夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第22回「夢二の生活を赤裸々に」(宇佐美雪江)

2025-01-12 09:11:09 | 日記

今回は、歌人として知られる宇佐美雪江の手記です。
1928年(昭和3)、体が弱く電車で医者通いをする毎日の少女・雪江は、同乗することの多かった夢二がスケッチ(今でいえば盗撮ですが)を重ね、やがて声をかけ、戸惑う片親の母親をまるめこんで少年山荘に囲われてしまいます。
小部屋に閉じ込められた雪江は夢二と自分とあまり年の違わない不二彦との生活を始めます。モデル、仮妻、使用人などの様々な役をこなしながら、夢二に次の愛人ができて少年山荘を追われるまでの1年間、人の出入りの多い少年山荘で暮らしました。

雪江には短歌で日記を書くという特技があったことから、「夢二追憶」(文藝春秋)という本が生まれました。夢二研究家の長田幹雄氏が雪江の日記を偶然手に入れ、雪江に連絡を取り、執筆を勧めたのです。雪江は自分の短歌をもとに在りし日の夢二の姿を残酷なまでに活き活きと描写しました。唯一結婚した勝気なたまきと別れ、心から愛した彦乃には死なれ、その後いつしか同居することになったお葉に去られた後の夢二のまさにこれも”夢二式”といった生活が赤裸々に描かれています。

ここでは抜粋のみ掲載しますが、ぜひ同書を読むことをお勧めします。また、日下四郎氏の著書「夢二という生涯」(22世紀アート)には同書の解説が非常にわかりやすと書かれているのでこれもお勧めです。
夢二はこのような本が出版されるとは全く予想だにしなかったでしょうが、雪江が歌人としての素質を持っていたということを見抜けなかったのでしょうか。夢二と時間をともにした人の書いたものとしては、最もリアルに夢二の生活の一端を表現していると思います。

