今回は多彩な文筆活動で知られる評論家森口多里。「タブロー本位の美術史には夢二の占める場所はない。」としながらも、夢二の時代を写し出した画家として評価し、美術史の中でさまざまな取り上げ方をしてきました。
*『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)より
この文章は、『本の手帖』第二巻第六号(1962年(昭和37)(昭森社)に掲載された「美術史の中の夢二」である。
あらたまって竹久夢二または単に夢二とよんだのではなんとなく自分から遠ざかってしまうような気がするが、竹久君とよぶと急にいきいきと身近にあるようにおもわれてくる。そこでなるべく竹久君とよぶことにする。
昭和十六年六月に東京堂から出した『明治大正の洋画』において、わたしは史的叙述のあとに個人作家として七人の画家の略伝をつけ加えた。黒田清輝・岡田三郎助・満谷国四郎・長原孝太郎・石井柏亭・竹久夢二・佐伯祐三の順であった。これについて一部の人々から、他の六人の画家に任せしめて竹久夢二をえらんだのは妥当ではないと意見された。書評にもそう書かれた。
もっとも、この七人の略伝は、『明治大正の洋画』のために新しく書いたものではなく、雑誌やなんかに書いた旧稿があって、それを採録したのがたまたまこの七人の顔揃いになったまでのことであった。いずれにしても、竹久夢二と他の六人の画家との間に芸術的格差とでもいうべきものを感じていた人々があったので、たまたま夢二を伍せしめたことは、他の六人の芸術的地位を冒瀆したことのように思われたのであろう。あるいは竹久君自身も、有難迷惑を感じて地下で苦笑したかもしれないが、前述したように偶然この七個人が顔をならべたまでのことである。
明治以降の美術史の表面に、つまり表街道に居ならぶ作家たちと竹久君との間に或る格差のあることは事実である。前者が楷書的存在であるとすれば、後者は草書的存在であろう。いかに庶民の間に人気があったとしても所詮日本芸術院には縁のない草書的存在である。
明治以降の美術史を「洋画」という範囲に限って考えてみるならば、竹久君にはタブローとしての完成をめざす意欲の進行がなかったと云える。草画において一時世間から竹久君と並行して見られていた渡辺ヨヘイはタブローの上でも情熱と野心とを持ち、明治四十三年の文展に「ネルのきもの」を出して三等賞を授与された。それで、僅か二十二歳で死んだヨヘイの名前はともかくも日本の洋画史の片隅に出ることになったが、夢二の名は常に除外される。しかしそれだけの話で、なるほど「ネルのきもの」は、山下新太郎、青山龍治、小杉未醒、中村彝、平岡権八郎、八条弥吉の順位の直ぐ後に続き、矢崎千代治と真山孝治よりは上位で、三等賞を授与されただけ会って、画面に破綻が少く、東寺としては感触が新鮮でいまの言葉で云えば一種のムードのあるタブローであったが、要するに対象を手際よく緩和に写したものであった。
竹久君はタブローでは名を成さなかった。タブローに対象を写し出すという苦労から解放されたところに個性の自由な形成の道を見つけ出したのが、竹久君の草書的な芸術であった。したがってタブロー本位の展覧会にも楷書本位の日本洋画史にも、竹久君はついに無縁の存在であった。それでよかったのである。
竹久君の個性は、つまりは東京というとかに住んでいた田舎者の個性であった。若し竹久君が、その頃東京に多かった所謂江戸ッ子がかった通人気風に染まっていたなら、あの独自の情緒を画中の人物に与えることが出来なかっただろうと思われる。若しも春信だの歌麿だのに溺れ、あるいは江戸長女などと通がっていたならば、あの夢二独自のタイプは形成されなかっただろうと思われる。
竹久君は人物に新しいタイプを与えた、というよりは人物の新しいタイプを創造したというべきである。これはタブローの上では期待の出来ないものであった。この創造によって、小春治兵衛も古風な丸髷の女も、やすやすと今のわれわれの感情にはいりこむセンチメンタリズムをもつ人物になった。それは決して高い人間性を与えたものとはいえないにしても、江戸系通人と現代の田舎者との間に横たわる障壁を取り除いたことは事実である。
しかし、古い型の女を新しいセンチメンタリズムの中に生かしたというだけでは、竹久君の芸術の魅力は半減されたであろう。幸いにして竹久君の情緒力と想像性とは、まったく新しい人間のタイプを創造した。それは明治末から大正にかけてのボヘミアンライクの青年が憧憬していたものを感覚的に象徴したような人間のタイプであった。日本の伝統の美しさに定着していながら、異国的なものを自由にわがままに消化して、平俗な世間並から超越した人間のタイプであった。あるいはそれは全くの異国人として現れることもあったが、作者の感情は極めて自然に移入されて、ことごとく竹久君の世界の人間になってしまった。
こういう人間のタイプを立体的に、しかも十分に魅力的に表現したのは、昭和五年の「雛に寄する展覧会」に出品した多くの衣装人形であった。この時の作品が一つでも残っていてくれたならと願われるが、おそらく全滅したこととおもわれる。わたしの記憶もおぼろになったが、当時書いた印象記は活字になって残っているから、その一小部分を抜萃してみよう。
