キリスト者は「もう聖い」と書いてある。
条件が付いていないから、神ご自身が刈り込みをされるのである。お任せしておればよい。
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。(ヨハネ15:1~3)
初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。(ローマ11:16)
家族も聖い。みことばは無条件であるから安心して良いのである。
なぜなら、信者でない夫は妻(信者)によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。(Ⅱコリント7:14)
人はあれこれと条件を付け加えて判断をする。見かけで選別し葛藤する。
しかし、イエスさまさえ人は誰もその聖さに気づかずに、好き勝手なことを言ったのだ。
すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」(使徒10:15)
キリスト者の聖さは、「神がきよめたもの」だからである。この土台の上にしっかり根を下ろし、サタンの嘘に動じてはならない。私たちが問われているのは「何を信じているのか」ということである。
「平安があなががたにあるように。」イエス・キリスト
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