*宇佐美雪江「夢二追憶」(1972年3月20日、㈱文芸春秋刊)から抜粋


●夢二と外出しますときなど、夢二は、わたくしの踵に紅をさし、唾でぼかすのでございます。そして、わたくしを自分より先に歩かせ、後からゆっくり従いてくることもございました。
だいたい、夢二という人は、絵を描くからと言ってモデルを坐らせるわけではなく、日ごろ描いておりますスケッチブックの中から、その時々の、女の姿態を参考にしていたのではないかと思うのでございます。
わたくしにも、描かれていると思ってはいけない、いつでもパパは描いているのだから、と申し、モデルとして夢二の前に立ったことはございません。
●郵便局にわがゆく径は茶の花のこぼれ咲く径ひとりゆく
郵便局にゆく径と申しますのは、夢二の家の裏口から、西に向って茶の木の並んだ、細い径がございました。たしか、甲州街道へ出る道ではなかったかと、思うのでございます。その当時は、いかにも田舎の街道筋のような、ものさびしい通りでした。そこに、小さなしもたやのような郵便局がありまして、そこの夢二の私書函に郵便物をとりにゆくのでございます。ときには、夢二と一緒に行くこともございました。
(編者注)しもたや:店じまいをした家の意の〈仕舞(しも)うた屋〉から変わった言葉で,商売をしていない家。
●夢二は、歌舞伎がたいへん好きだったらしく、ことに大阪の鴈治郎が「紙治」を演じます時は、二、三日続けてみにいったようでございます。そのうちのいつの日かに、わたくしもつれて行ってくれました。
わたくしが、もの珍しげに、あたりを見まわしておりますと、夢二は、「あそこに、きれいな女たちがいるよ。」と、申しまして、二階の彼方を指すのでございます。いわれて、わたくしが見上げますと、なるほど絵のように可愛らしい舞妓さんが、五、六人も並び、髪の簪がピラピラ光って、ゆれておりました。
わたくしは思わず、「とっても、きれいね。」と、感慨ぶかく申しました。すると、夢二は、「あの簪に、いまに浮名がたつのさ。」と、いって、ニヤリと笑いました。
のちに、夢二が半折に舞妓の絵を描くとき、
かんざしに立つ名のあれや初芝居
と、いう句を書き添えているのを、見たことがございます。
●着せられし黄八の着物冷たくて首すかすかとちぢめて歩く
これは、夢二の妙な好みでございまして、黄八に紅絹裏(もみうら)のついた素袷(すあわせ)を、冬でもわたくしの素肌に着せ、胴を細紐できつく自分で締めまして、眺めているのでございますが、わたくしは絹の冷たさで、首をすくめていたものでございます。
(編者注)素袷(すあわせ):長襦袢を着ないで、肌着の上に粋に袷を着ること。
●(冬)夢二は、前に申しました保ちゃんの紹介で、大阪の画商だという男と知り合いになり、その男の世話で、保ちゃんを加え、四人で箱根に行ったのでございます。(中略)夢二はその宿で、朝から晩まで絵を描いておりました。みんな半折です。五枚か、六枚描き上がると、その画商という男が、まとめて東京に持っていったようでございます。どのくらい箱根の宿に居りましたのやら、わたくしは飽き飽きして、いたずらにお風呂の湯の元の、竹の樋(とい)に手を突っこみ、大やけどをして、騒いだことがございます。
のちになって、きいたことでございますが、夢二は、そこで描いた絵で、経済的に立ち直りを考えていたとのことでございますが、不幸にして、その時の絵は全部持ち去られ、うまうまと、詐欺にかかったのだそうでございます。もし、あのとき描きあげました五、六十枚の半折で、夢二の当面の金銭上の苦悩が解消されていたならば、日本を脱出する気にはならなかったのではないかと、わたくしは思うのでございます。後年、そのときの絵を、夢二の展覧会で見ましたとき、わたくしは自分の目が信じられないほど驚きました。
●夢二の家は、戸締りということをしなかったように、思うのでございます。そのせいか、朝、わたくしが目を醒ましますと、もうサロンには、お人が来ている時もあり、たいへん賑やかだったと記憶がございます。
●夢二という人は、女のひとには、たいそう好き嫌いがあったようでございますが、青年達には、とても甘く、いつも五、六人ぐらい遊びにまいっておりました。その中のひとりの青年、というより、少年と申したほうがよく似合う、「ハダカの健坊」と呼ばれている少年がおりまして、どういうわけか、わたくしと気が合いまして、この少年がまいりますと、わたくしは、ひどくはしゃいでいたものでございます。(中略)
そして、その夜、夢二に話してみましたところ、たいへん叱られました。それから、健ちゃんは、松原へ来なくなったように思います。その代わりというのもおかしゅうございますが、夢二は、よくわたくしと遊んでくれました。もっとも、だれもいないふたりきりの時だけでございます。(中略)
そんなふうにして、よく遊んでくれたかと思うと、ふいに、遠い人のような顔をして、わたくしをアトリエから追い払うのでございます。そんなときの変わり身が、わたくしにとって一番悲しく、はぐらかされた気持ちのもってゆきばがなかったものでございます。
