夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第10回「父はモダンボーイ」(竹久虹之助)

2024-10-30 09:18:28 | 日記

今回は夢二の長男・虹之助です。1907年、出会って2か月で電撃結婚し、その1年1か月後に生まれました。夢二は「レインボー」と呼んでいました。
しかし、たまきとは不仲になり、結局2年目で協議離婚。それでもまた同棲、別居を繰り返し、離婚して2年後の1911年には次男・不二彦が誕生。その後、1915年に夢二が笠井彦乃と関係した翌年に三男・草一が誕生するという壮絶な状況となり、結局、たまきは失踪、虹之助は八幡の夢二の両親が引き取り、不二彦は京都に駆け落ちした夢二の元へ送られ、そして、生まれて間もない草一は養子に出されてしまいました。
その後、1920年に彦乃が結核で早逝してお葉と同棲を始め、1924年に少年山山荘を立てた際、虹之助を呼び寄せて4人で暮らし始めましたが、その後夢二が新進女流作家山田順子(ゆきこ)と関係したためお葉は家を出てしまいました。
本作は、夢二が死去した翌年に書かれたものです。

■竹久虹之助
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)「父 夢二を語る」より
(注)本文は『書物展望』第四巻第十一号(1934年、書物展望社)に掲載されたものです。

 書いても書いても書きつくせないだろう、父夢二を、齋藤さんに頂いた紙数へ割り込ませるので少し無理がくるかも知れませんが、よろしくご判断をお願いして稿を進めます。

 幼い時から非常に絵の好きな父は、常に姉や妹を驚かせていた。しかし祖父は(私のおじいさん)これはまた絵描きが大嫌いであった。うまくゆく訳がない。描いている父の手から筆、絵ノ具を取って捨ててしまう、取られても捨てられても、父はまた母へこっそりねだって描き初めていた。それを発見する祖父はまた取り上げる。がそれでも絵を描く事をやめなかった父は、ついに抜け道を発見した。それは姉の教室へゆくことであった。姉より先へ入り込みいきなり黒板へ向かって日頃のウップンを晴らすのだった。その頃不思議な絵を描いた。(これは今も郷里岡山の小学校にあるそうだ)今言うところのシュールリアリズムの絵とでも言うのであろうか、八本の足を持った馬の絵である。四本足の馬でも走っていれば、八本にでも十本にでも見えるじゃないか、これがその時の言い草であった。

 また、着物の布(キレ)を集める事がすきだった、娘のように小さな布まで、キレイに取って置く事の好きな父は、母や姉達の着物の切れはしや、お人形の着物を丹念に集めていた。これが今ある昔の着物の収集されてある切抜帖の始まりであろう。浴衣にしろ、黄八丈にしろ其れ相当の見識と意見を持つ父としては、成程とうなずかれる。

 父が幾歳(いくつ)の時か記憶にないが、家を挙げて九州へいった。まだ開けていない九州の小さな街で祖父は、醬油の醸造を商売としていたが、それは失敗して製鉄所の職工と人夫の口入を一手に引受けて盛大にやっていた。まだ父の絵は続けられていた。祖父の眼を盗んでは描いていたが到々それで満足出来なく、誰ひとり身寄りのない東京へ出た。絵の嫌いな祖父は絵を描くのなら学費も送らぬと、きっぱり誓言した、まだその頃は絵描きで立ってゆこうとは思っていなかったらしく、早稲田実業へ入って、書生をやったり、教会の留守番になったり、いろいろ苦労して学校へ通っていた。

 その頃、故島村抱月氏の紹介で何か雑誌のカットを描いた。それが案外よくてそれを機に絵を描いて立つ気持ちになった。(私もはっきり記憶にないので、違っているかも知れない)それからまた、困難な道へ差掛ってきた訳で、当時の苦しかったことは私達へもよく言っていた。先生のない絵だから一層苦しかったことと想像される。

 父の最も尊敬していたのは、岡田三郎助・藤島武二の二先生で、夢二の二は藤島先生の武二から取ったのだと、最近になって知った。

 父は時の文展に出品したい意嚮(いこう)だったが、岡田三郎助先生に「君の絵は、展覧会などに出して君の味を無くすより、自分で開拓すべきだ、自力でやる事は苦しい事や辛いこともあるだろうが、まあ会へなど出品するのはやめた方がいい」と言われた。

 それから後の父の勉強ぶりと言うものは、到底私共の想像も出来ない、まったく死に物狂いの勉強ぶりであった。今整理中のスケッチブックを見ても分るがどのノートを見ても、どれだけ熱心に描いたかが分る。ノートは大きな茶箱にぎっしり二個に入れてあるが、まだ自分で作った帖面に、紙切れに幾千枚、幾千枚と言っても決して過言でない事実である。このように努力に努力を続けて、あの所謂「夢二式」の絵が生まれた訳である。

 その種類は、支那・日本古代・錦絵・平安・元禄と実に整然と描かれてある。またそのノートのあき間には無数の歌・小唄・小説の中に出る言葉・随筆など、雑誌を買って帰りの車の中ですでにもう何か描いているのである。

