久しぶりになってしまいましたが、硯のことを書きたいと思います。硯コレクターの恵美です(o´▽`o)ノ
突然ですが皆さん、好きな駅はありますか?
この
「好きな駅はありますか?」
という質問。
たまに受けるのですが、こういうときってみなさん、どのような視点で好きな駅を選ぶのでしょうか?
いつも不思議に思っています。
鉄道好きの方や、たくさん旅行されている方にとって、駅はどのように見えてるのでしょう。
その土地に生きている方や、行きつけの場所がある方は、駅をどう思って利用しているのでしょう。
デザインや建築、アートなどを重視する方は、駅にどんな魅力を見つけているのでしょう。
私にとっての駅は、移動のための入り口でしかありません。特別な視点を持って見たことはありません。
しかし、私にもひとつだけ、恋い焦がれて愛し続ける駅があるのです。
それは、東京駅。
変な話ですが、もしも東京駅が駅じゃなくても、私は東京駅が好きです。駅という存在ではなく、駅舎そのものが好きなのです。
デザインや建築はわかりません。駅舎という存在の良さは、はっきり言ってわかりません。
ただ、東京駅の駅舎の屋根が好きなのです。
色々な方が色々な視点で好きな駅を探すように、私も硯の視点から好きな駅を探せば、東京駅にたどり着きます。
東京駅の屋根と硯になんの関係が?
┐(´∀`)┌
はい、みなさんからそんな声が聞こえてきました。
東京駅の駅舎と屋根の関係…あるようなないような…?いやはやめちゃくちゃオオアリです。
なぜなら東京駅の駅舎の屋根は、硯と同じ石で作られているからです。
その名も雄勝石。
宮城県の雄勝町で採れることからそう呼ばれています。
泥岩が層状に堆積した、玄昌石という種類の石で、硯だけでなく、器や屋根など、様々なものに使われています。
そんな雄勝石は、かつて戦国時代、その美しさと質の良さから伊達政宗が外部に流出しないように禁止令を出しました。
このことから、雄勝町内で最良の石が採れる山を「御留山(おとめやま)」と呼び、そこで採れる石は「御留石(おとめいし)」と呼ばれるようになりました。
つまり戦国時代の頃から、硯の原石として素晴らしい石だと、高く評価されていたのです。
しかしながら今日、書道やっている人の雄勝硯への評判はとても悪いです。安価に根付けされ、素人が試しに使う硯と蔑まれています。その証拠に、硯として石が柔らかすぎるという意味の豆腐石というあだ名まであります。
歴史的にその質の素晴らしさが認められている石なのにも関わらず、どうしてこのような評価になってしまったのでしょう。
今回は雄勝硯の歴史をたどりながら、その誤解の原因を解説していきたいと思います。
・明治時代を支えた雄勝石
時代は明治にさかのぼります。
戦国時代から伊達政宗に外部への流出を禁止されていた雄勝石ですが、江戸時代が終わり明治時代になると、外部への流出が解禁されます。
明治政府がまず進めたことのひとつが教育です。
「学問は国民各自が身をたて、智をひらき、産をつくるためのもの」という教育観を唱え、明治4年の文部省の新設とともに、翌明治5年に「学制」の公布。明治12年には学制を廃して、教育令(自由教育令、太政官布告)の公布と、世界に対抗できる日本を作り上げるため、学問を国民全員に与えていきます。
ところで皆さん、ちょっと考えてみてください。
学校で勉強するための道具って何だと思いますか?
今だと、教科書・ノート・鉛筆ですね。
カラーボールペンやマーカーなど、文房具に豊かな時代となりました。なんとも楽しいことです。
さて、当時はどうでしょう。
教科書・ノート・鉛筆……これを当時に当てはめると、教科書・筆・墨・硯になります。そうなんです。たった150年くらい前は、学校では硯を使って墨を磨り勉強していたのです。
この時、学校で使う硯を作っていたのが、なんと宮城県の雄勝町でした。明治政府は雄勝の豊富な石の採掘量に目を付けたのです。質がいい石が豊かに採れる土地、そして流出禁止となってから雄勝石だけを彫り続け、受け継がれてきた職人たちの力によって、硯の大量生産が行われたのです。
大量生産とは言っても、当時は現在のように機械があるわけではありません。人の手で1面1面、彫っていくのです。
ベテランの職人さんが1日に彫れる硯の限界は5面と言われています。
余談ですが、皆さんが使っていた習字セットの中に入っている硯のサイズはこの時にできあがったものです。生産効率を上げるためには一定サイズが必要でした。
さて、1日一人5面を彫ったとしても、日本中が学校で学ぶのです。足りるわけがありません。
そこでどうしたかと言うと、雄勝の職人さんたちは石の硬度を下げました。
硬度とは、例えばダイヤモンドを10とすると、上質な硯は8・9、中程度で5・6くらいと思ってください。硬ければ硬いほど墨を磨るときの磨耗は少なく、良く磨れますし長持ちします。柔らかい石だと墨の硬さに負け、表面が削られてしまうためすぐに墨が磨れなくなってしまいます。
そんな中、当時の雄勝では 3・4程度の硬度の石を硯にするように方針を変えました。
厳密に言うとややこしい話なのですが、方針を変えたというよりも、当時は石の採掘者と硯の職人が別の組合であったため、採掘者から職人が石を買う時に柔らかい石が好まれ、よく売れたのです。また、石の採掘は基本的に手前側が柔らかく、奥に掘り進めていくにしたがって、硬い石になっていきます。掘り進めていくにはそれなりの技術と危険が伴い、大変な作業です。もしも柔らかい石が売れるのであれば、採掘業者にとっても都合がいいのです。
1日約5面しか作れなかった硯が、石の硬度を下げることによって10面を彫ることが可能になりました。2倍のスピードです。
とはいっても、それはもとからいる硯職人さんのスピードであって、硯を作っていた方々の中には硯を作るために派遣された人も大勢いました。その最たるが、江戸時代の薩摩藩士です。戊辰戦争を終えて、明治に二つの藩が協力し日本の教育のために硯を作る……このできごとを思うと、私は新しい時代の幕開けを思い胸が熱くなります。
この薩摩藩士たちが採掘や作硯に関わっていくためにも、難易度の低い採掘、作硯が求められるのは必然的でした。
こうして雄勝硯は自分たちのブランドの名誉よりも、日本の教育のために立ち上がり縁の下の力持ちになることを選んだのです。
当時作られた硯は柔らかく、お世辞にも質が良いものと言えません。しかしそこには大量生産を機械ではなく人間の手で叶えようとした苦闘の日々が刻まれているのです。
皮肉なことでありますが、この当時の硯のイメージが未だに払拭されず、最初に述べた「豆腐石」と呼ばれる所以となりました。
豆腐石……すなわち、墨を磨る石として柔らかく、質の悪い石。しかし当時、大量に作るために余儀なくされた石です。
そして現代も、安価な硯を作るときは雄勝石(もしくは中国石)を使われることがとても多いです。
このせいで勘違いをする人が増える一方なのであえて声を大にして言いたいのですが、柔らかく、質の悪い石はどこの産地でも採れます。
それを安価で使うことを許すか、それともブランドの質を保つために使わせないか、この違いなのです。どちらが良く、どちが悪いという話ではありません。志の違いなのです。雄勝硯は、みんなが硯を使えるようにという志のもと、懐の深さを持っているのです。優しい石です。
さて、まずは明治時代の話をしたところで、とんでもなく長くなってしまいました。
続きは次回!ではまた!(o´▽`o)ノ