い方では「上昇(客観的には部分飛散)」して、遠心力と引力(重力)がバランスした位置で再集結し「地球の衛星」となった(有力説)とされています。

 なので、”そう云う言い方”を月の起源にまで遡ると「月は永久に上昇し続けている」とも言えます(常識的な見方では周回軌道を回っている)。但し、「宇宙膨張論」が正しければ、「月と地球は永久に離れ続けている」ことは確かなようです。

 同様に「見方を変える」と様々な「屁理屈」「詭弁」が生まれますww

 例えば、地面に落ちる「ニュートンのリンゴ」を月から見ると、
「リンゴは地球に向かって上昇している」とも言えます。

 例えば、1万年以上前から縄文人が住んでいた北海道に、8百年前の記録しか確認できない「アイヌ」が現れ、江戸・明治以降に生まれた縄文系日本人よりも先住していた事から
「アイヌは先住民族」と言える。

 例えば、着用が任意だった「コロナマスク」でも、他の全員が着用している場所では「憲法で保障された基本的人権」を無視し強制された場合でも、「当時の状況ではやむを得なかった」とする最高裁判決は、判事の能力からするとやむを得ないww

 例えば、任意接種の「コロナワクチン(治験中)」を「お願い」に応じて自主的に接種した場合は自己責任なので、たとえ担当大臣が「全責任をとる」とは言っても、大臣の最大の責任の取り方は「辞任」であり、「この大臣」の責任には「被害者の救済」は含まれない。

 例えば、「共産主義」は絶対に正しいので何をしても許される。民主主義にしても「死者には発言権は無い」ので、共産主義革命での虐殺や共産主義下での粛清は、結果的に正当と言える。何故なら、環境不適合生物が死に絶える事で、人類が進化してきたのは科学的帰結。

 例えば、単に「加齢とともに血圧が上昇し、死亡率も上昇する」にしても、「(年齢区分を取り除き)高血圧と死亡率との相関性」を示す事で、病的な血圧上昇を起こさない塩分摂取を控えさせ、降圧剤を売りつけても問題は無い。

 上記の幾つかは「詭弁」なので、「屁理屈」と混同しないでくださいww

詭弁 ;命題を証明する時に、実際には誤っている論理等を展開する推論。
屁理屈;  〃      、確実には否定できない理論を展開する推論。



「演繹」 と 「帰納」

2023年12月29日 | 思想・思考
 今回は「人の思考手法」について考察します。

① 演繹法(ディダクション);規則「AならばBであり、BならばCである。」が正しければ、「AならばCである」が成立しますが、各要素[A][B][C]の定義が確立(固定化)されている必要が有ります。

 例えば、「米は食料品であり、食料品はスーパーで売っている。」ならば「米はスーパーで売っている」が正しいように思えますが、「人の食料ではない米(動物の餌など)」や「米を売っていないスーパー」「米が品切れ中」の可能性も有り、事実が固定化されていません。

 また、「Bの結果としてAが出来た」としても、AがB以外から出来る場合も有り、自然界では良く見られる「AならばBであるが、例外もある」場合は、「A=B」が常識だとしても、間違いである可能性は残されていて「科学」の対象になります。

 当然ですが、「(正しいとされる)規則」を独裁者や民主主義(絶対多数も含む)で決める場合は「科学的」とは言えず、人類は多くの間違いを経験してきました。


② 帰納法(インダクション);「AならばBである確率が高い」は自然現象を良く説明していますが、「常識」の部類であり「科学」とは言えません。

 「帰納法」は社会生活には必須のアイテムで、「思い込み」も多いのですが、個人で利用する場合は、統計的に処理(自然淘汰)されるので然ほど問題にはなりません。但し、為政者が利用すると「人工(人口)淘汰」に繋がる恐れがあります。

 卑近な例では、「ワクチン接種とマスク着用で、感染症を防ぐ確率が高くなる。」は常識と言われるだけあって、何れも「科学的証拠」は存在しません。寧ろ現実を①の「演繹法」で言うと、

「感染予防対策を徹底した国は混乱が長引いた。」「混乱が長引く国は政治が未熟。」から、

「感染予防対策を徹底する国の政治は未熟。」

が成立し、これが正しいかどうかは科学的に証明でき・・・そうですww


③ 逆行推論法(アブダクション);観察された事実(と思われる)集合を対象に、その成立過程を考察し最良の結論(前提の規則)を得る手法。集合体の個別の事象に対する説明は充足していても、全体を推論した場合には、その「説明の正しさ」から導かれる結論は保証(一般化)されません。当然、「合成の誤謬」もあり得ます。

 例えば、太った人の食生活を観察すると大概はカロリーの取過ぎなのですが、大食いギャル曽根の例があるように、大食いだから太るとは限りません。だからと言って、「事実を精査した結果、食べ過ぎても太るとは限らない」は、結論にはなりません。「例外の科学的根拠」を示す必要があります。