●夢二は、そのアトリエで、当時、宝文館から出ていた「若草」に、表紙やカットを描いておりました。赤い帽子をちょいと被り、礼服のズボンのような縞のズボンをはいて、脚を組みながら描いていた姿が浮かんでまいります。それと、わたくしの髪を切りましてから、「雪坊スケッチ」というのを作りまして、断髪の女の子のさまざまなポーズをスケッチしておりました。
●夢二は朝起きましても、顏を洗うというわけではなく、気の向くままに振舞っておりましたから、朝だから、昼だからという、時間のけじめもなく、食事もずいぶん、でたらめのようでございました。わたくしは、一日の初めに食べるのが、パンだったことしか覚えておりません。
●そんな一日の初めに、地主の親爺さんが来ることが、あるのでございます。そんなとき、夢二はとたんに不機嫌になり、さっさと、アトリエからし色紙をもってまいりまして、簡単に絵を描いて渡しておりました。わたくしが覚えておりますかぎりでは、いつも榛名の山の絵でございました。
●そのころ、夢二はお金に不自由していたものか、よく夕方から、半折を小脇に抱えて、丘を降ってゆきました。一度、三軒茶屋というところの骨董屋のようなお店に、一緒に行ったことがございます。
●夢二は、わたくしを外につれ出します時は、二階(屋根裏)のつづらの中から、わたくしに着せる着物を選び出してくるのです。(中略)出掛るときによって、着物も違いますが、どれもみんなカビ臭く、湿っていて、決して快い気分ではございませんでした。
保ちゃんの話によれば、それらの着物は、殆どお葉さんの着物だったようでございます。つづら一杯ほどの着物を残して、去って行ったお葉さんの、当時の気持が、いまは多少わかるような気がいたします。
わたくしも、女でございますから、身の廻りの必需品もあったのでごいましょうに、夢二から現金をもたされた覚えはなく、日常の買物その他、いったいどうしていたのでございましょうか。記憶もないのは、いまだに解せないことでございます。
夕食は、よく新宿の中村屋に出掛けてゆきました。
その折、女主人の黒光さんが、夢二のテーブルに挨拶に凝られ、帰りには、たくさんの支那まんじゅうを、くださったように思うのでございます。その支那まんじゅうが、二、三日の朝の食事になっていたこともあり、固くなったのを火鉢の炭火で焼きながら、夢二と二人でボソボソ食べた情景などは、いまだに目に残っております。
●「母といえば、いくたび夢二の前で怒りましたことか。(中略)本当に可哀想でございました。軍人の未亡人という自分の誇りと、父のない責任を感じてのことでございましょうか。夢二を終生憎みまして、わたくしの人生の負目として、第二の人生を踏み出しましたときも、夢二のことは固く口を閉じ、わたくしにすら語ることはございませんでした。
夢二も、母が苦手でございまして、母の姿が見えますと、どこかへ姿を隠してしまい、ときには、そのまま旅に出てしまうのでございます。松原の家に、わたくしが居りました間で、母が最も倖せに感じたのは、わたくしが病気をした時だと思います。
(1か月ほど病臥した際にその間中母が来て看病してくれた。)
●そのころ(病臥していたころ)、夢二はわたくしとの暮らしと全く関係なく、榛名山の方で、新しい計画を立てて、活動していたそうでございます。のちになって、夢二の遺作集や文献によって、知ったのでございます。
夢二にとって、わたくしはまったくの子供か、玩具のような存在だったのでございましょう。夢二自身の生きる上の相談など、ただの一度もきいたことがございません。たまに、わたくしが大人めいた顔をしておりますと、「大人になるな。」と、いって、きつく叱られたのでございます。
●ですから、松原の家に、女の方の出入りがどんなに激しくても、わたくしは無関心を装っておりました。夢二は、そんなとき、わたくしの存在を無視して行動しておりました。どうかしますと、女の方が五、六人も泊ってゆくこともあり、どうやって寝ましたものやら、そんな夜は、わたくしは早くから例の三角部屋に入っておりますので、存じないのでございます。わたくしが、朝、目を醒ますころにはもう誰もいないで、夢二もいないことがよくありました。
●その(信州への)旅から帰ってすぐ、夢二は突然、下腹部の痛みを訴え、それはもう、たいへんな苦しみようでございました。どういうふうにして、築地の池田病院に入院しましたのか、そのとき、わたくしは気も転倒しておりましたのか、はっきり覚えておりませんが、夢二のいいつけで、半折を二枚持ち、「週刊朝日」の編集長だった翁久允氏を、朝日新聞社に訪ねさせられたのでございます。今思いますと、松原に来てから、ひとりでは殆ど外出したこともなかったわたくしが、よくも朝日新聞社まで行きついたものと思います。
それはともかく、翁氏に会い、夢二の半説を渡して、封筒に入ったものを翁氏から受取り、その足で池田病院に向かったのでございます。
(病院に着くと夢二はけろりとしていてお葉と楽しそうにはなしていて、雪坊は封筒を手渡すと涙がポロポロこぼれた。しかし後でお葉は高相さんが見舞いに連れてきたことが分かった。)
●それは夢二が留守のときでございました。玄関に、たいそう立派な毛皮の衿巻をして、お供をつれた女の方が立っているのでございます。わたくしは、ただどぎまぎしておりますと、その方は、自分は夢二の妻で、不二彦の母であると仰言って、わたくしをさも軽蔑したように見下されたのです。(この後の様子はよく憶えていない。)

