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石ころ

御声を聞くならば

イエスさまは、ユダに「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」と、これ以上ない厳しいことばで叱責された。
この言葉を読んだときは、ユダはもう後戻り出来ない罪の道に居ると思ったけれど、しかし、イエスさまは最後に「友よ。」と呼びかけて居られる。

人の言葉には偽りもあるけれど、イエスさまには偽りがないのだから、主は本心でご自分を売るような、生まれてこなかった方が良かったユダに向かって、そのように呼びかけられたということ。

此処にとてつもないイエスさまの愛の大きさ、深さを感じる。
それは、私たちがどんなにか大きな罪を犯し、取り返しが付かないと思えるような時でも、厳しいみことばが心に突き刺さりもう駄目と思うような時でも、実はイエスさまの愛の中に居るのだ。

イエスさまを売り渡し、そのことを突きつけられてもなをとぼけてしまうようなユダの罪でさえ、イエスさまはなを赦そうとして「友よ。何のために来たのですか。」と話しかけて下さる。

ユダに向かって呼びかけられた言葉はそのまま、私たちが罪のどん底に落ちたときのためにも取って置かれていることばなのだと思う。
「何のために来たのか、あなたはこんなところで何をしているのか、さあ、悔い改めて自分の居るべき場所に戻りなさい。わたしはあなたのために、これから場所を備えに行くのだから。」と・・

私たちを滅びに追いやるのは主ではない。私たちの頑さなのだろう。

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:15)

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