夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第18回「夢二を最後まで支えた画家」(有島生馬)

2024-12-14 09:46:19 | 日記

今回は画家の有島生馬です。関東大震災後に東京中を巡り歩いてスケッチし「東京災難画信」を連載した時も、榛名を旅して「榛名山美術研究所」の設立を宣言した時も、そして晩年富士見高原療養所に入院した際も、いつも夢二を支えていました。そして、東京の雑司ヶ谷墓地に埋葬される際は、「竹久夢二を埋む」と揮毫した墓石が少年山荘にあった石の上にあります。
両国にある東京都復興記念館には、関東大震災時の風景の中に夢二を含む当時の人々を描いた大きな絵が飾られています。

*『竹久夢二』(長田幹雄編、1975.9.1)昭森社より
本文は、「特集 竹久夢二 第一集 『本の手帖』Ⅱ・1」(1962.1.1)に掲載された有島生馬「夢二追憶」です。

夢二会といふものが同人の間に結ばれてゐるが、毎年九月一日の祥月命日には雑司谷の墓所に会員が集まり、香華を備へる事になってゐる。昨三十六年で二十三回、この行事の忘れられた事がない。わが物故師友の誰かれを顧みても、外にそんな例はないやうである。又集まる会員の雰囲気が実に単純で、義理や、尊敬などといふより、昨日亡くなった隣人を弔うといふほどの親しみで、誰れも夢二先生などといふものはない。夢二がどうしたとか、かういったかとかいふ、懐顧談に耽るのである。この例年の墓参は思ひ出すだけでも何んとなく心温るものがある。

墓標は僅か三尺ほどの自然石の表面だけ磨いたのに、「竹久夢二を埋む」と私が揮毫した。皆が夢二らしくっていいと云って呉れる。今日では東京都豊島区の史蹟に指定されてゐる。

九月一日といふ運命の日は不思議と夢二に深い因縁があった。大正十二年の九月一日は夢二ばかりの厄日ではなかったが、夢二には兎も角深い印象を与へたといふ事はあとに残した多数のスケッチや、詩文に徴して思ひやられる。電車も通らない東京市中をよくもあんなに方々歩きまはり昼夜となく写生出来たものと、超人的な努力に夢二のこの天変地異の感動がいかに大きかったかを推察出来る。私は十年後「大震災紀念」といふ大画布を作った時、その一部に画帖を手にする夢二の憐れっぽい姿を、豪然たる藤島先生の脇に並べてかいた。藤島先生も震災直後軽装して市内を写生してまはった。纏まった制作は出来なかったが、その意図はあったやうだ。

震災翌年の九月一日の朝、私は何を思ったか、渋谷宇田川町の寓居に夢二を訪ねて行った。一人ぽつねん、彼はいつもの渋い顔をしてゐた。去年の事などはなし、どの程度市中が復興したか見物しようと、二人連れ立って外に出、たうとう今は震災紀念堂の建つ本所被服廠跡まで行って終った。

 あちこち歩きまはったのと、この日夢二の気分がいやに沈んでゐて、黙り込んでゐるので、こっちまで酷く疲れて終った。日比谷に出た頃は夕景になったので、帝国ホテルのグリルで食事を共にし別れた。別れる時、夢二はまだ帰りたくなさ相だったが、私の方がそれ以上に夢二に突合ってゐるのが辛くなった。

都になって分ったのであるが、これが夢二にとっての第二の運命の日だった。葉子さんはこの九月一日に家出して終ったのである。家出して藤島先生の所へ身を隠したのである。

その後松沢に新居を構へたが、この少年山荘に余り心楽しむ暇もなく、伊香保に移り、外遊を思ひ立った。この辺が生涯の大転期となったやうだ。

夢二画富士見高原の療養所の独房で肺患のため、唯一人付添ひもなく寂しく死んだのが矢張り又九月一日であった。

寂しさ、これが夢二の感性と芸術とを貫いた一つの鍵で、九月一日が生涯の象徴となったかのやうである。

「画をかく仕事は横に空間を仕切って眺めることだが感性は後から先きの方へ脇目もふらずに進んでゆくやつで、ちょっと身をかはして立ちどまれば案外つまらないことを思ひつめてゐたと気がつくのだが、因果なもので、止まるところを知らない。三太郎は絵かきのくせに仕切ることを忘れて変な道へ深入りしてしまったものだ。」(夢二著、『出帆』七十七回)