●だいたい、夢二のところに来る女の方は、みんな美しく、女っぽく、いつもわたくしは圧迫を感じておりました。

●あるときは、夢二のお姉さんという方が来られました。この方は、わたくしにたいへん優しく、その上、わたくしを前に置いて、女の道について懇々と説教をして下さるのです。一日も早くこの家を出ること、ちゃんと結婚して子供を産むこと、それが女の幸福というものであることなど、いいきかされました。わたくしはただ悲しく、これからの自分がどうなるのか、見当もつかなかったのでございます。

(昭和5年)

●(ある時雪坊のことが書いてある記事のある新聞を夢二がまるめて棚の中に放り込んでいたのを見たが、実は次のことが原因だと分かった。)新聞記事には、歌人の山田順子と、夢二との愛の破局が、まだ世間を騒がしているのに、早くも娘のような年若い女が、夢二の新しい情人になっていることか、今でいう週刊誌的センセイショナルな記事で、埋められていたそうでございます。
そのころ、ようやく夢二の絵が世間から倦きられ、やや下火になっていた時期でもあり、夢二にとっては、かなりのショックだったようでございます。
そんなことがありましてから間もなく、突然、夢二は、『下宿をしてみないか。パパがよい部屋を探して来たよ。』と、申すのでございます。
(下宿を初めてから)松原にいるときと違って、わたくしが中心になるものでございますから、嬉しくて、楽しくて、夢二と離れていることも、少しも苦にならず、むしろ、夢二の来ないことを願うようになりました。林芙美子と知り合ったのも、そこの下宿でございます。いつ、だれと来たのか、また、どういう女なのかも知らず、ただ勢いのよい、すごい女と思っておりました。芙美子は、わたくしが夢二とかかわりのある女だと知って、たいへん軽蔑していたようでございます。夜など、わたくしを新宿にひっぱり出して、屋台のおでん屋で、よくお酒を飲んだものでございます。
(後で知ったが)丁度、そのころ、夢二は経済的にも行き詰り、仕事の上にも苦悩があって、日本脱出を考えていたのだそうでございます。
●(2月、「雛によする」の会場に呼び出されて)夢二は、わたくしを片隅に呼び、腰のポケットからお金を出して、掌に握らせてくれました。冷たい硬貨の感触が、なにかひどく侘しく感じられました。三十七円だったと思います。
「パパは外国に行くよ。帰ってくるかどうか解らない。」と、申しました。夢二のその言葉をきいても、少しも悲しく思わず、平気な顔をしていたように思います。それからだいぶ経って、夢二から一枚の葉書がまいりました。
叱りたればすごすご小屋に入りけりルルも足らざるもののあるべし
これだけの文字でございました。これを最後として、夢二との音信は絶えたのでございます。

*参考1:保ちゃん:大岩保のこと。三重県いせ

*参考2:本の手帖の「夢二をめぐる娘たち」 福田蘭堂(青木繁の息子、本名幸彦)
……とつぜんH子という少女が現れた。ぽっちゃりとした色白の娘であった。彼女は少女雑誌の編集員であり、さし画を貰いにやつてきたのである。夢二はすぐ好きになり、彼女と会える時間をのばすために、さし画をすぐには渡さなかった。H子は黙ってそれを我慢した。その姿はいじらしかった。わたしは彼女に同情をよせた。やがてH子はわたしを慕うようになった。
(編者注1)保ちゃん:大岩保:三重県伊勢崎市出身で、画家志望の青年として大正9年に同郷の先輩岩田順一とともに菊富士ホテルに夢二を訪ね、行き来が始まる。三共製薬に入社したことから金銭面で夢二にいいように使われる一方、哀れな雪江への同情心が雪江の心を動かしたことから、夢二が雇った暴力団に襲われ、夢二との破局を迎えた。
(編者注2)H子:博文社の小池秀子




第21回「美術史の中の夢二」(森口多里)

2025-01-05 08:50:43 | 日記

今回は多彩な文筆活動で知られる評論家森口多里。「タブロー本位の美術史には夢二の占める場所はない。」としながらも、夢二の時代を写し出した画家として評価し、美術史の中でさまざまな取り上げ方をしてきました。

*『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)より 

この文章は、『本の手帖』第二巻第六号(1962年(昭和37)(昭森社)に掲載された「美術史の中の夢二」である。

あらたまって竹久夢二または単に夢二とよんだのではなんとなく自分から遠ざかってしまうような気がするが、竹久君とよぶと急にいきいきと身近にあるようにおもわれてくる。そこでなるべく竹久君とよぶことにする。

 昭和十六年六月に東京堂から出した『明治大正の洋画』において、わたしは史的叙述のあとに個人作家として七人の画家の略伝をつけ加えた。黒田清輝・岡田三郎助・満谷国四郎・長原孝太郎・石井柏亭・竹久夢二・佐伯祐三の順であった。これについて一部の人々から、他の六人の画家に任せしめて竹久夢二をえらんだのは妥当ではないと意見された。書評にもそう書かれた。

 もっとも、この七人の略伝は、『明治大正の洋画』のために新しく書いたものではなく、雑誌やなんかに書いた旧稿があって、それを採録したのがたまたまこの七人の顔揃いになったまでのことであった。いずれにしても、竹久夢二と他の六人の画家との間に芸術的格差とでもいうべきものを感じていた人々があったので、たまたま夢二を伍せしめたことは、他の六人の芸術的地位を冒瀆したことのように思われたのであろう。あるいは竹久君自身も、有難迷惑を感じて地下で苦笑したかもしれないが、前述したように偶然この七個人が顔をならべたまでのことである。

