学校という巨大な社会における優生思想とは、成績の良し悪しや障害の有無などによって人間を「優れた人間」と「劣った人間」に区別し、「劣った人間」は学校から排除してもよい、という考え方です。
そして、学校における社会福祉とは、学校生活を送る上でハンディキャップを負った人々が健やかで文化的な生活を保障された社会。 また、その充実・増進を積極的に追求する考え方です。
この真逆な考え方のどちらでも、自由自在に、一つの組織が、一人の人間が、適応しようとしてもできるはずがない。学校という巨大な社会に、優生思想が存在すれば、社会福祉を積極的に追求することはできない。社会福祉は優生思想の配下に置かれる。
優生思想を学んで理解した人は、優生思想に基づく行動を無意識に選択する。
社会福祉を追求する考え方の人は、優生思想に基づく行動を取る人を理解できない。
私は、4歳から12歳まで小児期の薬物治療の副作用で、中学生で成長が止まってしまいました。見た目だけでも、劣勢なのです。優生思想に基づく行動を取る人から追い掛け回されました。
狩りをする人は、失敗すると、気が狂ったように思い詰めるのです。
まさか、優生思想に基づく行動を取る人が、劣勢な人間を追いかけて、しくじるなんて、ありえないことが起きたとき、この腹立ち、悔しさ、憤りを何が何でも理解してほしいと欲求し、よくわかるよと許容する暗黙の思考法が発生していても、劣勢な人間には、何が起きているのか、まったく理解できないのです。
狩りに失敗すると、この、憎しみの気持ちや、怨みの感情が、劣勢の人間は嫌われ者だから、優勢な人間が何をしても許されると、思考の逸脱や奔逸の現象を発生させてしまうのです。
優勢な人間は悪くない、悪いのは劣勢の人間である。
優勢な人間が劣勢の人間を非難することは正しい。
優勢な人間に、劣勢の人間が逆らうことを決して許さない。
このような心情や悪感情が内面の世界に発生しています。
劣勢の人間が、優勢な人間を不当に抑圧していると感知されるために、固着し、ここに、憎悪、怨みという有意味性を中心にした心的な世界が、明確に形成されたのです。
無料奉仕のボランティアのように強制を強いてくる形式性が、がぜん優位を帯びて、無条件に抑圧しているかのように、圧倒して、のしかかってくるような不快感に襲われているのです。
カウンセリングでは、逸脱した優生思想に基づく行動は、すべて鬱病の心的な現象を、魔性の鬼火のように引き寄せるものであるということが、本質的な次元での問題です。
優生思想と社会福祉を追求する考え方は真逆でありながら、対の共同性としてあるものです。これを脅かすものの中で唯一無比の最大の原因は、生命の切断であることは疑いありません。優勢な人間の欲求が、劣勢の人間の欲求を強圧的に封殺し続けたいと喚起されるとき、この欲求の矛盾が、不可視の枠の中で、対の関係性を崩壊させているのです。
優生思想と社会福祉を追求する考え方という真逆の対の共同性では、このように、いじめや自殺は起こるべくして起きています。発生の初めに、必ず、見た目では解からない内面の世界に恨み、憎しみ、反抗といった感情の衝動を中心にした思惟が形成されています。
すなわち、劣勢の人間が、社会福祉を追求する考え方を持ちこたえるためには、書き言葉によって、現実崩壊を防ぎ、心身の危険を回避するために、言葉を書き続ける必要があります。言葉を書く習慣が、自分の身の回りで起きていることを、社会に報告する手段になるのです。
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