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石ころ

蝶のように

昔、小学生の息子と一緒にあげは蝶の観察をしたことがある。私はいつしか息子よりも夢中になってしまった。
それまで見ただけでゾッとした芋虫も、あげはの美しい姿を見てからは、その緑色の体のひやりとするのを楽しんでつまんでみたり、頭から角のような突起を出すようすを試してからかったりも出来るようになった。

毎日の食草を計量しており、さなぎ直前の大量に貪る様子をみて、明日はさなぎになるだろうとわかるようになったりもした。
幼虫といえどもそれなりに知恵はあり、葉の裏に隠れたり、角を出して威嚇したり、強烈な臭いを出したりして身を守る。その臭いは、食草が柑橘系なので私には威嚇にはならなかったけれど・・。

さなぎになるときは今までの住み家である食草を離れ、とんでもない所に行ってひっそりとさなぎになる。それはかなり目立ちにくい場所である事が多く、庭を探して結局見つけられないこともあった。でも、幼虫自身の知恵は此処まで。

幼虫にとってさなぎはひとつの死。もう、自分で身を守ることは出来ない。知恵を働かせることも、逃げることも出来なくなる。後は造り主である神様のプログラムの遂行のみとなる。
さなぎの敵は寄生蜂、卵を産み付けられると必ず死ぬ。しかし、寄生蜂が止まっていてもさなぎには何も出来ない。さなぎは何もしない。

蝶は死を経たことで、神様のプログラムは恐れるものではないことを知っていると思う。だからその自由さは良き方に身を任せてのことなのだろう。蝶の華麗な羽はその時に神様が着せてくださった衣装。

虫なら神様の意志によってすべては流れてゆくけれど、
主は人に自由意志を与えられた。さなぎになる覚悟は自分自身で選び取らなければならないのだと思う。

「主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。」

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