かがめる背を僕等に向けて、杖と蝙蝠傘とを力に雪路をとぼとぼと辿りゆく老人夫婦の互に扶け合う姿、――これが「国境へ」であ る。小さな創作人形によってこれほど複雑な感情を表したものを、僕は未だ曾て見たことが無い。
追手の風に吹かれながら市場へと買い物にいそぐ露西亜婦人、低地地方(ペエイ・パー)の伝統的な白い帽子をかぶり、床机に腰を かけて遠くの山脈を眺めている田園の娘、――彼女等の小さな姿は、直ちに僕等に「風」の存在を感触せしめ、雪の白い「山脉(さんみゃく)」の遠望を関知せしめるのである。作者の感興が更に一層アイデアリスチックの世界を逍う時、或は「青空」となり、或は「幸福をたずねて」となる。老婆は包をかかえて悄然と階段を下りてくる。その長い階段の終るところに高く吊るされた鳥籠の戸は開けられたままだ。小鳥は青空に放たれたのだ。この「青空」を見て、僕等は、その家には既に人が住んでいないことを直感するによい。
そういう哀愁を時として作者は社会思想の立場から解釈した。そして、その場合、メランコリーは一種の告訴として僕の前に立体化されるのである。そういう例を「青是烽煙白人骨」や「煙を吐かぬ煙突」に見ることが出来る。しかしこの方面では、作者は未だ非常に遠慮ぶかい。
作者のテーマは複雑である。「月」や「星」の如き作品にはシュルレアリスム的の幻影さえも取扱われている。作者は、この展覧会に「まいをねっと・どらまにゆく第一階(ママ)の試み」と題したが、「月」や「星」はすでに怪奇なドラマを私共の前に展開している。そうかと思うと、それに隣して、美し支那の春――桃の花咲く青野に逆立ちしている紅衣の支那少年を見る。またユーモアに浸されたるリアリズムの表現としては「信州のパパ」や「オデッサよりの紳士」や「モスカウ芸術座支配人」等がある。
竹久君のえがく人物、わけても女人は、すべて殉情のポエジーである。そこでは封建時代の哀感も異国的の情調もローカルな風物もすべて作者の「現代」に融合していことごとく庶民的なものとなった。この殉情のポエジーがたくさんのファンをひきよせたが、それだけにやがて類型になって行き詰るべきものであった。この行き詰まりを打開する試みとして成功したのが、「雛に寄する展覧会」であった。
昭和十一年春の第一回新帝展から工芸部に人形の出品が許され、それ以後、表現の洗練された、品格も高い人形が毎年出品されるようになったが、竹久君の人形ほどに直接わたしどもの感情に飛び込んでくる作品はまだ現われない。それは古典的完成を無視するところに生まれた人形の生命であった。
竹久君は自分の創造した新しいタイプの適用と、その新しい打開とを、わたしの知っている限りでは、少なくとも三度計画した。一度目は大正十二年のポスターの制作機関の計画で、その披露会も催したのであったが、出資者が関東大震災で一家全滅してしまった。震災直後わたしは渡欧したので、昭和三年までの竹久君の行動は知らない。
二度目は昭和四年で、榛名山麓に農民美術研究所を設立する計画を立て、趣旨書には私の文章も出たが、この文章を依頼してきた毛筆がきの手紙だけは、どういうわけか、赤い封筒と共に戦災を免れて残ったので、こちらに移り住んでから横額に仕立てて飾ってある。この農民美術への創作意欲も成果を見なかったようである。
三度目が昭和五年の「雛に寄する展覧会」であった。第二回は遂に開かれないでしまった。そして同じ年に渡米したのである。
さて「美術史の中の夢二」というテーマであるが、タブロー本位の美術史には夢二の占める場所はない。現代風俗画史が書かれても、主要なる席は展覧会に大きな画面を出品していた画家によって占められるであろう。もちろん夢二も片隅の席を与えられるであろうが、大きな画面がいかに洗練された技巧でえがかれたにしろ、要するに風俗を写したものに対して、夢二の小さな画面には人物の新しいタイプがいきいきと創造されていて、そこに時代の若々しい憧憬と感傷とが象徴されていることを誰でも感受するにちがいない。
わたしは『美術五十年史』(昭和十八年)を書いたとき、竹久夢二の名を「明治大正の版画芸術」と「明治大正の工芸美術」の章に出した。申訳ないことに竹久君の没年を「大正九年」と誤植してしまった。戦後の増補版『美術八十年史』では訂正しておいた。またその「昭和時代」の章にも竹久夢二の名を出した。
(注)森口多里(もりぐちたり)
1892年8月7日 - 1984年5月5日。岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。
第二次世界大戦中、岩手県和賀郡黒沢尻町(現:北上市)に疎開した森口はそのまま郷里に留まり、深沢省三や舟越保武らとともに岩手美術研究所を設立。後には岩手県立岩手工芸美術学校の初代校長を務めた。また岩手県文化財専門委員として民俗芸能や民俗資料の保存調査に尽力し、収集した蔵書や研究資料は岩手県に寄贈され、岩手県立博物館や岩手県立図書館に収蔵されている。(wikipediaより)
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「雛によする」のポスター(1930年、銀座・資生堂にて)