Cats Lover , Animal Rights , Jazz Singer , Yuko Tsukazaki ♪

塚崎優子(Yuko Fairy♪)
(Jazz Singer)(猫愛好家)
(ECC ジュニア英語講師)

私は『日本ベジタリアン協会』の会員になりましたニャン☆(=^・^=)

2014年08月25日 | 動物愛護活動
私は『日本ベジタリアン協会』の会員になりましたニャン☆(=^・^=)
 
8月18日(月)にネットから
『日本ベジタリアン協会』へ入会して、
8月20日(水)会費 ¥3.000 送金させて頂き、
正式に会員になりましたニャン☆(#^.^#)

動物愛護の為、
Vegan(ヴィーガン)を目指す
Vegetarian(ベジタリアン)<ノン・ミート・イーター>になりましたが、
Vegan & Vegetarian の人数を増やしたいこと
神戸にも Vegan & Vegetarian 推奨店を
もっとたくさん作って欲しいという願いを込めて♡
自分に出来ることから(*^_^*)
『日本ベジタリアン協会』をサポートさせて頂きたいと思い、
入会致しましたニャー!(^_-)-☆
 
悲惨な飼育環境と
残酷極まりないを知って・・・(p_-)
感謝していただくことも
肉食を正当化する為に誤魔化してるだけに過ぎないと解り、
肉は食べられなくなりました・・・(^_^;)
身体の非常に弱かった私ですが、
肉食をやめてかた体調は良くなりましたニャ!(#^.^#)
ただ悔やまれることは
もっと早く動物たちの悲惨な現実を知って
ベジタリアン・ヴィーガンになりたかったことですニャン☆m(__)m

皆様 どうぞ宜しくお願い致しますニャ~♪(●^o^●)

塚崎優子♪(=^・^=)
 
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特定非営利活動(NPO)法人
日本ベジタリアン協会
Japan Vegetarian Society
http://www.jpvs.org/

大阪市北区中津2-8-B-101

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久しぶりのベジフェス企画、皆様是非お越しください! 

「ポールマッカートニー ドキュメンタリーフィルム上映会 in 京都(2本立て)」
~いただきます!のその前に知ってほしい食事の事~

日時:2014年8月30日(土)18:00~21:30


場所:京都市下京区河原町五条下ル 
ひとまち交流館大ホール(定員288名)

京阪「清水五条駅」より徒歩5分


http://www.hitomachi-kyoto.jp/floor_02_daikaigi.html

入場料:¥500 予約不要

スケジュール:

18:00 開場

18:30~ Devour the Earth 地球を貪り食う(ポ-ルマッカ-トニ-ナレ-ション、日本語字幕) 上映

19:00~ 佐藤史子(動物の権利活動家) 
   「日本の畜産動物たち」 トークライブ

19:20~19:30 休憩

19:30~ Glass wallsガラスの壁
(オリジナル・ビデオは PETA による制作、日本語吹き替え版は CFT による制作、
ポール卿ナレーションの日本語吹き替えの声は生馬アイザック)上映

20:00~ 中川雅博(農学博士) 講演 :コーディネーター関目実(環境活動家)

「菜食と環境―経験したことのない課題の解決に取り組む基本的な考え方」

20:30~ ベジタリアンになって良かったこと、後悔したこと。会場からのQ&A。 

パネリスト:福島景(動物愛護党)

吉田麻理(VEGANライフスタイル研究家)

司会:岩佐明子
(NPO法人ベジタリアンフェスティバル実行委員会)

主催:NPO法人日本ベジタリアン協会、NPO法人ベジタリアンフェステイバル実行委員会

後援:Choices for Tomorrow 、NPO法人アニマルライツセンタ-



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Veggie Monday Japan Goベジーマンデー!月曜日は菜食!
http://veggiemonday.japanteam.net/world_movements.htm

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全国自然食品店情報/野菜が買えるお店の紹介
 
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VegMag
ビーガン(ヴィーガン)・ベジタリアンのためのレストランガイド
 
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ベジレス・ベジカフェ検索 全国1,000店舗のリスト
 
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Glass Walls - Japanese Voice Over
PETA制作
ポール・マッカートニーが語る、畜産(動物)の悲惨さ。。。
 
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Earthlings Japanese Subtitle
https://www.youtube.com/watch?v=thFyxG5_V4c 

