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石ころ

いちじく (マルコ11章から)

 イエス様は空腹を覚えて、いちじくの木に実を探されたけれど実は成っていなかった。5千人以上の人々にパンを与えられたお方が、空腹を知って居られたことに親しみと感謝を感じる。ご自身のためには40日40夜の断食の後でも、1個のパンも用意されなかった。

 イエス様はご自分のためには奇跡はなさらないから、私たちがたわわに実を付けたいちじくを準備できるならなんと嬉しいことだろう。でも、「今はまだ実の成る季節じゃないから・・」とこの世の時の流れに身を任せていては、イエス様の必要に応えることは出来ない。

 私にはイエス様の必要がいつか分からないから、いつも実をつけているために、主につながっていなければならないんだ。「絶えず祈りなさい。」と言われる。それはきっと言葉にもならない息のような祈りだと思うけれど、主にある交わりの中にいるそんな生き方。

イエス様は「神を信じなさい。」と言われた。「信仰」それは真剣に積極的に、心で疑わず主を求めているということ、いつも主に渇いているということ。律法学者たちはついにイエス様の権威を認めることはなかったけれど、素直に主を認めることが出来ることはなんと感謝だろう。

真っ直ぐな信仰は奇跡の実を結ぶことも出来る。奇跡の実は私たちの必要を満たす前にイエス様の必要を満たすものなんだ。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

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