 事故や故障の原因を調査する時には、当然ですが「逆行推論法」が有意です。「結果」が起こる前に何が起きたかを調査して、経験則で分かっている事象をその「原因」とします。但し、「その原因」によって必ず「その結果」が起こる保証は有りません。

 例えば、マスク着用者が増えた原因を調査すると、「風邪の流行」「花粉の大量発生」などが過去の経験から分かりますが、最近の例では「マスクの着用は政府によるお願い」だったり「他人に対する思いやり」「仲間外れにされるのが嫌だ」などがあり、科学的ではないので「逆行推論法」が成立しない場合もあります。

 それどころか、「政府の命令」でもないのにマスク着用者が増えているのは「感染症が大流行しているから」と「演繹法」で解釈されて「エピデミック(パンデミックの地方版)」に繋がる可能性すらあります。

 「逆行推論法」を正しく利用するには、「間違った人為の介入(政治など)」を排除する必要が有ります。共産主義革命は「逆行推論法」を(逆)利用した結果なのですが、「例外」を強調する、現在で言う「Woke;(例外的な)目覚めた人」にありがちな「PoliticalCorrectness;(例外的な)政治的正しさ」を多用した事から、革命には成功してもその結果は悲劇です。

・マスク着用とワクチン接種で、感染症を抑えることが出来る。
・労働者階級が国を統治すれば、平和で平等な社会が生まれる。

などは、科学的に何の根拠もない「うわさ話」なので、結果として混乱を招いただけです。

 「人為」と書いて「偽」と読むww



「壺的宗教」 と 「科学的宗教」

2023年10月04日 | 思想・思考
 「アブラハムの宗教」と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教では偶像崇拝は禁忌とされていて、神を可視化してはならないとされているようです。但し、「可視化」の定義が定かでない事も有り、「偶像」は十字架の例も含めて、それ自体を崇拝しなければ許されるような気もします。

 噂で聞いた事しか無いのですが、イスラム教では厳密な「偶像崇拝の禁止」があるようで、神を偶像化する事も罪になるようで破壊されるかもしれません。なので、私にはイスラム教徒の前で「神を偶像化しても、そのモノ自体を崇拝しなければイスラム教に反しない」と屁理屈をこねる勇気は有りません。

 「イスラム教の神」は唯一絶対神で、人が確認する事は出来ず、何かに内在する事も無いとされていることから、預言者である「アダム、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマド(等)」は、人ではない事になります。何故なら、「神の声を聞いた」とは言ってもそれが「神」であるかどうかは、人には確認できないからです。

 「神」でも「人」でも無い預言者が何であるかは、私には判らないのですが、「人以外の生物」や「偶像」である可能性は否定できません。また、例え誰かが「偶像」を造ったとしても、それは「神とは無縁なモノ」で有ることはイスラム教徒自身が知っているので、何の問題も無いように思えますが、ムスリムの気に障るようです。

 日本の「神道」は道(道徳)であり宗教では無いのですが、萬物に神は内在すると考える事から、「最終宗教戦争」は[イスラム教 Vs 神道]になる可能性があります。神道の「内在神」と、イスラム教の「唯一神(アッラーフ)」とは、日本語で「神」とは書いていますが、定義そのものが違うので、話し合いで解決する問題ではありません。

 私は、仏教葬儀で神妙になり「お経をモゴモゴ言ったり」、神社などでお参りする時は「両手を合わせる」のですが、それは単なる「演技」です。それは、コロナ対策禍での「マスク着用」と同じで、「マスク効果」を自ら否定していながら諍いを避ける為にマスクを着用するのも、単なる演技です。一部の「イスラム教徒」は、そのような「神社仏閣の内在神」を破壊する例が多発しているそうです。

 但し、私は「神は萬物に内在する」ことは科学的にも信じています。当然、「絶対神(GODなど)」と「内在神(現在のところヒッグス粒子?)」とは、その定義が違うので比較しようが無いのですが、「絶対神」を信ずる人からは「邪教の信者」に見えると思います。

 標語である「多様性と包摂」の観点から見ると、日本が「多様性の無いイスラム教」を受け入れると云う事は、「多様性が無い事」を認める事になり「包摂の否定を許容する」と云う矛盾を生じます。

 「自由と平等」「多様性と包摂」など、反意語を並べる標語は混乱を齎すだけなので、DSの「思う壺」です。



「幸福」 と 「科学」

2023年05月25日 | 思想・思考
 「科学」とは、あらゆる事象に対して学ぶ事ですが、学んだ結果が正しいかどうかは「科学」としては判断できません。その「結果の正しさ」は、独裁主義の場合は独裁者が、人民民主主義の場合は人民の支配者が、国民民主主義の場合は国民が、それぞれ決定します。

 「科学に従え」は、科学の結果が正しいと誰かが判断した場合に言える事であり、「政治的」とは言えても、決して「科学的」ではありません。

 「幸福」を学ぶ場合は「幸福学」と言えますが、これが「科学的」である場合には、当然ながら「幸福」の正しさが定まっていない事が前提になります。例えば、宗教として定まっていた「天動説(当時は説ではない)」の場合は、「常識」であり「科学」ではありません。

