夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第1回「さまざまな人の夢二像(抜粋編)」

2024-07-17 16:19:32 | 日記

夢二と時を共にした人々の証言で夢二の素顔を探ります。出会った時も場所もさまざまですが、総合すると見えてくる夢二像とは。。。

※「竹久夢二という生き方」(石川桂子著、春陽堂書店)より抜粋

1 夢二の容貌

◎宇留河泰呂(「断片数片」『本の手帖』1967.4)

背の低い、色黒の、チャップリン髭に近いのを生やして、紫色の毛糸のシャッポをあみだにかぶった夢二は、笑う時目じりにめだつしわをよせて、そのあたり何ともいえず柔和だった。

◎神近市子(「私が知ってる夢二」『本の手帖』1967.4)

夢二は後年少し太られたようであるが、私が知っている限りは痩せ型の方で、多い髪をやや長めにのばし、中肉中背のおしゃれな人だった。ただひとつ記憶にのこるのは、その手であった。爪をのばしておられたように思うが、指の長い全心をうけて動く特種の手できれいであった。

◎中原綾子(「夢二さんの想い出」『本の手帖』1962.1)

中肉中背、少し痩せ気味の方で、お色は白くはありませんでしたがよいお顔でした。

◎河村幸次郎(「夢二に会った頃」『竹久夢二展』川村幸次郎コレクション1988)

夢二は稍背が低く色が浅黒かったが、顔立ちは立派であった。

◎西沢てる(『新しい天地』1989)

初めて逢う未見の手紙の主は、痩せて、色の黒い、鋭い眼光を持った極端に無口な人間。

◎安田徳太郎(『思い出す人々』1975.6)

夢二さんは色が黒くて、無口であった。

2 夢二の性格

◎中原綾子(「夢二さんの想い出」『本の手帖』1962.1)

ただ神経質に鋭いばかりでなくて、何処やらぼうっと抜けた処のあるのがあたたかく、親しみ易い感じでした。

◎河村幸次郎(「夢二に会った頃」『竹久夢二展』川村幸次郎コレクション1988)

不二彦君が云うように寡黙だった。しかし絵のことになるとよく話した

◎佐々木正一郎(「松沢村当時の夢二」『竹久夢二展』1971)

夢二は口数が少なく、物静かで余り自分を主体にして話すこともなく、寧ろ遠慮勝ちなところがあった。

◎西沢てる(『新しい天地』1989)

初めて逢う未見の手紙の主は、痩せて、色の黒い、鋭い眼光を持った極端に無口な人間で、彼は、常識的な初対面の挨拶などは一切抜きに、まず画家らしい無遠慮さで、じろじろ私の顔を眺め廻し、徐むろに口を開くと、低い小さな声で、「僕は、竹久夢二です。僕は生活のために絵を描いています」と言っただけであった。

◎花奴(花奴談、竹久夢二美術館員による聞き取りより1994.2)

夢二は毎晩のように来ましたが、無口な人で、ただ黙って静かにお酒を飲んで帰りました。

◎濱本 浩(「若き日の夢二」『書窓』1936.8)

夢二さんは友人を紹介する場合に限らず、何につけても説明が嫌いだった。だから弁解の必要な場合でも苦笑して済ますことが多かった。

◎安田徳太郎(『思い出す人々』1975.6)

無口であったが、いつもニコニコ微笑を浮かべて、たいへんよい人であった。

◎柳原白蓮(「夢二さんのこと」『本の手帖』1962.1)

私がまだ九州に居た頃、一度、まだ小さかった男の子さんを連れて、九州への旅行がてらに訪ねて来て下すったことがありますが。それ以前にも、いくらか手紙のやりとりはしていましたし、夢二さんの文章や絵などはもちろん見ていて、好きだったのですが、さてその時、会ってみると、何だか気むずかしい、とっつきにくい人でした。文章や絵で想像していたのとは大変違う印象でしたね。

◎望月百合子(「望月百合子氏インタビュー」文京CATV1991.9)

笑ったのは、その薄笑いをいっぺん見ただけで、ずっとおつきあいをしていていっぺんも笑顔を見たことありません。あのひといつでも憂鬱な顔してましたよ。

◎小沢武雄(「晩年の夢二と」『本の手帖』962.7)