     そのかみの

     三味の師匠をたずねゆき

     あの娘のことをきくもかなしや。

     さだめなく鳥やゆくらむ

     青山の

     青のさびしさかぎりなければ

 童話を作り小唄を書きした父が、絵を描きながら頭に浮かんだ文句をノートの中に書き留めるのだけ拾っても、優に二冊位いの本は出来上る。着物の柄においても一つの意見を持ったくらいである。父はドイツ、フランスで集めたキレ・図案で日本のそれらに合わせるべく、非常なる意気込みであったがそれも今のとなっては無駄骨にすぎない。しかしそれらの材料を無意味に終らせ度くない。これは息子の私の義務でもあり責任でもあると考えて居る。

父は一風変わった政策の持ち主であっただけに、多くの友人もあったが、敵も多く持っていたようだ。然し女の人には随分と、もてた。(持てたなどと言う言葉はいやだがぴったりするので使った)その父が病院にゆく前夜私達兄弟と、食後の雑談中こんなことを言った。

「女と言うものは男がマスターしていって、始めていい女と言うものが出来るのだ。それからこれは、その方ではお前達よりはずっと苦労してきた俺が、言っておくが、女房と言うものは決して替えるものではない。幾度かえてみたところで決して自分の希望通りの女なんて、あるものではない、幾人かえても結局はもとの女房が一番自分にしっくりするものだ。」と言った。父は最初の結婚に失敗して、幾人かの女房を持った。自分の好みにはまった女を探して歩いた、併し何処にもそれは無かったらしい。

常に幾人かの取り巻き女を持っていた父は、その点非常にめぐまれていたようだ。こんなことを書いていると、父はきっと苦笑いをしていることだろうが、それは事実である。他人から見ると如何にもキレイで幸福そうに見えたかも知れないが、内心は悩んでいたのに違いないと思う。

 最後のノートに、「男にあいたい人もなし、女はぜったいに美しい」と書いてあった。

アメリカにいる時のノートの一節に、

「渡る世間に鬼はない」便所の中でこの言葉を思い出したのだが、こんなことを言った男は、これでさんざ苦労をなめてきた人間に違いない。

「旅をする人はみんな好い人ですわ」と言った、チロルの峠の娘の言葉とは違っている。

 それからまたこんなうたもある。

  カミイル花を煎じてのむ夕け

   あしたの春をまつ心かも

 アメリカでもドイツでもやはり、到る処の風物や言葉や父の好みの裏街や、教会のスケッチがある。また、宿屋や料理やの受取りメエヌー、マッチペーパーなどたんねんに集めてあった。

 父はまた、日影町あたりの古着屋で黄八丈など探すことが好きだった。わたしなどもよくお供をさせられた。今私が少しばかりそんな趣味があるのはそんなとこからきているのである、ひと頃は私どもは無論手伝いの女の人にまで黄八丈を着せて眼を楽しませていたものだ。それらのものも今はもう日影町から姿を消して、今あるのはただ、インチキな品物を売る店や新しい所謂バーバリーのレインコートがぶらさがっている店ばかりが、ならんでしまった。古いもののある店は殆んど姿を消して、わずかに人形町の横丁あたりにそれらしき店が二三その感じを残しているくらいである。

 また父は、変に昔風なものが好きだったり、ウンと新しいものが好きであったりした。鹿鳴館のあった頃、総エナメルの靴で踊ったのも父であり、まだ、スパッツの珍らしい頃それをはいて街を歩いたのも父であった。なにしろ当時モダーンボーイであったらしい。最近でも実にハイカラのものを買ってきて、持っていた。

 終わりに私の歌を一つ高原の花のなかなる白露はしらしらきよくわびしげにちる。  ---一九三四・九・三○


                   (坂原富美代著「夢二を変えた女 笠井彦乃」より)

 


第9回「じいちゃんと呼ばれたくなかった夢二」(竹久みなみ)

2024-10-24 09:40:31 | 日記

今回は、夢二の長男虹之助の娘、竹久みなみさんです。
みなみさんは、2022年10月27日に89歳で亡くなられるまでずっと夢二研究会の会員として活躍されていました。
後段でみなみさんの人となりを紹介しています。今も、両国の東京都復興記念館に行くと、みなみさんの功績「東京災難画信」の展示、そして有島生馬が関東大震災を描いた巨大な画に出会うことができます。

■竹久みなみ
*『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』(竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)に「夢二 虹之助 不二彦」と題して掲載されたものです。

 竹久夢二について語った父の文章があった。

 私が会ひに行つたとき父はベッドにゐたが見違えるほど老ひてゐるのに私は、思はず「パパよく帰って来たな」と云つてやりたいほどだった。私はその時すでに一人の子供の父になつてゐたので孫を見せやうと云うと、「ぢいちゃんと云はれるのはいやだね」と父は笑つたけれど、私は涙が出るほど胸が痛くなつた。それからニ、三日して私は子供をつれて行つた。「ほら、おじいちゃんだよ」と子供に云つたとき、父は淋しく笑いながら云つた。「ぢいちゃんはいやだね、夢二兄ちゃんと云へよ」その悲しい言葉は、だが、どんなに夢二らしいひびきをもつていたか知れない。とにかく父はつかれきってゐた。