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ノアもヴィーガン(完全菜食主義)

思いやりのある真の宗教は、全てを愛します。
Religion with true compassion is to love all.
肉になる動物は殺されるという恐怖と悲しい思いをしなければならない。
それを食べた人間は病気になる。

これでは共存というより、共倒れである。
ノアの方舟のノアも菜食主義者、環境保護者、地球人活動家であったと。
証拠はここにあります。聖書から。
 
 

 
☆Vegan Demonstration ☆
ルイジアナ・オハイオ(California)
GO VEGAN ! Hurray !\(^o^)/
 
 
 




(私のお薦め本「ベジタリアンは菜食主義ではありません」)
<子どもから大人まで幅広く御覧頂ける解り易いとても良い本なので
 私は3冊購入しましたニャ~♪ 御興味のある方は貸出させて頂きますニャ♪>

☆ベジ漫画「ベジタリアンは菜食主義ではありません」通販サイト☆
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/505252/491025/65444854
1冊 400円(A5サイズ 全76頁★ 現在5版目)
別途送料は1冊~4冊まで=100円。クロネコメール便でお送りします。
(4倍ごとで、8冊までの場合=200円。12冊までの場合=300円になります。)

ベジ漫画Natsumiのビーガン日和

 ☆ベジ漫画 なつみ様が書かれた漫画本です☆
 
 

 

 

 

 

(私のお薦めブログ「空のブログ(動物愛護・アニマルライツとは)」
http://ameblo.jp/animal-liberation/

【何が正しくて何が間違っているか、さまざまな意見・状況がある混沌としたどうぶつと人間の関係において、
動物愛護とアニマルライツという立場を中心に、客観的に理論的に評価し、理論立て、
動物愛護とアニマルライツの進むべき方向性を定め、推進するために作ったブログです。】

ベジタリアンになる人には様々な形態があり、そして様々な理由がある。例えばベジタリアンの形態としては一番厳格な植物性の食品しかとらない「ヴィーガン」、フルーツしか摂らない「フルータリアン」、植物性の食品と乳製品しかとらない「ラクト・ベジタリアン」、植物性の食品と「卵」しか取らない「オボ・ベジタリアン」植物性の食品と乳製品・卵しかとらない「ラクト・オボ・ベジタリアン」などが見られる。植物性食品と魚しかとらない「ぺスコ・ベジタリアン」と言うのも過去にはベジタリアンとして見られていたが、現在ではベジタリアンの形態には入っていないようである。上記の人達やその分類に当てはまらない、肉食をしないで植物性食品をとっている人を総称してベジタリアンと呼んでいるようだ。


そして、その理由の形態は、最初に大きく大きく二つに分類することができる。一つ目は利他的菜食主義・利他的ベジタリアンと呼ばれる形態である。これは文字通り、自分のためではなく動物を含む他者のためにという理由で存在する菜食主義である。利己(的行為)と言うのは利他(的行為)以外の行為をさす。こういった利他的菜食主義には、動物のためと言う理由のほか、家畜の飼育による環境汚染を防ぐ環境のため、飢餓での餓死者を救うため、家畜を減らし植物の消費を減少させるため、と言うような利他的行為のために行われる菜食主義のことである。こういった形態でのビーガンの事をアメリカでは倫理的ビーガニズムと呼ばれているようだ。それに対し、利己的菜食主義・利己的ベジタリアンとは、自分の健康のために行ったり、自分の宗教上の理由など、自分自身の個人の利益のために行う菜食主義のことである。

そして、一般的に世間から言われ無き非難をされることが多いのは、利己的ベジタリアンではなく、何故か、利他的ベジタリアンのほうなのである。これは、利他的ベジタリアンの主張は動物を殺す事に加担するか、しないか、と言う問題に直結している。本当は動物を殺したくないのに、何も気づかず肉を食べている人や、気づいていても肉を食べたい人は否が応でも自分が動物を殺すことに加担していることに気づかされるか、あるいはその事実を思い起こされたり指摘されたりしていると感じるようである。そしてそこには、動物を殺すことは悪であるとの認識と、肉を食べることによって動物を殺すことへ加担しているという認識との大きな矛盾はその矛盾を認識する原因を引き起こしたために、自分自身に良心の呵責という苦痛を引き起こした(彼らにとって都合の悪い)奴こそ利他的ベジタリアンな訳である。

