以下は吉田理論であり、科学的根拠とか正しいとか間違っているとかいう概念とは全く無関係です。
このことは議論とも全く関係ありません。
以下
二重スリット実験~粒子と波動の問題とシュレディンガーの猫と人間と現世界
二重スリットの実験とは量子力学における粒子と波動の二重性について行った最も美しい実験と言われている。
量子銃によって電子を一個ずつスリットを通して発射し、その向こう側のスクリーンに波の性質を持つ干渉縞が現れた。電子は物質であるにも関わらず、スクリーンに干渉縞が出来たので、粒子は物質であるにも関わらず、波の性質を持つという奇妙な結果が得られ、それを粒子と波動の二重性という。
もっと奇妙なことは、何故そうなっているのかについて観測器をおいて観察を始めると、スクリーンには波の性質である干渉縞、物質としての粒子の点が観測されたということです。
これが観測者問題。観察することによって粒子は物質として振る舞い、観測しなければ波になるという問題です。
これはシュレディンガーの猫実験でも確認できます。
実験のやり方はこうです。
中の見えない密閉できる箱に放射性物質のラジウムの容器を入れそのラジウムが漏れる確率を50%にします。それに放射線の検出器とリレーハンマー、青酸を用意します。もし、検出装置がラジウムから出る放射線を検知したらリレーに電流が流れ、ハンマーが青酸ガスの入ったびんをたたき割るようにし、その箱の中に猫を入れて箱に蓋をします。
蓋を閉めた瞬間から、猫は50%の確率で生きているのか死んでいるのか、どちらかになります。しかし、それは蓋を空けて観察するまで分からないのです。
観察できない状態ではもやもやした雲のような状態であり、観察したとたんにそれは明確に確定されます。
私たちの世界は私たちの観察によって確定している世界になります。つまり、あなたが観察した世界があなたの現実世界です。あなたが観察していないものは、あなたは認識できません。
さて、粒子の物質としての側面と波動、波としての側面の二重性もこの観察者問題と同じです。
観察していないと波になり、観察すると物質として確定する。
粒子は物質であり、波であるというのは不思議な気がするかもしれませんが、それは全く不思議なことではありません。
私たちの身の回りで考えれば当たり前のことです。それは観察者が捉えることの出来るサイズ感の違いによって証明されます。
例えば、空を舞う鳥の集団はまるで黒い波のように見えます。しかし、近くで良く観察すると一羽一羽の鳥で構成されています。
同じように海の魚の集団は波のようです。
シャーレで培養した細菌は波のような姿をしていたりします。顕微鏡で覗くとそこにひとつひとつの細菌が見出せます。
東京のスクランブル交差点を渡る人々は人波を構成しています。当然ながらよく観察すると個別の人がそこに存在します。
このように粒子と波のような関係はいくらでも見出せます。いや、粒子は集団ではなく一個で観察したではないかと思われるかもしれません。
確かにその通りです。電子は確かに一個です。私たちが観測していないときは、それはバラバラになり、まるで波のように見え、振舞います。これは集団の鳥や魚と同じです。
電子は一個と言いましたが、電子は物質である以上、何らかの物質で構成されています。まだ私たちは観測できないだけです。
この何らかの物質で構成されたバラバラになったものは、観察した瞬間に電子一個に集約されます。
つまり、見た瞬間に物事は確定するということです。シュレディンガーの猫です。
人間が観察できないものは発見も認識できないのです。
ですから、観測者問題とは、人間がまだ観測出来ない問題ということです。これは自分の後頭部を見ようと鏡を合わせた、合わせ鏡のように無限に続きます。
鏡に映るのは”か”と”み”の間に存在する無限の”我”です。
これが問題であり、観測者が観測者を観測できない問題もあります。
スクランブル交差点の人波は、近づいて、あるいは双眼鏡で拡大して観察すると、個人が見えます。
波が一個の物質になります。
これは二重スリットの実験と同じ現象です。
あなたが、観察していないものは存在が確定していません。シュレディンガーの猫のようにもやもやと電子の雲がそこにあるようなものです。
それをあなたが観察したときに初めて存在します。
あなたは今一人で部屋にいるとします。あなたはボーっとしているかもしれません。あるいは何か本を読んでいるかもしれません。あなたは一人なので自由です。
その時、あなたは不確定です。もやもやした存在に過ぎません。なぜなら誰にも観察されていないからです。あなたは誰かに観察されたときに確定され初めて存在します。
その時、あなたの振る舞いは変わります。それまでボーっとしていたり完全に自由でしたが、観察された途端に我が現れ確定します。
これは逆も言えます。あなたが観察しない限りは他人は存在しないし、自分の部屋以外は存在しません。
あなたが人を訪ねたり、あるいは他の部屋に行ったときにその部屋は観察され、存在します。
いや、私は自分の部屋にいるけど、他の部屋もありそこに両親や兄弟がいるのを知っているよと言うかもしれません。
しかし、あなたが部屋にいる時に観測できないので存在していません。観察できないものは存在していないのです。
存在しているのはあなたの頭の中にある記憶です。ですから、目の前にある観察できるもの以外はあなたの頭の中に存在しています。
つまりこの世界はあなたの頭の中にあり、その世界が目の前に投影されているわけです。
世界はあなたの頭の中にあるのです。その投影が、あたかも外に物事が存在しているように感じられる訳です。
あなたが外に投影した世界を体験して動いていいると感じているかもしれませんが、それは違う可能性があります。
動いているのはあなたではなく、周りであり、あなたは一ミリも動いていない。動いているように映像が流れているということです。
いやそんなことは無いと思われるかもしれません。世界は外にあり、動いているのは私だと。実はこれはどちらでも同じだし、どちらでもいいんです。
太陽が地球の周りを回っていようが、地球が太陽の周りを回っていようが私たちの生活には何の違いはありません。
これは地球が丸いか平面かというのと同じです。どちらでも良いことです。どちらも私たち個人では確認できない問題です。
実際、科学的根拠というものの多くは、私たち個人では確認、観察できないことばかりであり、本来はわかりません。私たちにとって観察できることだけが存在しています。
それが現世です。
私たちは科学的根拠という壮大なマジック(魔法)に迷い込んでいます。魔法を解いて、現世を体験することが最も大切なことだと思います。
というか現世に私たちが存在している理由は、現世における壮大なマジックを解いていくことかもしれません。
答えが得られた先に、何があるのか私たちはまだ観察していないので全く不明です。
そして、面白いことにあなたは、部屋に一人でいる時と、外で他人に観察されている時では振る舞いを変えるでしょう。これは粒子の振る舞いと同じです。
これが粒子と波の二重性の問題と観測者問題です。
ちなみに、僕を観察する為に宇宙連合から派遣された”ここ隊長”も僕が観察するまでは、シュレディンガーの猫状態です。
ここ隊長から見たら、”ここ隊長”が僕を観察するまでは僕はシュレディンガーの猫なのです。
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