 明治以降の美術史の表面に、つまり表街道に居ならぶ作家たちと竹久君との間に或る格差のあることは事実である。前者が楷書的存在であるとすれば、後者は草書的存在であろう。いかに庶民の間に人気があったとしても所詮日本芸術院には縁のない草書的存在である。

 明治以降の美術史を「洋画」という範囲に限って考えてみるならば、竹久君にはタブローとしての完成をめざす意欲の進行がなかったと云える。草画において一時世間から竹久君と並行して見られていた渡辺ヨヘイはタブローの上でも情熱と野心とを持ち、明治四十三年の文展に「ネルのきもの」を出して三等賞を授与された。それで、僅か二十二歳で死んだヨヘイの名前はともかくも日本の洋画史の片隅に出ることになったが、夢二の名は常に除外される。しかしそれだけの話で、なるほど「ネルのきもの」は、山下新太郎、青山龍治、小杉未醒、中村彝、平岡権八郎、八条弥吉の順位の直ぐ後に続き、矢崎千代治と真山孝治よりは上位で、三等賞を授与されただけ会って、画面に破綻が少く、東寺としては感触が新鮮でいまの言葉で云えば一種のムードのあるタブローであったが、要するに対象を手際よく緩和に写したものであった。

 竹久君はタブローでは名を成さなかった。タブローに対象を写し出すという苦労から解放されたところに個性の自由な形成の道を見つけ出したのが、竹久君の草書的な芸術であった。したがってタブロー本位の展覧会にも楷書本位の日本洋画史にも、竹久君はついに無縁の存在であった。それでよかったのである。

 竹久君の個性は、つまりは東京というとかに住んでいた田舎者の個性であった。若し竹久君が、その頃東京に多かった所謂江戸ッ子がかった通人気風に染まっていたなら、あの独自の情緒を画中の人物に与えることが出来なかっただろうと思われる。若しも春信だの歌麿だのに溺れ、あるいは江戸長女などと通がっていたならば、あの夢二独自のタイプは形成されなかっただろうと思われる。

 竹久君は人物に新しいタイプを与えた、というよりは人物の新しいタイプを創造したというべきである。これはタブローの上では期待の出来ないものであった。この創造によって、小春治兵衛も古風な丸髷の女も、やすやすと今のわれわれの感情にはいりこむセンチメンタリズムをもつ人物になった。それは決して高い人間性を与えたものとはいえないにしても、江戸系通人と現代の田舎者との間に横たわる障壁を取り除いたことは事実である。

 しかし、古い型の女を新しいセンチメンタリズムの中に生かしたというだけでは、竹久君の芸術の魅力は半減されたであろう。幸いにして竹久君の情緒力と想像性とは、まったく新しい人間のタイプを創造した。それは明治末から大正にかけてのボヘミアンライクの青年が憧憬していたものを感覚的に象徴したような人間のタイプであった。日本の伝統の美しさに定着していながら、異国的なものを自由にわがままに消化して、平俗な世間並から超越した人間のタイプであった。あるいはそれは全くの異国人として現れることもあったが、作者の感情は極めて自然に移入されて、ことごとく竹久君の世界の人間になってしまった。

 こういう人間のタイプを立体的に、しかも十分に魅力的に表現したのは、昭和五年の「雛に寄する展覧会」に出品した多くの衣装人形であった。この時の作品が一つでも残っていてくれたならと願われるが、おそらく全滅したこととおもわれる。わたしの記憶もおぼろになったが、当時書いた印象記は活字になって残っているから、その一小部分を抜萃してみよう。

