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ChatGPTの『古事記』『日本書紀』英訳

ChatGPTの『日本書紀』英訳 推古天皇 18

『日本書紀』推古天皇 18

十七年夏四月丁酉朔庚子、筑紫大宰奏上言「百濟僧道欣・惠彌爲首一十人・俗七十五人、泊于肥後國葦北津。」是時、遣難波吉士德摩呂・船史龍、以問之曰、何來也。對曰「百濟王命以遣於吳國、其國有亂不得入。更返於本鄕、忽逢暴風、漂蕩海中。然、有大幸而泊于聖帝之邊境、以歡喜。」

五月丁卯朔壬午、德摩呂等復奏之。則返德摩呂・龍二人而副百濟人等、送本國。至于對馬、以道人等十一皆請之欲留、乃上表而留之、因令住元興寺。秋九月、小野臣妹子等至自大唐、唯通事福利不來。

十八年春三月、高麗王貢上僧曇徵・法定。曇徵、知五經、且能作彩色及紙墨、幷造碾磑。蓋造碾磑、始于是時歟。秋七月、新羅使人沙㖨部奈末竹世士、與任那使人㖨部大舍首智買、到于筑紫。九月、遣使、召新羅任那使人。

≪英訳≫

On the fourth day of the fourth month, the Governor of the Dazaifu in Tsukushi (筑紫大宰府) reported:
“Ten monks from Baekje (百済), led by Dōkon (道欣) and Emi (恵弥), along with 75 laypeople, have arrived at Ashikita Port (葦北津) in Higo Province (肥後国).”

At that time, Naniwa no Kishi Tokomaro (難波吉士 徳摩呂) and Fune no Fubito Tatsu (船史 竜) were sent to question them about their purpose for coming. They answered, “We were dispatched to the country of Wu (呉国) by order of the King of Baekje (百済王). However, the country is in turmoil, and we could not enter. While returning to our homeland, we encountered a violent storm and were left adrift at sea. Fortunately, we have arrived at the borders of the holy emperor’s (聖帝) realm and are deeply grateful.”

Fifth Month (May)
On the 16th day, Tokomaro and the others returned and delivered their report. Consequently, Tokomaro and Tatsu were sent back with the Baekje people to escort them to their homeland.

When they arrived at Tsushima (対馬), 11 monks requested permission to stay in Japan. A formal petition (上表) was submitted, and permission was granted for them to remain. These monks were subsequently housed at Asuka Temple (飛鳥寺).

Ninth Month (September)
Ono no Imoko (小野妹子) and his party returned from the Tang dynasty (大唐). However, the interpreter Fukuri (福利) did not return with them.

18th Year, Spring, Third Month (March)
The King of Goguryeo (高麗王) sent as tribute the monks Donchō (曇徴) and Hōjō (法定). Donchō was well-versed in the Five Classics (五経) and skilled in making pigments, paper, and ink. He also introduced the technology to create water-powered mills (碾磑). This appears to be the first time such mills were constructed.

Autumn, Seventh Month (July)
The Silla (新羅) envoy, Satakuhō Nama Chikuseishi (沙喙部奈末竹世士), and the Mimana (任那) envoy, Takuhō Tasa Su Chibai (喙部大舎首智買), arrived in Tsukushi.

Ninth Month (September)
The court sent officials to summon the Silla and Mimana envoys for an audience.

≪この英文の和訳≫

十七年(壬午年)夏四月(丁酉朔)
四月四日、筑紫大宰府の長官が奏上した。「百済の僧である道欣(どうこん)と恵弥(えみ)を首として僧十名、俗人七十五名が肥後国の葦北(あしきた)の港に停泊しております」と。

このとき、難波吉士 徳摩呂(なにわのきしとこまろ)と船史 竜(ふねのふびとたつ)を遣わし、来訪の目的を尋ねさせた。これに対し、彼らは次のように答えた。「百済王の命を受け、呉国に派遣されました。しかし、その国が乱れていたため入国できませんでした。それで本国に戻る途中、暴風に遭い、海を漂流しました。しかし、幸いにも聖帝(天皇陛下)の御国の辺境に辿り着くことができ、大変喜ばしく存じます」と申しました。

五月(壬午年)
五月十六日、徳摩呂(とこまろ)らが報告に戻った。これを受け、徳摩呂と竜の二人を再び遣わし、百済人らを本国へ送り届けるよう命じられた。

対馬に到着した際、修道者十一名が皆在留を希望した。そのため、正式に申請を行い、滞在が許された。これにより、彼らは飛鳥寺(あすかでら)に住むこととなった。

九月
小野妹子(おののいもこ)らが大唐(隋)より帰国した。ただし、通事(通訳)の福利(ふくり)だけは帰国しなかった。

十八年(癸未年)春三月
高麗王(こうらいおう)が僧曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)を貢ぎ物として献上した。曇徴は五経に通じており、さらに絵具や紙、墨を作る技術に秀でていた。また、水力を利用した臼(碾磑 てんがい)を造る技術も持っていた。この水臼の製造は、このときが初めてであると思われる。

秋七月
新羅(しらぎ)の使者である沙喙部奈末竹世士(さたくほうなまちくせいし)と、任那(みまな)の使者である喙部大舎首智買(たくほうたさすちばい)が筑紫に到着した。

九月
朝廷は使者を遣わし、新羅と任那の使者を召された。

令和7年1月6日(月) 2025

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