「いつまでも眠れさうだからねかせてくれ」と云つてベッドへ行つた。

 ここに書かれている子供は私だ。この後、父と母は離婚し、父は五、六歳の私を、夢二の次男不二彦に預けた。父の事母の事は一切知らない。が少しは私の事を思っていたのか。

 戦時中の事、学童疎開の私は戸山のお寺にいた。食糧事情が悪く腸の弱い私は家に帰りたいと手紙を書いた。昭和二十年七月、虹之助が富山へ迎えに来た。その足で富山に住む夢二の妻だった他万喜の家に寄ったら、七月九日に亡くなったばかりであった。虹之助はさぞ悲しかっただろう。そして帰ろうとした時富山の家では、「私を置いていったら」と虹之助に言った。虹之助は私を連れ帰った。何となく少し嬉しかった。

 夢二の事は自然と不二彦(編者注:夢二の次男)に教えてもらうのだが、夢二はこう言った。ではなく、日常普段から不二彦の言う事やる事は、夢二の行った事やっていた事として、私は受け止めていた。

 よく銀座に出掛けていたが、不二彦と叔母の間にいる私は、人生で一番幸せな時期であった。電車を降りる時に、不二彦は叔母に口笛で知らせる。とても恰好良かった。

 普段不二彦は、あまり怒らないが、ある朝味噌汁の味噌をすり、私が擂鉢(すりばち)を摑まえている時、台所の叔母と口喧嘩になり、不二彦が擂鉢をすりこぎで叩き割ってしまった。味噌は四方八方に飛び散り大変な事となった。私はびっくりして従姉妹と一緒に大声で泣いてしまった。という思い出があった。

 後年夢二の何回忌だったか、不二彦が和紙で大きな短冊を沢山作り、九月一日夢二の命日に雑司が谷に出掛けた。墓地の近くの家に集まり、著名な方々が見え、夢二会の面面も集まるなか、墓前で幹事から「一句お願いします」の一声に参加者はすぐさま、さらさらと書いて、夢二の墓のまわりの木に紐で下げたのであった。俳句や短歌がすぐさまできるのを目の当たりにして私は感動してしまった。

 私はその時何も作れなかった。これは勉強しなければと思い、あれから三十年ほど、私も俳句を作り続けているが、今は、見て下さる方々は、もういらっしゃらない。(了)

*旧字体のまま転載しています。

■みなみさんの人となりについて
2023年版「夢二研究会会報」がみなみさんの追悼号だったので、代表坂原富美代氏(夢二の最愛の女性笠井彦乃の姪)の言葉の一部をお借りしてご紹介します。

国会図書館で夢二の「東京災難画信」の掲載され た都新聞を見つけ、夢二研究会の協力のもと、欠落 していた回を探し出し、新聞記事を読みやすく打ち なおして解説を付け、パネルを作ってギャラリーゆ めじで展覧会を開きました。埋もれかけた夢二の貴 重な仕事の一つを蘇らせたといえます。展覧会中に は読み切れないことを心配し、じっくり読んでもらえるようにと、パネルの内容を図録にまとめて出版し、好評を博しました。
展覧会後、展示パネルは関東大震災の惨禍を永く 後世に伝え祈念する目的で建てられた東京都復興記念館に寄贈し、今では館に常設展示されています。図録も評判になりました。ここには夢二と共にがれきの東京をスケッチして歩いた有島生馬の大きな油 絵も展示されていて、その絵には夢二も描き込まれています。ここで二人が再会する形になり、みなみさんは大いに喜ばれました。
 みなみさんは山形県酒田市相馬楼内「竹久夢二美 術館」の名誉館長に就任し、各地で講演を続けていました。夢二没後すぐに発足した夢二会(夢二研究 会ではない)のメンバーとも交流があり、有島生馬、 岡田道一、長田幹雄など錚々たる顔ぶれの思い出も鮮明に記憶していて、貴重な語り部でした。
 みなみさんは染色家で、東京都美術館「新匠工芸」  染色部門に入選した実績があります。大作「流氷」は北海道知床斜里町にある北のアルプ美術館に収蔵 されています。
 夢二と彦乃が金沢湯涌の山下旅館で撮った写真で 彦乃が着ていた夢二デザインの網代模様の浴衣も復刻しています。
 竹久家の方々は芸術家がそろっていて、その作品 を集め、文化学院画廊で竹久四人展(不二彦・都子・ 野生(のぶ)・みなみ)を開きました。またギャラリーゆめじでは竹久三人展〈都子・野生・みなみ)を開催、 みなみさんの個展も開いています。夢二の血を受け 継いだセンスが光りました。
 みなみさんというと思い出すのは北海道の開拓団 の話です。初めてその話を聞いたのは岡山の夢二郷 土美術館で毎年開かれていた夢二誕生祭に向かう新幹線の中でした。あまり面白いので「現代女性文化研 究会ニュース」に寄稿してもらうことにして、12 回に 渡って連載しましたが、文章も力強く、記憶力の抜 群の確かさで、生き生きと語られる話の面白さには 感嘆させられました。
 みなみさんは幼少期、父の虹之介が離婚したこともあり、伯母にあたる夢二の姉松香の家や、夢二の次男で虹之介の弟不二彦の元で過ごしました。不二彦は友人の辻まこととイボンヌ(五百子)の 間の長女野生(のぶ)を養女にしていたので、不二 彦の家では8歳年下の野生と姉妹のように育てられ ました。
 俳句の勉強も続けていました。のびのびとした感 性の溢れる俳句は、みなみさん自身のお人柄と重なるようでした。
いつも朗らかに見えたみなみさんでしたが、夢二 の孫であることは時にみなみさんにのしかかる重圧 になっていたかもしれません。その重圧に耐え竹久家の一員として夢二を正しく理解してもらおうと努 力を重ねたみなみさんは、天国で夢二、虹之助、不 二彦たちによくやったねと温かく迎えられているこ とでしょう。嬉しそうなみなみさんの笑顔が浮かび ます。不思議な魅力を持った方でした。しみじみ、またお会いしたくなっています。
 
