硯日記

書道の話、硯の話、字の話、いろんな話をします。

まずはカタカナだ、話はそれからだ。②

2020-11-08 10:00:00 | 日記
僧侶たちは漢字を一部だけ書いて済ませる力を手にいれた
(*^▽^)/★*☆♪

タラララッタラーとレベルアップの音楽がなったところで続きのお話がはじまります。硯コレクターの恵美です(* ̄∇ ̄)ノ

漢字の一部を表音として漢文に書き込んだ…これがカタカナの起源です。

とすると、ひらがなとの違いも見えてきますね。
ひらがなは万葉集を筆頭に、日本語の名詞の表音に多く用いられていたのに対し、カタカナは漢文の解読として用いられました。

編纂も比べてみましょう。

ひらがなは
草書(万葉仮名)→さらにくずした草書(草仮名)→さらにくずした女手(ひらがな)→女手を楷書化(現在の公用ひらがな)

という流れでしたね。

カタカナはというと……
楷書→楷書の一部だけ書く

上!!
まさかの驚異の2ステップ!


ということは何が起こるかと言うと
ひらがなのように、たくさんの種類が生まれないのです。

ひらがなは、膨大な数の種類に増えて、読解に支障をきたすようになったと説明しました。その大きな理由は二つあり、

1つは、ひらがなになるまでの行程が多かったこと。

もう1つは、自分だけの特別な使い方がしたいという自己顕示欲、自己満足、独自性の主張、という個人主義が多かったこと。
キラキラネームが増えた要因と似ています。時代は繰り返しますね( ´-ω-)y‐┛~~


では、カタカナはというと、まずカタカナになるまでの行程が少ないです。それだけでも種類の数は押さえられます。

そしてもう一点、重要なのは何のために使うのか、という存在の意義です。

カタカナは漢文を読むという、個人主義では成り立たない、他者との共通性が必要とされる場面で使用されました。
漢文を読むためにカタカナで送り仮名やふりがなをつける……すなわちそれは漢文を補助なしで読むことのできない人、つまり漢文を学んでいる人です。
学ぶ、という行為は一人では成り立ちません。
指導者や学友と共に、知識を交換していく作業なのです。

そんな中に、例えば
「オリジナリティあふれるカタカナを書いて、自分を表現しちゃお!」
なんて人がいたとして、果たしてこの人は学べるでしょうか……?

まず、読んでもらえないから指導をしてもらえないかもしれません。学友と話があいません。
もしも指導者がそんなオリジナリティあふれるカタカナを書いていたら、生徒(弟子)は何も学ぶことはできません。

学問において自己満足は無意味なのです。


超私的感情を言いますと、私はカタカナのこんなところが好きです。
他者と学問をするために、自己主張ではなく共通を全うする……言語のあるべき姿を見る心地がします。言語とは感情の共有、そして学問の共有の砦なのです。

話は戻りますが、こんな質問をよく受けます。
カタカナに、ひらがなのような変体仮名は存在しなかったのか?

もちろん存在します。

しかし、カタカナの変体仮名はあくまで理性的であり、ひらがなのように数が増えすぎることはなかったのです。

そしてひらがなと同様、1900小学校令施行規則により、カタカナも48音が指定され他のカタカナは変体仮名になりました。

しかしながら、変体仮名になったカタカナは、ひらがなと違って現在あまり使われていません。




あぁーーーひらがなの説明でめちゃくちゃ時間がかかってしまったーーーっ!

次回、カタカナ最終回!
なぜまずはカタカナなのか!?をお話しします!


ではまた!o(*≧∀≦)ノ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