つまり、自分自身の心の中の罪悪感が、自分自身に苦痛を覚えさせているわけである。その結果、良心の呵責に苛まれながら、良心側に位置する利他的ベジタリアンを非難するという、二重に矛盾を抱えることとなる場合が多く見られる。しかし、実際はこの矛盾は利他的ベジタリアンが引き起こしたものではなく、自分自身で潜在的に引き起こしていると言うことに気づいていないだけである。つまり、その引き金を引いた利他的ベジタリアンが目障りだと言うわけであり、その生じた矛盾を利他的ベジタリアンに押し付けていると言うことである。これと同じ構図は別の動物問題にも見られている。余談であるが、熊本市の動物管理センターが「できるだけ生存の機会を与えること(環境省告示26号)」という法律に基づき、持込を説得して減らした結果、殺処分を減少させたときの、他の自治体や、動物福祉関係者の反応と良く似ている。彼らにしてみれば熊本市の動物管理センターが合法的に殺処分を減らした行為が目障りであったと言うことである。

そして、そういう人たちは、自分たちの行ってきた肉食と言う行為を正当化しようと、さまざまな理由を考えていくことになる。そういった理由は大体同じようなものが多い事が特徴である。本当にうんざりするほど同じような理由であるが、議論が深まればさまざまな詭弁や誤謬を生じさせてくることになる。これは自分も最初にそう思った事でもあるが、そういったさまざまな言い訳や疑問に対する反論や回答を書き綴ることにしたい。

もちろん、その反論や回答は、菜食主義の理由に直結するものであるし、利他的菜食主義への啓発にもなるものと確信する。そして、利他的菜食主義への疑問を持っている方にこそ、ここに無いような疑問でない限りはまず読んでからもう一度、私自身も含めて、自分の疑問を再検討していただきたく思うものである。長文になるので不定期的だが連載していきたいと思っている。


★動物は食べなくて植物は食べるのはなぜか?

倫理的側面から

・動物は可哀想だからってのはよく聞くが、植物も可哀想だ。

まず、植物もかわいそうであるというなら、動物を殺して食べる方がよりかわいそうであるといえる。何故なら人間や動物は苦痛を感じる能力があり、危害を与えると苦痛から逃れようとする。つまり苦痛を嫌がり、苦痛を良いとはしないと言うことである。また、人間も動物も何かを食べなくては生きていくことは出来ない。だから、何らかを食べる事になるわけであるが、同じ食べるのであれば、苦痛を感じる動物よりも苦痛を感じない存在を食べたほうが合理的である。なぜならば、上記に書いたとおり、人間も動物も苦痛を避けようとすることから、苦痛を良いことではないと認識していると考えられるからである。つまり、これは苦痛はないほうが良いと認識されているからであり、肉塊にされ、殺されるときに苦痛を感じる動物を、わざわざ苦痛を与えてまで食べる必要はないということである。これは苦痛を感じる能力のない植物・穀物を食べたほうが苦痛を感じる動物を食べるよりも、より良い選択であると言うことである。だから同じ生命を奪うにしても、植物と動物では大きな違いがあると言うことであり、植物も可哀想だから動物も人間も殺して良いとはならない。

・痛みのメカニズム

物理的刺激、あるいは疼痛物質(ブラジキニン、セロトニン、ヒスタミン、アセチルコリンなど)による化学的な刺激を疼痛神経終末端が感知し、電気的なシグナルに変換し温痛覚求心経路である外側脊髄視床路を通過し、大脳の中心後回が痛みとして認識した結果を疼痛という。痛みを伝える末梢神経にはAδ線維とC線維の2つの神経線維が知られている。伝導速度はAδ線維の方が速いため、腕を叩いた時の痛みははじめに局在が明確な鋭い痛みが伝わり、後から局在が不明確なじんじんとした痛みを感じると説明されることがある。この現象から痛みは二度感じると言われることがある。この遅い痛みであるC線維を軽度かつ持続的刺激を行うと痒みが生じる事が知られており、そのため、生理学的には痛みと痒みは同じ感覚とされたが、痒みは頭頂葉内側部の楔前部による独自のメカニズムで覚えられる。 (Wikipedia)