これは小説中の自嗤(じちょう)である。夢二は生れながら職業的技巧を身につけてゐたといへ、それにもまして感情の激しさ深さが世俗の監修や作風を蹂躙させた。世人から誤解されることの多かったのも止むを得ない。

画のことに少し触れてみようか。彼はスタイルを持ってゐた。スタイルを持つとは簡単にいもいへるが、ここでスタイルといふのは、視覚、情緒、詰り個人的認識が根底的に異質であった事を指すのである。独自のスタイルなしでは物を観察すること、見ること、写生すること、再現することが不可能で、何をみてもかいても所謂夢二式になって終ふのである。その腕、その指、その像、その濃淡、有力な技巧がスタイルによく従属錬磨されて行ったのである。これは又彼の書、彼の詩歌文章のタッチについてもいへることで、どこでもヂェヌインなスタイルを認めざるを得ない。

 志賀がどこかで、夢二などに拘泥してゐては仕方がないと、忠告してくれたとかいふことを私は耳にしたが、なぜそれほど夢二がいけないのだらう、理由はきいてゐないが、私は未だに夢二を明治大正の不滅な風俗画家と信じ愛してゐる。センティメンタルな時代の感情や、風俗を夢二位よく後世に伝へ得る画人が他にあるであらうか。この魅力あってこそ当時の子女を熱中させたヴォグが巻き起されたのであらう。(たとへ固定観念の芸術家や、批評家等に無視されつつも、大衆と特殊なファンの支持はゆるがなかった)

一体どの程度志賀は夢二の作品を知ってゐるのだらう。或は知ってゐても反撥するのであらう。。せいぜい雑誌の挿画か、絵端書位しか見てゐないのではあるまいか。夢二には六枚折の屏風とか、全紙の軸物とか、二百種に余る著書とか、茶函四個にぎっしり詰った写生帳とか(戦時中この茶函を整理するのに、四人係りで三四日かかった程の量の)、今日なほ隠れた作品があとから吾々の目に現はれて来る、この多産勤労の驚くべき事実を果たして知ってゐるであらうか。

地ぢ亜の鑑賞と青春の情熱に耽溺した夢二はそのエネルギーを右のやうな数々の形で女性の創造に燃し尽した観がある。所謂「夢二の女」なるものはオスカー・ワイルドのいふ「芸術が自然を作る」好適例であった。幾人かの夢二の恋人等は悉く夢二の画中から抜け出して来たかに見えた。それが単に髪型や、化粧のせゐ許りでなく、身のこなしや、顔だちまでそっくりだった。又街に夢二式の若い女が溢れた時代で、呉服橋の港屋の図案による襟、衣類をきた女に逢ふと、妙な錯覚が起こったと夢二自身話したことがあった。

七夕、黒船屋、立田姫といふやうな絢爛たる女人、或は高揚した自由な空想が華々しく続いた後、彼の情熱もやがて下火になって行った。渡米する前後昭和五年頃から漸く(ようやく)甘美な女性美に対る(ママ)倦怠が芽ざしたのか、人よりも山がかき度いと云った。それが榛名湖畔への移住となり、湖のみえる山腹に山荘が落成した。そこで連山、それも寂しい冬枯れや、雪景色に独特のスタイルを与へようとしてゐたが、急に苦難の米欧旅行にそれが切代へられてゐた。この長旅は彼の心身を極度に酷使した。痛ましい努力と苦闘の連続で声明を自ら磨りへらした。夢二の一生は要するに日の殉教者のそれであったが、特に最後に近づくに及び全くその様相を備へるに至った。彼も殉教の一人として金銭には愚かしいまでに無関心だった。
 後年の女人増にはも早や甘い感傷の美を求められなくなってゐる。対象に喰入るに皮肉なまで鋭角化された神経が出て来た。中には鬼気をさへ感じさせるものがある。これ等外遊中の作品は台湾で画商の術策に落ち、多く行衞不明になったやうである。

欧州の旅の疲れの上、台湾の猖気と不慮の災難で、東京へ帰って来た時は全く心身共憔悴の極にたっしてゐた。間もなく夢二は榛名湖畔の山荘から富士見高原療養所へ、旧友正木不如丘院長と、死の床を求め、永遠に委東京を去り、烈々たるポエムの詩のごとき芸術と恋愛の殉教者としての幕を昭和九年九月一日、行年五十一才で閉じた。


竹久夢二の墓石(東京・雑司ヶ谷墓地)

有島生馬の関東大震災を描いた画(東京都復興記念館)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