 「ワクチン万能説」「マスク万能説」など、様々な説が有るようですが、この「説」が絶対に正しいのなら「説」ではなく「常識(科学の結果も含む)」となり、もはや学問の対象ではありません。つまり、「マスク」はマナーであり「倫理(他人からの干渉)」の対象でしかなく、また自ら信じる場合は「道徳(大脳皮質による自身の体に対する干渉)と言えます。

 倫理に従う事や、自ら道徳的であると認識する事が「(自らの)幸福」に繋がるのなら「社会的」に最善と言えても、それが「科学的」でない事は歴史を振り返れば明らかです。

 「倫理」や「道徳」、或いは「説」や「常識」などは時代と共に変遷するのは当然として、同時代の「政治体制」や「宗教・宗派」が、「幸福」を目標に成立しているにも拘らず、対立的である場合が多いようです。

 一般的な「幸福」は対立が無い状態で得られますが、皆が同じ主張をしていて対立が無ければ「科学」としては成立しません。

 一般的ではない「幸福」は、例えば「独裁者」や「精神異常者」などの場合は「他人の対立」を糧に幸福感を得る場合が多いようです。また、幸福感を得ているかどうかは別にして、(自称を含む)神や仏、或いは聖者は、その存在意義が「無知な者に対する教え」なので、その思考は一般大衆とは対立的と言えます。

 其々の「幸福」が対立的であれば「科学」は成立するのですが、ユートピアでの一律な「幸福場」では「科学」は成立しません。

 つまり、共産主義やマニフェストデスティニーの様にワンワールドを目指す場合には、その過程では対立的なので「科学」を利用できるのですが、最終結末は「科学の無い社会」となり、自然に科学者がいなくなるか、最悪、科学者は不要になって抹殺されます。

 対立的な「幸福の多様性」を容認するのも「科学に従う」事になり、「絶対善」を目指す宗教や政治は「科学の否定」を意味します。但し、「性の多様性」や「民族の多様性」など、政治的な分断を目的とする場合は結果が決まっているので、対立が有るように見えても「科学」の対象にはなりません。



「内心の自由」 と 「外見の不自由」 其の弐

2023年05月02日 | 思想・思考
 「外見上の性」は容易には変更できないのですが、「性自認」はソノ気になればいつでも変更可能です。「性自認」をマクロでみれば「変更可能性」は低いのですが、特定の意図を持った個人に注目すると「変更可能性」は高いと言えます。

 「内心の自由」は憲法で保障さられているので、他人が口出しする問題では無いのですが、公共の場で突然「自認する性」が変更された場合は、その対処に困ります。例えば外形男女問わず、女風呂に入りたくなった時には「自認女性」になったり、立小便で済ませたい時には「自認男性」になったりでは、周囲の人が困惑します。

 「外見上の身長」は、自由に決めることが出来ないのですが、自認の場合はいつでも変更可能です。当人の「内心」は他人には判らないのでどうでも良いのですが、公の前では、互いに「外見」に従うと事なきを得ます。

 例えば洋服店で、客の実際の身長が150Cmだったとして、その客が「自分は、内心では180Cmの長身だ」と自認した場合でも、それは自由なのですが、店員としては150Cmで対応した方が収まりやすいと思いす。

 洋服店の店員が、客の「自認する身長」を認めない場合でも「差別主義者」とは言われないように、外見上の性とは異なる「性自認」を個人的に認めなくても、問題も無いと思います。それは、見る人にも「内心の自由」が有るからです。

 「性」も「背(せい)」も、外見上は自分の努力では如何ともし難いのですが、「性自認」や「背自認」はいつでも自由に変更できますww

 つまり、本人の努力では変更し難いのは「性」ばかりではなく「身体的特徴」一般について言える事であり、公的機関が客観性を無視して、公に性自認だけに配慮する必要性は無いと言えます

 「心と体の不一致」とは言っても、それは自分の体重・容積の1%にも満たない「大脳皮質」が考えているだけであり、その思考は生後の環境の影響によるものです。身心が一致しないのなら、「両親(両性に限る)から遺伝を継承した体」ではなく、「拙い経験で学習した心」を変更すべきです。

 「地動説」「マスクの有効性」「ワクチンの有効性」・・・等々、思考が固定した専門家でも、以前とは正反対の主張をしています。時代と共に正しさが変遷するのは止むを得ないのですが、同一人物が何の釈明も無く主張を変えても多くの人は納得しているようです。これは、宗教を含めて「思考はいつでも変更可能」である事の証左です。

 「事実」は神の為した事であり一つしか無いのですが、「真実」は人が見聞きした事で人の数だけ有ります。しかも最近では「見えるモノを見ず、見えないモノを見る」のが流行っているようなので、混乱を極めています。

 とは言っても、これらは「DS」の計画の一部なので、「人口削減」には良い結果を齎すかもしれませんww