サンフランシスコの安曇穂明(日本とアメリカ社社長)の家で、最後の夢二対翁の談判があって、私はその席に立会人みたいな形で居合わせたが、珍無類な別れ話で私はその時、この夢二という人物が、いかに超人的な駄々をこねる人かを知り、これは始末におえないと思った代わりに又その晩から私は夢二のファンにもなってしまった。

◎竹久不二彦(「手づくりのデザイン」『別冊太陽 竹久夢二』1977)

・いま考えれば気まぐれでしたね。子供を熱心に世話したかと思えば、放り出したりするのだから。

・人からのお仕着せが嫌いで、自分流儀な好きな夢二だったから、身のまわりなんでも自己流でおし通していた。

◎西原比呂志(談)

当時私も若かったですが(ニ十歳そこそこ)、夢二さんは口数少なく、優しい反面自我が強く、少しわがままなひとだった、と記憶します。

◎正富汪洋(「夢二追憶」『書窓』1936.8)

一人の女と同棲していて又は関係を続けていて、他の女と、関係するというところに、彼の我儘を押し通す強さがある。

◎正木不如丘(『高原療養所』1942.6)

夢二はどうしてあんなに若い女性から慕われたのであろうか。あの個性横溢する夢二の画への憧憬からばかりでは決してない。あの物静かな物言いの底にかくされて居るロマンチストの心の中が若い女性にも分かったのであろうか。

◎福田蘭童(「夢二をめぐる娘たち」『本の手帖』1967.4)

夢二は嫉妬心がふかくて、男性に女性をとられるのを極度におそれていた風であった。

◎上田龍耳(「無題」『書窓』1936.8)

私の知って居る夢二君は非常に義理固い人でした。

◎西村伊作(「夢二の追憶」『書窓』1936.8)

友人に対する信頼の心と云うものが非常に強くて、信じた人に対する死ぬ迄のその親しみの心と云うもの、それは只利害から来たものでなく、普通の人の間の親しさ、利害関係が原因した親しさでなしに本当の親しみを持つと云ういい力を持っていたと思う。

◎花奴(花奴談 竹久夢二美術館員による聞き取り 1994.2)

夢二という人は、女をたぶらかしたり騙したりするような人では決してなく、まじめで誠実な人でした。

◎恩地孝四郎(「夢二の芸術・その人」『書窓』(1936.8)

私は余りに彼を悲壮に語りすぎている。が、この血みどろの裡にあって、又一方甚だユウモアに富んでいた。ゆとりのある心を失っていない。彼のこの心持ちは子供の世界に対する時に一番なだらかに自然に現れていた。彼の小供のための著作をみるときにそれは誰にも感じられよう。

◎藤森静雄(「夢さんの思出」『書窓』1936.8)

家庭に於ける夢さんは、私の観る限りよきパパであった。彦君をよく可愛がった。すこし可愛がりすぎた。

◎望月百合子(「夢二とユリボ」『婦人公論』1974.4)

夢二という人は女も家も山も木も凡てを自分好みに作り替える創造力みたいなところがある。

◎望月百合子(「夢二とユリボ」『婦人公論』1974.4)

・ふと気がつくと私の犬がちょこんと私の右側に来て坐ってじっと夢二をみつめている――追い出し家中の戸をしめて又話しこんでいると、いつの間にか犬は又同じところに来ている。また追い出したがやはり同じことの繰り返し、夢二はとうとう笑い出して、「この犬、僕の弱い性格を見抜いていて、あんたを護ろうと一生けんめいなんだよ。偉い奴だ、いい犬だね」と言うと私の犬の頭をなでた。

◎望月百合子(「望月百合子インタビュー」文京CATV 1991.9)

<春草会にはいったいきさつより>私が父(石川三四郎)の娘だということがわかりましたから、夢二さんとても心配なさったんですね。これからの一生の間ね、どんな目に合うかわからないしということでね、父と同じような道を歩くに違いない、だれも保護者がいないですよね。そうすると東京の私を何かの時手助けしてくれる、守ってくれるそういう人がなきゃならないし、自分もそういう時はやっぱり絵描きだからあんまり力が弱いしね…

◎竹久不二彦(「父としての夢二」『竹久夢二展』1977)