竹久みなみさん(右は榛名湖畔にて)




第8回「細き優男ではなかった夢二」(吉屋信子)

2024-10-21 09:02:31 | 日記

今回は文学少女の育成に大いに貢献したとされる『花物語』の著者、吉屋信子です。
作家林真理子の母親をモデルにした『本を読む女』の中には次のような著述があります。

万亀の本棚の中で、蕗谷虹児の切り抜きの下、特別の場所に並んでいるのは、吉屋信子の『花物語』と、樋口一葉の「たけくらべ」、そして吉田絃二郎の「小鳥の来る日」などである。(中略)「花物語」の表紙は、アールヌーボー風の鈴蘭の絵だ。この本を万亀は、学校の教科書を読むときのようにきちんと音読をする。すると目元がしだいにうっとりとほころんでくるのだ」(『女学校と女学生』稲垣恭子著)

大正時代、女学生の新しい世界を創り出した吉屋信子が、21歳で夢二と初めて出会った頃と、14年後に再会した時のエピソードを紹介します。

■吉屋信子
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「竹久夢二」より
(注)本文は、吉屋信子が『私の見た人』(1963年(昭和38)、朝日新聞社)に掲載したものです。

宵待草

………待てど暮らせど来ぬ人を……宵待草のやるせなさ……。竹久夢二(本名茂二郎)がその郷里岡山の旭川の川原に咲く月見草をながめての詩はいまもうたわれている。
 竹久夢二描く絵は少女のころの私に甘露のごとき抒情の滋味(じみ)を与えた。夢二の絵に夢見心地になったひとは私ばかりではないはずだ。   
 雑誌<少女の友>に連載される夢二の<露子と武坊>の絵物語を私は毎月待ちかねた。絵に添えられるその文章も匂うように私を魅惑した。三色版の口絵も夢二のが多かった。角兵衛獅子の少年が夕空に富士の浮ぶ道を歩く姿。巡礼姿の少女が秋草のかたわらの石に腰かけてうつむく笠の下の可憐な顔……曲馬団の哀しきピエロと玉乗りの少女。私はいつまでも食い入るようにそれを見入った。
<女学世界>の口絵やさし絵は若い女の姿だった。顔の半分が目のような大きな大きな目。その手がまたばかに大きい。この人体のアンバランスの描き方が不思議な魅力を備えていた。これが夢二式美女として全国的にたくさんの陶酔者を持った。
 ある時の口絵に珍しく風景の水彩画が出た。それは奈良の郊外のくずれかかった築地のほとりに群がり作葉鶏頭だった。そのほのさびしい古都の片すみの風物の美しさに夢二特有の抒情が満ちあふれていた。そして文章が添えてあった。……。「ぼくがこの写生をしていると時雨が降った。絵の具がにじむと困ると思うと、うしろからそっと傘をさしかける手があった。振返るとそれは袴姿の奈良女子高師の生徒だった」……
 その傘をさしかけた女高師生もさぞ美しい人かと想像したが、あるいはそれは夢二御幻想のフィクションだったかも知れない。
 夢二は抒情画家でそして詩人で歌人だった。歌集<昼夜帯>を刊行している。また時には絵の傍に即興の俳句さえ添えた。洗い髪を櫛巻きにした下町風の美女がしなやかに両手をあげて簾(すだれ)を巻き上げる姿態を描いた傍に――たをやめの巻けばかなしき青簾――少女の私にはそれが世にもすばらしい句に思えてひどく感動してしまった。
 夢二式の大きな目に憂愁をたたえた美女は近代的の浮世絵だった。そこにあふれる抒情と感傷、そしてデカダンの日本的情緒の匂いもこもって、若い世代のひとを引きずやまなかった。
 その竹久夢二が<私の見た人>となったのは大正四年の夏のある日だった。
 夢二はそのころ、呉服橋外に<港屋>という小さな店舗を開き、自作の版画、千代紙、絵入り巻紙と封筒、夢二図案の半衿などを売っていた。だが私はそれを買いに行ったのではない。と言って夢二先生のお顔をひとめ拝みたいというファン心理でもなかった。
 目的は店主の夢二にでなく、夢二がそのころ、婦人之友社発行の<新少女>という少女雑誌の絵画主任を勤めていたので、私はある大望を抱いた。<新少女>に採用されたら夢二にさし絵を描いてもらってと、まったくとほうもないそれこそ夢見る娘だった。というのも私は女学校に居た時に<少女世界>への投書から抜擢されて短編の少女小説を掲載されたこともあり、勝手な自信を持っていたのだった。
 その少女雑誌の投書時代から東京の女学校の投書家たちと文通していた。そのひとたちと東京へ出ると会っていた。その文学少女グループのニ、三人は夢二を知っていた。港屋で買物のお顧客さまだった。その友だちが夢二経営の港屋へ私を連れて行くという。私はその友だちに大望を打明けず、ともかくいちど夢二を見てから考えることとして付いて行ったのは、とても暑い夏の日だった。

