続・こがら通信

旧ブログ「こがら通信」から続く新ブログです。

コスタリカ

2022年01月20日 | 日記
 近頃コスタリカに関する本が出回って来て、かなり知られるようになったようである。軍備を持たないこの国のことは、この間読んだ開高健の『珠玉』に「コスタ・リカという中米の小国は軍隊をつくらないで国家予算の何と1/3を国民の教育費にしている」という話に驚く人のことが出ていて、この作家にも注目されていことを知った。
 私は、中学時代から戦争を放棄した日本国の誕生を祝福して来て、今もこの行き方が最も我が国にふさわしいと信じているので、コスタリカへの関心を深くしている。

 
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小池さんの言葉

2022年01月15日 | 日記

 これまで種々雑多な読書を続けて来たけれど、「読書とはなにか」という初歩的な疑念にいつもつきまとわれていた。
 そのことがまた新しい読書への意欲を促す、あるいは惰性というべきものになっている。
 今度また小池真理子さんの『感傷的な午後の珈琲』を手にして、

 作家として何ができるかと考えるたびに、烈(はげ)しい無力感に襲われる。しかし、すぐに考え直す。戦時中も小説は絶え間なく読まれていた。死と別離と不安と食糧不足が長期にわたって日常化していた時でも、人々は本を読んだ。本を欲した。言葉は人を救った。
 時が流れ、再び立ち上がり、歩き出すにつれ、私たちは必ず、新しい言葉、新しい物語を必要とするようになるだろう。その時のために、私は書き続けていこうと思っている。

(このブログで人の文章や言葉を引用するのに色を使わせてもらっている。これは邪道であると昔何かで聞いているので、ある後ろめたさもあるのだけれど、他にやり方を知らないので、あえてそのままにしている。お気にさわる方があったら許されたい。) 

 という言葉を読んで、曲がりかけた背筋がしゃんとして来る。
 これをなんど繰り返したことだろう。
 この慣習を維持したい。


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寸 感

2022年01月13日 | 日記
  毎日の新聞やテレビでは、数年前まであり得なかったニュースが頻発している。
  世間はどんどんせわしくなり、みんな余裕をなくしているのだろうか。
  今朝ふと「衣食足りて礼節を知る」という言葉が浮かんだ。このごろはあまり聞かなくなった言葉である。経済的に豊かになったのに、礼節どころか本来の生き方を見失ったような人が目立って仕方がない。
 それにしても政治が乱れていることは、だれもが認めているのだろうと思うが、特に嘘をつく国会びとがはびこっているという事実にはただ慨嘆する。そこまで日本人は堕ちてしまったのか。
 ここはぐっとこらえて、もう一度自分の人生を立て直すという気構えで、今日も生きる他はあるまい。
 
   
 
 
 
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私の読書

2022年01月12日 | 日記
 10代で聴力を失い絶望感にさいなまれながら、その打開策を見つけるため読書に頼るしかなかった。
 それで人生論的な本ばかりを読んでいた。ヒルティの『幸福論』とか、天野貞祐の『学生に与ふる書』などがくじけそうな私の支えとなった。あとは種々雑多な本で、ただ活字を追うことで障害者としての劣等感を忘れようとしていた。
 概してエッセーや評論集好みになった。西田幾多郎の『善の研究』をよくわからないまま一読した。
 小説も嫌いではなかった。トルストイの『戦争の平和』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、ユーゴーの『ああ無情』は面白かった。デュマの『モンテ・クリスト伯』をなんども読んだのは、山内義雄の訳文に魅せられたからであった。『ドリトル先生』シリーズの井伏鱒二の飄々とした訳文も愉しかった。
 中学生の時入手した新美南吉の『牛をつないだ椿の木』は、大人になってからその比類のない美しい世界に気づいた。
 そんな風にして読書の愉しみを培って行った。
 とにかく活字さえ追っていれば、私を悩ましてやまなかった耳鳴りを忘れさせ、集中性も持続し、退屈しなかった。
 読書は最も前頭葉を鍛え、生き甲斐ももたらすことを知ったのはいつだったのか。
 30代になって『リーダーズ・ダイジェスト』の英文に取り組み、リズム感のある文章の翻訳に手を出し苦闘した時に最上の歓びを味わった。
 すべての対象を批判的に読むようになるのはずいぶん後のことである。
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あのころ私は

2022年01月08日 | 日記
 気がついたらテレビドラマばかり観ています。特に韓国・中国製が字幕もついて面白いのです。更にNHKの洋画も見逃せなくて、という毎日。
 でもなにか虚しいです。
 昨日ふと昔購入した英文雑誌をとりあげたら、衰えたと思っていた読解力が健在なので、ページをおけなくなりました。
 英語と言えば私は、会話はからきしダメなので、読むだけです。
 その読解力は10代から沢山の時間と執念をかけて獲得したもので、やっと50代になって英文読みの面白さを知ったのです。それは私にとってかけがえのない体験でした。
 一体読書でも外国語を読むということは、私には特別の根気と集中力を求められます。そうして読んだあとの充実感が捨てがたいですね。
 今の老眼鏡で細かい字が読めるのが有り難いと思わなくては。コンサイス英和辞典の文字はもっと細かいので、40年ほど前に妻が市中の眼鏡店で買って来てくれたニコンの拡大レンズが役に立っています。
 
 昔書いた物を読み返したりして、あのころの私は、確かに人生にひたむきになれるほどの歓びを持っていたなあ、と思います。
 今はなにもかも退化してしまった私という現実を見つめながら、残された時間でその歓びをもう一度手にしたいものだと思っています。
 
 
 
 
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