2024年は波乱の幕開けでしたが
前年の暮れには私にも訃報が相次いでいました。
闘病生活4年のこうちゃんのお父さんと
以前にも書いたことがある「風変わりな友人」のふたり。
ふたりとも私のこれまでの過程で関わって来た
大事な得難い友人達でした。
こうちゃんのお父さんは頑固で一徹、
その息子 こうちゃんとは似たもの同士なのか
ある頃からそりが合わず溝が深くなっていき
跡取り息子だったはずが家を出てしまって
弟が家族と共に実家に戻っています。
ふたりともいい人間なのにどうして譲れないのか
生前の母も私も時折こうちゃんを諭しながら
普段は聞き分けのいい子が
この問題ばかりは頑として納得せず困ったものでした。
ある時、お父さんが入院したとの事で見舞いに行くと
その日は検査結果が出て
家族にも説明があるとの事
お父さんから一緒に聞いてと頼まれて
弟のとし君と妹と話を聞くことに・・・
「 検査の結果大腸がんでした。手術をしましょう。
転移も考えられるので広い範囲になります。
まず大腿部の組織を採取して検査して
問題なければ手術を勧めます。
悪性のものが認められれば閉じることになります。」
医師は淡々と説明を続け
ふと見ると、隣でメモを取っていたお父さんの手が
小刻みに震えています。
患者にとっては重大な告知が淡々となされることは
いつものことですが大変な瞬間です。
「 なにか質問はありますか?」
誰も声が出せないでいるので
「 治療はその後人工肛門になるということですか?」
代わって聞くと そうですと返事。
2.3質問して部屋に戻ると皆無口になっていて
「おばちゃん 今日は来てくれてありがとう」
とし君が缶コーヒーを差し出しながら言います。
何事も手術の経過を見てそれからよ と私。
あれから4年、入退院を繰り返し
お父さんは痩せていきました。
こうちゃんは何度か弟と見舞ったようですが
その度に電話してきてポツポツと話します。
「 生きていてくれるうちしかないんだよ」
どうか関係の修復を願って話しますが
こうちゃんは うん・・と言うばかりでした。
みんな一生懸命なのに
生きるというのはなんとたやすくないのでしょうね。
3年が経ち
何度かの抗がん剤治療の効果も現れず
化学療法は体力を奪うばかりで髪も抜け落ち
口腔内はただれてものが食べられなくなり
ただただ苦しいとお父さんは訴えていました。
命ある以上、人は生きなくてはなりません。
4度目の入院のとき
医師はこのまま化学療法を続けるか
自宅療養で緩和ケアに切り替えるか どうします? と
最後の選択を切り出して
お父さんはもう全身に転移して治らないなら
一切の治療はやめて下さいと 決断しました。
最後は家で過ごしたい つらい決断です。
痛みを抑えるだけなので平穏な日々ではなかったけれど
孫たちと半年過ごせたのはせめてもの慰めでしょうか。
最後の入院のとき
こうちゃんは一人で病室に向かい
お父さんとの短い時間を過ごしました。
「 おやじ・・・」
「 うむ、おばちゃんたちにはこの姿を見せたくないから
葬儀が終わるまで知らせるな。もう帰れ」
ほんの2.3分、それが最後の会話だったそうです。
その4日後、こうちゃんのお父さんは旅立ちました。
後に弟のとし君が
「 俺一生懸命やったつもりだけど後悔ばかりで親父にすまなくて」 と
私が母を見送った時の同じ気持ちを話します。
そうですね、これでいいなんてことはないのですね。
こうちゃんは時折電話してきて
「 おばちゃん、どこか温泉へ行こうよ」
うん いこいこ、こうちゃんの寂しさが切ない。
突っ張り合ってたお父さんがいなくなって
どこか自分の支えを失ったのでしょう。
時に生きるのはたやすくないけれど
死ぬのもまたたやすくないと父の毅然とした意志を
知ったのでしょうね。