港屋にて

 港屋は小さい可愛ゆい店だった。店の上に小さい二階がつき、店の屋根に<港屋>と夢二風の看板が出ていた。
 店に夢二は居なかった。店番の女のひと、それは奥さんでなく雇われている年増の女性が一人すわっていた。友だちはその人ともおなじみらしかった。「もう先生がいらっしゃるころですよ」と言われて待つことにした。
 まもなく炎天の街路を歩いて店へはいってくるその姿が見えた。黄いろい上布に素足に下駄、帽子なしで髪を長くのばしたそのころの画家らしい頭髪のスタイル、肩幅のひろいがっしりした身体つき、大きな顔の色は黒く目はぎょろりとしてたくましい……夢二だと直感した……この抒情画家はけっしてか細き優男ではなかった。
 友だちは私をかつての少女雑誌投書仲間だと言い、そして文学雑誌の投書家だなどと紹介の弁を振った。
「文章世界であなたのを読んだよ」
 夢二にそう言われて私はびっくりした。私は女学校上級のころから少し前までその雑誌の投稿家だった。
「ぼくも昔は中学世界のコマ絵に投書してたからね。いまでも投書欄読む習慣があるね」<文章世界>の私の投稿文を読んだと言ったのはこの竹久夢二と、あとでは岡本かの子夫人だった。私はちょっと感激してしまった。
 まもなく苺の氷水が私たちの前に運ばれ、夢二は真っ先にサクサクと音立てて匙を口に運びつつ「昨日は婦人之友社のテニスコートでテニスしたが汗を流したあとは愉快だね」と言った。
 私はじぶんの待望の<少女小説>の一件を言出そうかどうしようかと、ひそかに夢二を打診する気持ちで思い迷いつつ氷水が溶けてゆくのを見詰めていると……
「ぼくたちのいまやってる<新少女>は、今までの実感的な少女雑誌とはまるでちがったやり方でゆきたい、大いに闘うつもりなんだ」
 その夢二のふいに言い出した言葉に私は愕然とした。外の少女雑誌が<実感的>という意味はどう解釈すべきか……それは<卑俗>と同意語なのであろうか?ともかく高き理想を掲げる編集方針らしい。私はおびえた。そしてついに目的の話を持ち出すのをあきらめることにした。
 そこへ夢二の著書を出す話らしく出版社の人が訪れたので私たちは帰ることにした。「またいらっしゃい」と私たちに愛想を言われたが、それきり私は行くこともなかった。夢二を見た。それでもうたくさんだった。
 その翌年の春、私は<少女画報>に<花物語>の第一編鈴蘭が採用されて少女小説の舞台を得、やがて大阪朝日新聞に懸賞長編連載、そして、年月が経った。もう暑い日の港屋の店頭のことなど遠い日のたわけたことのように忘れていた。すでに港屋も失せていた。
 その間に夢二のうわさは時として伝わった。それは絵の話より女性関係の事だった。奥さんと離婚とか、女子美術の生徒の美貌のひとと悲恋とか、そして山田順子(ゆきこ)(のち徳田秋声の愛人)といっときの恋愛、そのために今までの同棲者兼モデルのお葉さんと別れたとか、夢二時は久遠の女性の青い鳥を追っているようだった。もうそのころは夢二の全盛期は去っていた。その抒情画は時代のテンポからズレてしまった。けれども私たちの少女の日の追憶の押し花のようには残っていた。
 それからのある時、新聞の求人広告に「親一人子一人の家庭の家政婦として着実な婦人来談。市外松沢村字松原、竹久夢二」というのが出ていたと、むかし夢二ファンだった人が私に語った。
 夢二はそうした生活なのだった。
 そして――やがて、はからずも私は夢二にまた会った。