・植物の痛みに関する考察 

植物は傷害を受けると活性酸素群(AOS)を産生し、それに続いてジャスモン酸、エチレンが産生されるらしい。しかし、その反応が直ちに痛みであるとは考えられない。動物の場合、物理的刺激、あるいは疼痛物質(セロトニンやブラジキニンなど)による化学的な刺激を疼痛神経終末端が感知し、電気的なシグナルに変換し温痛覚求心経路である外側脊髄視床路を通過し、大脳の中心後回が痛みとして認識される。しかし、植物の場合、疼痛神経やその電気的反感機能や、その通り道である外側脊髄視床路や大脳がないために、つまり、神経や大脳がないために痛みを電気信号に変えて、神経を通り、大脳が認識するといった機能を持っていないために、痛みを感じる能力を持っていないといえるだろう。 

進化生物学から考えたとしても、多くの場合、植物は地面等に固定されており、危害から逃げる事は出来ない。このことは、痛みを感じてそれを避けようとする能力が必要ではない事を意味する。つまり、痛みを感じる必要性が進化の過程で形成されなくとも、生き延びてこれたという事である。痛みを感じる能力が進化の過程において固定された植物にとって必要でないものであり、そのような進化を遂げたとは考えられるものではない。したがって、植物が痛みを感じる事はないと推測できる。

・植物だって苦痛を感じている

最近、多いのがこのパターンである。植物に刺激を与えると、何らかの化学物質を出すので、それが苦痛を感じている証拠であるという訳である。しかし、この意見は何らかの刺激で化学物質を出す事が苦痛であるという証明は全くされていない。つまり、もし、植物が有感生物であるならば化学物質を出すことが、なぜ苦痛を感じていることになるかを具体的に証明することが必要である。なぜなら快感を感じている場合も、何も感じていない場合も考えられるからであり、それが苦痛であると想定する、客観的かつ具体的な理由が必要である。さらに、植物の苦痛は、どのような器官で刺激を感じてどのような器官で化学物質を出して、どのような器官でそれを苦痛と認識する器官に伝達し、どのような器官でどのように苦痛を認識しているのかを具体的に説明する必要があるだろう。これが全くなされない以上、苦痛を感じているということを証明したということにはならない。


・植物が痛みを感じると仮定した場合の動物食の非合理性

FAOの報告や農林水産省のデータ等によると、 動物の肉を食べるために飼育される畜産動物にあたえる飼料は人間が植物を直接食べる事に比べて6倍から11倍ぐらいの穀物や植物を与えなければならず、もし、植物が痛みを感じると仮定した場合、植物だけを食べる場合と比べて、雑食の場合は最低でも約1.5-3倍以上(食事に対する肉の割合は約1-2割ぐらいであり、残りの約8-9割は穀物などの菜食であるため、例えば、効率が6倍だとして、肉食の割合が1割とすれば肉食の分にかかる穀物の割合は6倍なので、人間が食べる9割と合わせると15割、つまり1.5倍になる。肉食の割合が2割だと2倍に、3割だと2.5倍に、4割だと3倍になる。)の植物を犠牲にすることになる。したがって、肉食を含む雑食の場合は菜食に比べてより多くの、植物の苦痛を生み出すことになってしまう。だから、動物を食べない菜食だけのほうが動物の苦痛がなくなる分も加えて苦痛の総量は確実に大幅に減ることになる。つまり、植物は苦痛を感じると言う主張の人はなおさら、肉食をするべきでないということになってしまう。これは植物にも苦痛を与えるのは良くないと言うことであるので、植物が苦痛を感じるという立場をとった場合は、肉食をすれば、余計に植物に苦痛を与えると言うことになってしまう為に矛盾した結果を導くことになる。


・人間でも厳密に言えば苦痛を感じている事は当人にしかわからないのに、どうして動物が苦痛を感じている事がわかるのか?