いま考えれば気まぐれでしたね。子供を熱心に世話したかと思えば、放り出したりするのだから。だからといって、子供の将来のことを考えていないといえばウソになります。小学校に入るころでした。自分の生活ぶりに不安があったのでしょう。私を金持ちの子弟しか入らない全寮制の小学校に入れようとしたこともありました。でも、夢二の日常生活が問題にされたのでしょうか、入学出来ませんでした。

◎竹久不二彦(「父の思い出」『竹久夢二展』河村コレクション 1988)

いつでも父は誠実で、一緒に生活する者に優しく正直に対していた。ただそういう男女の自由で正直な表面的な交際が新聞や雑誌に取りざたされて、クラスメートたちに何かからかわれたりするようなことだけは、当時のわたしにとってはちょっとつらかった思い出ですが、それも父に非難めいた気持を抱いたlことはありませんでした。どんなときもわたしは正直な父を大好きでした。

◎竹久不二彦(「父としての夢二」)

放任主義で、私が覚えているかぎり教訓めいたことはほとんどいわなかった。

3 夢二の芸術・哲学

◎有本芳水(「夢二と私」『本の手帖』1967.4)

旅を好むふたりは、連れ立って旅をした。潮来、志摩の鳥羽など、昔栄えて今はさびれた港を探し求めて旅をした。ふたりはそこに絵を求め、詩を求めるのであった。

◎恩地孝四郎(「夢二の芸術・その人」『書窓』1936・8)

彼はいつも濡れたような感情を愛した。人情のこまやかさに生きることを欲した。

◎高島平三郎(「無題」『書窓』1936.8)

女から女へ移って行くのは、純粋の道徳から云うと悪い事かも知れませんが、夢二は全く情の人である。感情と云うものは変わっていく来るのが当たり前だ。変わって来るのが感情で、変わらなければ感情ではない。極端から極端に行く人です。

◎濱本 浩(「若き日の夢二」『書窓』1936.8)

夢二さんは、生活的には良き意味のリアリストであり、芸術的には優れたロマンチストであった――夢二さんは精神的にはロマンチストで、実際的にはリアリストだとも云える。夢二さんは勇敢にリアルを見つめ、リアルに失望する。

◎正木不如丘(『高原療養所』1942.6)

「死ぬことは何とも思わない。人生は時間だから。」と云った事があった。死生を超越するなどと云う逞しい精神の燃焼は夢二にはないのである。

◎有本芳水(「夢二と私」『本の手帖』1967.4)

挿絵画家として、明治、大正、昭和を通じて第一人者と言われたが、その夢二にも人知れぬ悩みがあった。挿絵画家として一生を終わりたくない、本格的な絵をかいて、後の世までも名を残したいということであった。

◎有島生馬(「ボヘミヤン夢二」『夢二』1940.6)

夢二のことを思い浮かべると、風貌からも風俗からも日常生活からも、道念からも、恋愛からも、嗜好からも、ボヘミヤン的といふ言葉が一番よくあてはまる―――彼が鉛筆とスケッチ・ブックを手からはなしたのをみた事がない。どんなものでも描いた。どんなものでも画の参考になるものは集めて置いた。彼のスケッチ・ブックには寝乱れた女の姿がどの位無数にあるか知れない。愛人が寝入っている時、彼はそつと床を抜け出て、冷やかな画人として、必ずスケッチに熱中したものであろう、この画狂人的態度が世間の諸てを忘却せしめた。彼のボヘミヤンであるという真因はそこにある。画に熱中して来れば世間のことは諸てはどうでもよくなった。時には義理人情も忘れた。金銭衣食のことも忘れた、ましてや粉々たる毀誉褒貶の如きは全く眼中になかった。

*:毀誉褒貶(きよほうへん):ほめたりけなしたりすること

◎安田徳太郎(『思い出す人々』1975.6)

荷物をほどいて、本棚に本をならべたとき、その本が当時丸善や伊東屋で売っていた、豪華版のドイツ語のキンダーブーフーや英語の絵入童話集であってそれが何十冊もあった。わたくしは夢二さんはたいへんな勉強家だとつくづく感心した。

◎西村伊作(「夢二の道徳」『書窓』1936.8)

夢二氏は子供とはそう云う関係でなくて、或時はもう非常な友達である。で親子と云う関係を忘れた友達、対等の人間としての友達であることが出来て、或時には実際心の底から自分の適役見たいな気も持ったことがあるようである。