「平戸懐古」の絵

 昭和六年春、新宿のある小さい百貨店で竹久夢二の個展があるのを知った。それは近日夢二が外遊するその旅費のために催されるのだと報じられた。
 私はその画家の絵から受けた抒情の甘露を吸った日を忘れかねて、かつはあの過ぎ去った遠い日、港屋の店でイチゴの氷水をごちそうになったこと、そして文章世界の投書欄で私のものを読んだと言われた感激……それに酬いるために、一枚の絵を買ってこの画家へのお餞別に代えたいと思った。
 その百貨店は……今とちがうその当時のいささか場末の感のある新宿らしくまことにごみごみしたほこりっぽい入口で、そのはいるとすぐ横手の光線の足りないような倉庫めいた殺風景な一室が夢二の個展の会場だった。
 灰色の壁に三方ずらりと掛けならべてあるのはいわゆるパン画、力作を見せるためでなくただ売るためにのみ制作されたらしい水墨淡彩の小幅(しょうふく)が仮表装で押し並んでいた。そこにはもうかつての夢二の繊細な線は失せて文人画のような淡白な白筆だった。同じ画題のものが多く、なかに麦の穂を二三本描いただけで余白を多く残したのに、やはり棄てがたい余韻がある気がした。小幅一本はたいてい五十円平均だった。
 私はその麦の穂の一軸を買約して、会期終了後届けてもらう住所を百貨店の伝票に書き代金を払った。会場のゴタゴタした一角にそうしたテーブルと店員が一人居た。
 私は会場を出て正面入口はからはいって来る客たちの間をすりぬけて舗道へ向かう時、うしろから私の名を呼ぶ声がした。振り向くとそこに竹久夢二が追いかけて来ていた。
「ありがとう、ほんとにありがとう」と夢二は言った。私はいつのまにその人が私を見つけたのか、買約したのを知ったのか……あの会場に夢二が居たのを知らなかった。私はあわててまごまごとお辞儀した。私の傍へ寄ったその人は「さかんに書いていられますね」と真顔で言う。わたしはまたお辞儀して足早に逃げ出してしまった。
 買約伝票にしるした名で女の小説家と知ってか、それとも港屋をむかしたずねた文学娘を思い出してか……まさか、それとも文章世界の投書の名の記憶か……なんだかわからなかったけれども夢二その人の変貌には本当に驚いてしまった。あの港屋の店頭で初めて見た華やかな盛名の夢二の顔は今はしぼんだように小さく黒く、どこかやつれてしわばみ、鼻下に黒いチョビひげ、体格もやせて黒い服に小ぢんまりと……ただギロリとした目におもかげが宿っていた。私はいっとき感傷に打たれて舗道をたどった。
 夢二がアメリカからフランスへ貨物船で渡ったとかドイツをさまよい空腹のあまり倒れたとか伝えられて日本へ帰ったのは1年後だった。
 富士見高原の療養所で孤独の病人となって死去、行年五十一と新聞に訃報が出たのはそれから2年後の昭和九年の初秋だった。
 私の買った麦の穂は戦災で失せたが、戦後に私が画商から手に入れたのは、これぞ夢二のかつての繊細な筆の色彩に満ちた「平戸懐古」の小幅だった。 
 これはつい先年刊行の夢二遺稿の口絵にも使われた。青い海と岬の白壁の土蔵の遠景に平戸の遊女が洋傘を持つエキゾチックなオランダ船渡来の港への幻想図、夢二ならではのものである。
 雑司が谷霊園にあった「竹久夢二を埋む」と彫った墓石は戦後、無縁仏として整理される寸前に、有名だった抒情画家の筆とやっとわかって、にわかに<史跡>の標示が立てられる悲喜劇が生じたと伝えられる。(完)

※吉屋信子(よしや のぶこ):1896年(明治29)1月12日 - 1973年(昭和48年)7月11日)1920年代から1970年代前半にかけて活躍した日本の小説家。初め『花物語』(1916年)などの少女小説で人気を博し、『地の果まで』(1919年)で文壇に登場。以後家庭小説の分野で活躍し、キリスト教的な理想主義と清純な感傷性によって女性読者の絶大な支持を獲得。戦後は『徳川の夫人たち』が大奥ブームを呼び、女性史を題材とした歴史物、時代物を書き続けた。同性愛者であったと言われており、50年以上パートナーの千代と共に暮らした。(wikipediaより抜粋)
吉屋信子 - Wikipedia



1914年(大正3)10月1日に日本橋呉服町(現八重洲)に開店した「港屋絵草紙店」


 


第7回「岩田専太郎と夢二の不思議な縁」

2024-10-17 10:11:51 | 日記

夢二が上京した1901年(明治34)東京・浅草に生まれた岩田専太郎は、小学校卒業後、菊池契月、伊東深水に師事。1919年(大正8)、十代後半から『講談雑誌』(博文館)で挿絵を発表しました。その後、永井荷風らの連載小説の挿絵を描き、志村立美と小林秀恒とともに挿絵界の「三羽烏」と言われるほどの挿絵画家となりました。今回は、彼と夢二との不思議な縁に関するエッセイを紹介します。

■岩田専太郎
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「竹久夢二の思い出」より
(注)本文は、岩田専太郎が『三彩増刊 竹久夢二』(1969年(昭和44)(三彩社)に掲載したものです。

忙中の走り書き意をつくし得ないことをおゆるし下さい。

私が、はじめて夢二の名を知ったのは、小学生の頃でした。そこはかとない哀愁をただよわせたその絵が、幼い少年の心を捕えたのだと思います。夢二の絵が載っていることだけで多くの少年・少女雑誌を買いあさったのを覚えています。

小学校を卒業するとすぐ私は、家庭の都合で東京の地を去り京都へ移りました。その頃長田幹彦氏の祇園をあつかった小説の単行本が幾つか出版され夢二がその装幀をしています。木版刷りの美しい本でした。その何冊かを買ったのも、舞妓を描いた夢二の絵がほしかったからでした。

