10代で聴力を失い絶望感にさいなまれながら、その打開策を見つけるため読書に頼るしかなかった。
それで人生論的な本ばかりを読んでいた。ヒルティの『幸福論』とか、天野貞祐の『学生に与ふる書』などがくじけそうな私の支えとなった。あとは種々雑多な本で、ただ活字を追うことで障害者としての劣等感を忘れようとしていた。
概してエッセーや評論集好みになった。西田幾多郎の『善の研究』をよくわからないまま一読した。
小説も嫌いではなかった。トルストイの『戦争の平和』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、ユーゴーの『ああ無情』は面白かった。デュマの『モンテ・クリスト伯』をなんども読んだのは、山内義雄の訳文に魅せられたからであった。『ドリトル先生』シリーズの井伏鱒二の飄々とした訳文も愉しかった。
中学生の時入手した新美南吉の『牛をつないだ椿の木』は、大人になってからその比類のない美しい世界に気づいた。
そんな風にして読書の愉しみを培って行った。
とにかく活字さえ追っていれば、私を悩ましてやまなかった耳鳴りを忘れさせ、集中性も持続し、退屈しなかった。
読書は最も前頭葉を鍛え、生き甲斐ももたらすことを知ったのはいつだったのか。
30代になって『リーダーズ・ダイジェスト』の英文に取り組み、リズム感のある文章の翻訳に手を出し苦闘した時に最上の歓びを味わった。
すべての対象を批判的に読むようになるのはずいぶん後のことである。