  かがめる背を僕等に向けて、杖と蝙蝠傘とを力に雪路をとぼとぼと辿りゆく老人夫婦の互に扶け合う姿、――これが「国境へ」であ る。小さな創作人形によってこれほど複雑な感情を表したものを、僕は未だ曾て見たことが無い。
  追手の風に吹かれながら市場へと買い物にいそぐ露西亜婦人、低地地方(ペエイ・パー)の伝統的な白い帽子をかぶり、床机に腰を  かけて遠くの山脈を眺めている田園の娘、――彼女等の小さな姿は、直ちに僕等に「風」の存在を感触せしめ、雪の白い「山脉(さんみゃく)」の遠望を関知せしめるのである。作者の感興が更に一層アイデアリスチックの世界を逍う時、或は「青空」となり、或は「幸福をたずねて」となる。老婆は包をかかえて悄然と階段を下りてくる。その長い階段の終るところに高く吊るされた鳥籠の戸は開けられたままだ。小鳥は青空に放たれたのだ。この「青空」を見て、僕等は、その家には既に人が住んでいないことを直感するによい。
  そういう哀愁を時として作者は社会思想の立場から解釈した。そして、その場合、メランコリーは一種の告訴として僕の前に立体化されるのである。そういう例を「青是烽煙白人骨」や「煙を吐かぬ煙突」に見ることが出来る。しかしこの方面では、作者は未だ非常に遠慮ぶかい。
  作者のテーマは複雑である。「月」や「星」の如き作品にはシュルレアリスム的の幻影さえも取扱われている。作者は、この展覧会に「まいをねっと・どらまにゆく第一階(ママ)の試み」と題したが、「月」や「星」はすでに怪奇なドラマを私共の前に展開している。そうかと思うと、それに隣して、美し支那の春――桃の花咲く青野に逆立ちしている紅衣の支那少年を見る。またユーモアに浸されたるリアリズムの表現としては「信州のパパ」や「オデッサよりの紳士」や「モスカウ芸術座支配人」等がある。

 竹久君のえがく人物、わけても女人は、すべて殉情のポエジーである。そこでは封建時代の哀感も異国的の情調もローカルな風物もすべて作者の「現代」に融合していことごとく庶民的なものとなった。この殉情のポエジーがたくさんのファンをひきよせたが、それだけにやがて類型になって行き詰るべきものであった。この行き詰まりを打開する試みとして成功したのが、「雛に寄する展覧会」であった。

 昭和十一年春の第一回新帝展から工芸部に人形の出品が許され、それ以後、表現の洗練された、品格も高い人形が毎年出品されるようになったが、竹久君の人形ほどに直接わたしどもの感情に飛び込んでくる作品はまだ現われない。それは古典的完成を無視するところに生まれた人形の生命であった。

 竹久君は自分の創造した新しいタイプの適用と、その新しい打開とを、わたしの知っている限りでは、少なくとも三度計画した。一度目は大正十二年のポスターの制作機関の計画で、その披露会も催したのであったが、出資者が関東大震災で一家全滅してしまった。震災直後わたしは渡欧したので、昭和三年までの竹久君の行動は知らない。

 二度目は昭和四年で、榛名山麓に農民美術研究所を設立する計画を立て、趣旨書には私の文章も出たが、この文章を依頼してきた毛筆がきの手紙だけは、どういうわけか、赤い封筒と共に戦災を免れて残ったので、こちらに移り住んでから横額に仕立てて飾ってある。この農民美術への創作意欲も成果を見なかったようである。

 三度目が昭和五年の「雛に寄する展覧会」であった。第二回は遂に開かれないでしまった。そして同じ年に渡米したのである。

 さて「美術史の中の夢二」というテーマであるが、タブロー本位の美術史には夢二の占める場所はない。現代風俗画史が書かれても、主要なる席は展覧会に大きな画面を出品していた画家によって占められるであろう。もちろん夢二も片隅の席を与えられるであろうが、大きな画面がいかに洗練された技巧でえがかれたにしろ、要するに風俗を写したものに対して、夢二の小さな画面には人物の新しいタイプがいきいきと創造されていて、そこに時代の若々しい憧憬と感傷とが象徴されていることを誰でも感受するにちがいない。

 わたしは『美術五十年史』(昭和十八年)を書いたとき、竹久夢二の名を「明治大正の版画芸術」と「明治大正の工芸美術」の章に出した。申訳ないことに竹久君の没年を「大正九年」と誤植してしまった。戦後の増補版『美術八十年史』では訂正しておいた。またその「昭和時代」の章にも竹久夢二の名を出した。

(注)森口多里(もりぐちたり)

1892年8月7日 - 1984年5月5日。岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。

第二次世界大戦中、岩手県和賀郡黒沢尻町(現:北上市)に疎開した森口はそのまま郷里に留まり、深沢省三や舟越保武らとともに岩手美術研究所を設立。後には岩手県立岩手工芸美術学校の初代校長を務めた。また岩手県文化財専門委員として民俗芸能や民俗資料の保存調査に尽力し、収集した蔵書や研究資料は岩手県に寄贈され、岩手県立博物館や岩手県立図書館に収蔵されている。(wikipediaより)

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「雛によする」のポスター(1930年、銀座・資生堂にて)