はじめて夢二の姿を見たのもその頃でした。――会ったというより見たというのが正しいでしょう。

それは、岡崎の京都図書館で夢二の個展が開かれた時でした。その頃の私はまだ画家になる気はなかったのですが、好きな絵が見られるというだけで、それを観に行ったと思います。

なぜか、会場には人影がまばらでしたが、画壇のこととか、夢二の人気とかには、関心のない少年のことですから、気にもならなかったようです。心ゆくまで絵を楽しんだ後、会場のそとへ出ました。

図書館のまわりには芝生がありました。その裏口に近い場所に、黒い背広を着た顔色のさえない男の人が、立てた膝の上に顎をうずめるようにして座っていたのです。白い壁をバックに細い木立もあったと思います。

その人を見た瞬間、それが夢二だと思ったのは、なぜか判りません。遠い所をみつめているような悲しげな眼差しと、今にも消えてしまいそうなそのポーズとに、そのまま夢二の絵を感じたのかも知れません。しばらく私が立ちどまっている間、その人は身動きもしませんでした。

――夢二に会えた――勝手にそうきめた私は、心おどる思いで家路につきました。

夢二に会って言葉を交わしたのは、その数年後、私が東京へ帰り挿絵の仕事をするようになってからニ十歳をすぎた頃でした。雑誌社の応接室で編集の人に紹介されたその人は、少年の日見たのと同じ人でした。やはり黒い背広を着て憂鬱な表情をしていました。いうまでもなく私は、京都のことも、少年の頃からその絵の愛好者だったことも、口にしませんでした。が、思いがけず自分が、その人と同じようにマスコミの仕事に従事するようになった十年近くの歳月の間、一時期を風靡し、女性関係その他プライベートに関しても、いろいろ噂の多かったことを知らなかったのではありません。

また、十年近くの時が流れ去り、私が挿絵の仕事に追われ続けるようになった或る年の正月のことでした。人目をさけたい事情があって、わざと暖い湘南の地をさけ寒い伊香保の宿に数日を送った時、宿帳には偽名を書いてあったのにかかわらず、画帖へ何か描くことを求められました。気のすすまぬまま炬燵の上でその画帖を開き、一枚一枚めくってゆくうち、思いもよらず、そこに「夢」の署名のある絵を見出しました。

広々と広がる枯野原に、黒い背広に黒いソフトの痩せた男が立ち、遠く汽車の煙らしいうす墨が流れていました。

  ――倖せは吾がかたわらを過ぎゆきぬ、のりおくれたる列車にも似て――

余白にかかれたその文字が、私の背筋にさむざむとした思いを走らせたのは、その頃の伊香保の宿に暖房設備がなかったせいばかりではありませんでした。盛衰の劇しいマスコミの流れから、死後時がすぎての盛名とうらはらに、一ツ時、夢二の名が忘れるともなく忘れられていたからです――海外旅行のあと、富士見高原に独り病をやしなっていると、人の噂に聞いてはいましたが――

二・二六事件の起こるすこし前、世の中が騒然としていた頃のことでした……

※岩田専太郎:1901年(明治34)6月8日 - 1974年2月19日。日本の画家、美術考証家。1901年6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれ、小学校卒業後、菊池契月、伊東深水に師事。1919年(大正8)、十代後半から『講談雑誌』(博文館)で挿絵を発表。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災し、大阪に転居。中山太陽堂の経営する広告出版社プラトン社の専属画家となる。同年創刊の『女性』(小山内薫編集)、翌年創刊の『苦楽』(直木三十五、川口松太郎ら編集)で、永井荷風らの連載小説の挿絵を描く。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。1926年(大正15)に東京に戻り、同市滝野川区田端476番地(現在の北区田端)に転居する。この界隈は「田端文士村」と呼ばれた町で、すぐ後には隣に川口松太郎が引っ越してきている。同年『大阪毎日新聞』に吉川英治が連載した『鳴門秘帖』に挿絵を描いて評判を呼び、「モダン浮世絵」と呼ばれた。1937年(昭和12)、映画監督山中貞雄の遺作となった四代目河原崎長十郎主演の映画『人情紙風船』(P.C.L.映画作品)の美術考証を手がけた縁で、1939年(昭和14)、山中の遺した原案をもとに梶原金八が脚本を書き、河原崎が主演し、山中の助監督だった萩原遼が監督した映画『その前夜』(東宝映画京都撮影所作品)の美術考証を手がける。1954年(昭和29)、表紙絵及び挿絵が評価され、第2回菊池寛賞を受賞。1974年(昭和49)2月19日に死去。享年72歳。妹は女優の湊明子。(wikipediaより)

※「第1回夢二作品展覧会」…1912年(大正元年)11月23日~12月2日)に京都府立図書館で開催。
※二・二六事件:1936年(昭和11)2月26日から29日にかけて、陸軍の青年将校らが起こしたクーデター事件。 陸軍の「皇道派」に属する青年将校らが、東京の近衛歩兵第3連隊などの部隊を率い、首相官邸や政府要人宅を襲撃した。夢二は1934年(昭和9)に逝去している。


