「私には何も伝えられません。」と祈る。「わたしがする。」と主は言われる。だから、準備をしていたプリントを印刷して出かけた。
やはり十字架、マタイ27章から。
彼女は、「昨日、とっても忙しくて、もう、くたくたに疲れてしまった。明日、来てくれはるのに起きられるかと心配で、寝る前にちゃんとこうして座ってお祈りをして7時頃に床に入った。そうしたら、今朝は何事も無かったみたいに起きられたよ。感謝やね。」と言われる。
聞く人を、主が備えて下さっているんだと思った。聞きたいという彼女の願いを、主を知りたいという彼女を、主が守っていて下さる。主が喜んでいて下さると嬉しかった。でも、なぜか主を語ること、聞くことにはしんどさがつきまとう。人は、本当は主のことを聞きたくもなく、語りたくもないのだろうか・・。
「どうして、神様は可愛い子どものイエス様をこんなふうに十字架にかけたの?」
「私たちを救う方法が他にはないから。自分に全く罪のない完全な人だけが、人の罪を負うことが出来る、だから、罪のないイエス様がマリヤのお腹に来てくださって、私たちと同じ人としてこの世で成長してくださった。
でも、イエス様が十字架で全人類の罪、私の罪、あなたの罪を負われた時、神様は父と子の関係を断ち切って、罪人となったイエス様を捨てなければならなかった。このことは、神様とイエス様のご計画。それほどに私たちを愛しておられたから。
罪を赦し救って、今のあなたのように喜んで、いつも祈って感謝して神様と共におらせるために。そして、永遠のいのちを与えて天の御国に迎え入れるために。」
そんなことを話ししつつ交わった。彼女からは相変わらず、喜びと感謝がいっぱいあふれてくる。主が彼女を喜ばせておられるのだと思った。
「イエス様を十字架につけた人たちはみんな地獄におちたんやろうね。」
「いや、それはわからない。イエス様は十字架で彼らを赦すお祈りをされたから。」
「それは、すごいことや。そんなことは人間には絶対にできない。やっぱり神様やね。」
彼女が十字架に感動されたら私も感動をする。ちょっとしんどく始まったときも、主を共にわかちあう交わりには、いつも新鮮な感動があり、確かに主の臨在がある。
「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」(ルカ23:34)
コメント一覧
石ころ
イチゴ
石ころ
イチゴ
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事