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石ころ

「見ぃつけた!」



夕食の時に主人が、アルバイトをしている製材所であったことを話してくれた。
製材所のご主人が、ずらっと逆さに立てて並んでいる竹箒を指して「ちょっと、見て」と言われた。
注意して見ると一本の竹箒の先に巣があり、小鳥がうずくまっているようすが見えたという。ご主人に気をつけてやってと頼まれた。

大きな音を立てて機械が動き、木を激しく動かしているその間で子育てとは・・。
でも、その鳥のもくろみは完全に成功している。人間をあっさりと味方に付けて、蛇やカラスからも完全に守られており、風雨にさらされることもない。

確かに、彼らは弱々しそうでも結構したたかに人を見分けている。耕耘機の後を追いかけてご馳走にありついていても、野良着でない人間には警戒して素早く逃げるのだから・・。
弱い鳥の生きる方法は見分けること。選択することなのだろう。
雛が生まれて、無事に巣立ちができるのかと主人は気遣っている・・。


私も守りの主を見分けた!でも・・本当は少し違うことも分かっている。始めに主が私を見つけて下さったこと。その導きに応答しただけなんだってこと。
そうして今は、イエスさまの守りの中に抜け目なく身を寄せて、世の嵐にも高みの見物をしている。

そんなキリスト者同士の交わりの中で交わす言葉は、「私と共に居て下さるイエスさま」のこと。
「聞いて聞いて!あのね、イエスさまがね・・」言葉は違ってもそんなふう・・。

それは、聖書を読み、メッセージで聞いて蓄えて来たみことばが、リアルに生活の中で実現し、生きて私に働いてくださったということ。
そんな顛末を話したり、聞いたりして盛り上がっていると、時が経つのを忘れてしまう。

聞いては同じように主を味わい、話す私も主を分かち合う。そこにある完全な一致は、みことばが真実であるという喜び。
それは賢い人のようでもなく、悟りのある者のようでもなく、ただ、主によって生きている者に咲いた小さな華のひとひらが、交わりの中でイエスさまに捧げるブーケになってゆく時。

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