第6回「蕗谷虹児の夢二への恩」

2024-10-15 08:52:13 | 日記

前回に引き続き蕗谷虹児のエッセイをご紹介します。
これには虹児の半生が略記されていますが、非常に困っていたときに夢二に助けられ、夢二の庇護のもとに生きてきたと切実に書いています。
こういうところに、恋と旅の漂流生活をしていたといわれる夢二が実は多くの人に愛されていたという理由が垣間見えるような感じがします。

■蕗谷虹児
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「蕗谷虹児 先輩 竹久夢二」より
(注)本文は、蕗谷虹児が『別冊週刊読売』第三巻第一号(1976年(昭和51)(読売新聞社)に掲載されたものです。

 小学生時代から、絵が好きだったので、十五歳の時に私は、同窓の日本画の大家、尾竹竹坡(おたけちくは)先生の弟子にしてもらって、新潟から東京に出て来た。
 当時は、文展の全盛時代で、文展に入選しさえすれば、食うや食わずの無名画家でも、写真入りで新聞雑誌に書きたてられて、生活が保障されたものだったので、私も大方の画学生同様に、文展に入選したいばかりに、大作の出品が習作と懸命に取り組んでいて、博物館の鎌倉時代の仏像の写生と、絵巻物の模写に励んでいた。好きで描く浮世絵や挿絵は、厳しい絵の勉強の合間の愉しみにしていたので、夢二の挿絵集の春の巻等は、日比谷図書館で私は見ていた。
 竹坡先生は、文展に出品した「訪れ」で、文展の最高賞の金牌を授与されていたので、大変な羽振りであった。が、もう一度最高賞を撮れば、文展の審査員に昇格されるという大切な出品作を、なぜか落選させられたので、先生と、一門の弟子たちは前途の希望を失って、ちりばらばらになり、私も、父が新聞記者をしている樺太(からふと)へ落ちて行ったが、父の家には、私とうまくいかない父の後妻がいたので、私は父の家からも出て、樺太の村落から村落を、つたない絵を画いて売りながら、北へ北へと漂泊してゆき、国境から先には行けなかったから、四年間の放浪のはてに、東京へ引き返すべく、不凍港の久春内(くしゅんない)から小樽行きの船に乗ったが、大雪の小樽駅で、父の友人の、名寄(なよろ)の禅寺の和尚と村の人たちから餞別にもらった当分の間の学費を、掏摸(スリ)に掏られて、殆ど無一文の素寒貧(すかんぴん)になって東京に帰ってきた。そんな私を止めてくれた彫刻家の戸田海笛(とだかいてき)と、遊びにきていた先輩の中沢霊泉(なかざわれいぜん)が、夢二さんと仲がよかったので、二人に連れられて、本郷の菊富士ホテルにいた夢二さんのところへ行ってみたのだが、夢二さんは「樺太帰りの熊」と呼ばれて誰れにも相手にされない私に同情して、樺太で描いた私のスケッチを見てくれた上で、東京社の編集長に紹介状を書いてくれたのだった。
 当時の東京社からは、「婦人画報」と「少女画報」の他に二、三の雑誌が出ていたが、東京社は夢二さんの紹介なので、すぐ私に「少女画報」に挿絵を描かせてくれた。
 それ以来私は、夢二さんの庇護のものとで挿絵を描いたので、夢二さんが亡くなったときには、挿絵を描く張りあいを失って、何度描くのをやめようとしたかしれなかった。夢二さんは亡くなってからも、無分別な私が、道を踏み違えないように、心配してくれた、と私は思っている。
 ━━夢二さんと、お葉さんと三人で、渋谷の通りへ散歩に出たことがあった。その頃の道玄坂には、力車が行き来していたが、街燈の光りの輪には蝙蝠(コウモリ)が飛びかい、ラジオもテレビも無くて、音のない走馬燈のように、夜の渋谷の通りは静かであった。が、大きな月が舗道に映し出した私の影をステッキで指して、
「僕の若い頃を想い出すよ」と、夢二さんが言った。
 夢二さんが三十六歳で私が二十二の時であった。

(参考)記載内容当時の蕗谷虹児の履歴(wikipediaより)
1919年 (大正8年)、竹坡門下の兄弟子の戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、図案家としてデザインの修行をする。
1920年 (大正9年)、22歳、竹久夢二を訪ねる。夢二に雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介され、蕗谷紅児の筆名により同誌へ挿絵掲載のデビューを果たす。吉屋信子の少女向け小説『花物語』に描いた挿絵が評判になり、10月創刊の講談社『婦人倶楽部』のカットなど挿絵画家としての仕事が増え始める。
1921年 (大正10年)、竹久夢二の許可を取り、虹児に改名。朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになる。『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判で時代の寵児となり、夢二と並び称されるようになる。

(余談))
2014年、新潟県新発田市にある蕗谷虹児記念館で夢二の原画展が開催された。同年3月1日から開催された郵政博物館開館記念企画展「蕗谷虹児展」のため、同館から貸出資料要請を受けた際、誤って蕗谷虹児に返送された夢二画の原画が見つかったのである。虹児が夢二を信奉していたからというわけではないだろうが、これも縁であろう。

蕗谷虹児記念館(新潟県新発田市)