厳密に言えば、人間の苦痛もその当人が苦痛を感じているかどうかは、その当人しかわからないという事になる。何故なら、その苦痛は本人の申告があったとしても、それが本当かどうかはわからない。そして、その苦痛は他者には自分が感じていないために判らないという事である。しかし、その苦痛があることは本当に判らない事であり、人間は苦痛を感じる事ができないということなのだろうか。

そうではなく、人間は人間が古来から苦痛を感じる存在であった事を知っているし苦痛を感じない存在であるとは思っていないだろう。それは自分自身が苦痛を感じる存在であるからだ。それは人間であれば他者も苦痛を感じる事を想像してそれを認識しているからである。

これは人間の苦痛を感じるシステム、つまり、痛点や、神経、脳にいたるまでの器官が機能しているということを知らない時代から人間が苦痛を感じる事を認識しており、そのシステムの存在を発見した事によりそれが裏づけられたとも言えるだろう。

つまり、そのシステムに裏づけられた人間の苦痛に対する態度、つまり、痛そうにしたり、「痛い」といったり、時には悲鳴を上げたりしている態度が、そのシステムに裏づけられた自分が苦痛を感じたときに同様な態度を示す自分自身の態度を認識する事で、痛みがあることを認識させるのである。

だから、人間と同じような痛点や、神経、脳にいたるまでの同じような器官が機能している動物が同じような苦痛に対する態度、つまり、痛そうにしたり、しゃべる事はできないので、うなったり、時には悲鳴を上げたりしている同じような態度を示す事で、人間が人間の苦痛を知る事ができるのと同じく、人間は動物の苦痛を知る事ができるわけである。でなければ、そういったシステムが発見された現在では人間は苦痛を感じるが、発見されていない過去には人間が苦痛を感じないということになるだろう。

だからこの理由で動物に苦痛がないと主張するのであれば、人間にも同じ理由で苦痛はないことになるが、実際に苦痛を感じていない事を証明はできないだろう。

さらに、進化生物学的には人間と動物は連続した存在であり、類似した苦痛を感じるシステムを持っているが、植物は類似した苦痛を感じるシステムをもっておらず、これを類推して植物が苦痛を感じていることを推定することは不可能に近いだろう。


・植物の感覚性についてのよくある詭弁への批判 

植物が苦痛を感じないことを証明せよ、もしくは植物が苦痛を感じるかもしれない知れないことが将来発見される可能性があるのだから、植物は苦痛を感じないとはいえないと言う「悪魔の証明」と言われる詭弁の変形したパターンである。 これは無いものの証明という大変なことを相手に負わせるという詭弁であるが、そのことを証明せずともこの質問自体に一貫性がなく破綻しているのでそのことだけで退けることになる。

つまり、植物には脳や中枢神経、心臓、血管など、動物が苦痛を感じるために必要な器官がなく、また、それに変わるような器官も無いために植物は苦痛を感じることが出来ないと言う、証拠に基づいた推論が成立する。しかし、上記の詭弁では、その推論について、推論は推論であるから、確実な証拠とはなりえないので、植物は苦痛を感じないと言うことは言えず、将来苦痛を感じることが証明されるかもわからないので、植物は苦痛を感じるかどうかわからないと言うことになり、わからないことを基準に、植物は苦痛を感じないというのは誤りであるという論法で相手に無いことを証明せよという詭弁のパターンである。 これは、一見、的を得たような批判のようにに見えるが、実は、この批判自体が、よく考えると頓珍漢で自己破綻している。 

「植物には脳や中枢神経、心臓、血管など、動物が苦痛を感じるために必要な器官がなく、また、それに変わるような器官も無いために植物は苦痛を感じることが出来ない」と言うのはそういった器官がないという証拠に基づいた推論である。しかし、「将来苦痛を感じることが証明されるかもわからない」のも、「植物は苦痛を感じるかどうかわからない」というのも単なる推論に過ぎず(しかも何の証拠に基づいていない非現実的な論理的・抽象的可能性としての推論でしかない)、「植物は苦痛を感じることが出来ない」というのが推論だから認められないとするのであれば「将来苦痛を感じることが証明されるかもわからない」ということも推論であり、自分の証拠に基づかない推論で、相手の証拠に基づく推論に対抗しようという、自分ことを棚に上げ、つまり一貫性がなく、自己破綻していると言うことになる。つまり、相手の論を推論だと批難するのに、自分が推論を使って批判してはいけないと言うことである。


(私のお薦めブログ「Say “No”to Cruel Things For Voiceless Animals」)
<Vivian Animal Rights>
 
あなたには伝わると
あなたならわかってくれると
信じているから、
こうして伝え続けています。
何回でも言います。
伝わるまで。 

http://t.co/LXx31NyD4h