今回はまた不二彦(1911-1994)の文章です。不二彦は青年になるまでずっと夢二について歩いていた上、1994年まで生存していたことから、大正時代の夢二を知る大きな手がかりとなる手記をたくさん書いています。今回は震災時の夢二の姿です。
後藤新平に感謝状を送ったというのは驚きです。1933年に台湾に行ったとき、後藤新平のために改装した総督府台湾博物館(現国立台湾博物館)からわずか徒歩5分のところにある「鉄道ホテル」に宿泊したというのも縁でしょうか。記録にはありませんが、台湾を発つ直前に「台湾日日新報」に投稿したエッセイ「台湾の印象」には後藤新平に触れた部分があります。夢二はきっと博物館を訪ねたに違いないと私は思っています。夢二の3週間の台湾滞在期間中、わずか7日分しか行動が分かっていないという謎がその理由です。
*本文は、『生誕100竹久夢二百選展』(サンケイ新聞社主催、日本橋三越本店七階 三越美術館(1983.1.4―16))図録に掲載された「父子雑録」です。
一石橋
取り払われるかと案じていた「しるべ石」はまだ立っていた。「一石橋」の足のたもとに。
関東大震災(大正十二年)の跡始末で東京中が掘りかえされ、至るところに区画整理、道路工事のまっ最中であったから、文字もかすれた「しるべ石」など焼跡にはじき飛ばされて、跡かたも残ってはいなかろう。“一石橋はどうか”と案じた夢二は、私を連れて、しるべ石の安否を確めに出かけたのであった。
わずかに焼け残された渋谷、宇田川町の路地裏から、僕はにぎり飯を腰に、夢二はスケッチブックを懐に、災害地を取材しながら一石橋に向かって歩いた。取材は後に「震災画信」として新聞に掲載され、ご記憶のかたもあろう。
「しるべ石」は、日本橋、呉服橋と河岸つづきの一石橋の袂の空き地にあった。空き地に立った夢二は、僕に“ここはな、江戸の昔から母をたづねる娘、父親を探がす兄弟縁者の寄り会う巡礼の地であったそうな”と言った。復興事業の嵐の中に残されていた小さな旧跡を見出した夢二は感激、後藤新平市長に謝意を表する一文をおくったりした。
夢二は一石橋界隈に暮らす(大正三、四年)港屋時代があったため、ことさらに思い出深かったのだろう。当時の夢二の手記から、一石橋の文字を拾って前後の足取りを追って見たら、少年の日の私もいた……。
(夢二の文章)一石橋から一枚描いた。もっと大きなものへ色のあるものを描き度い。しかし、ちいさいスケッチ一枚しただけですっかりつかれてしまっ た。本銀町の方へいってみようと思ったけれど、日本銀行の所から引き返して魚河岸の方へゆく。飛白のパッチをはいて筒袖をきた若い衆、白いシャツに浅黄のズボンをはいた老人。メモくらむように往来している。大方はもう船から荷をあげたようである。
江戸橋から引き返して、うの丸の方を通って、まる花へきてここで久し振りに味噌汁をたべる。それからまた一石橋へ出て帰る……。
このあたり手を引かれて私も歩いた道だ。
(編者注1)飛白(ひはく、かすり):かすれたような部分を規則的に配した模様。また、その模様のある織物。
(編者注2)パッチ:男性の下着。類語:股引き/猿股/すててこ
少年山荘
関東大震災を境に夢二は、アトリエつきの自分の家を建てることにした。仮り住まいの漂白生活をきりあげて、“ゆっくり眠りたいんだよ”といっていた。設計図も自分で引いて、蔵造りに赤い屋根、夢二流儀の国籍不明の建てもの、一風変わった雰囲気のものが出来た。建築の基本にはかなわなかったらしく「鬼門」といかいうところが出来て、鬼門除けの南天を植えたりした。武蔵野風景が一望できる丘つづき、雑木雑草の中の一角だった。
土蔵造りに蔦づるを一面に絡ませた風情のある家は好評だったが、木造に禁忌の蔦づるを覆いつくした家屋は、根太も土台も朽ち果て、十年で寿命が終わることになった。
この少年山荘は「夢二郷土美術館」の手で岡山の地に復元され、現在美術館の別館となっている。
(編者注3)少年山荘は、震災の翌年、1924年松原に建てられた。
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