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石ころ

捧げもの

「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」(ヘブル4:11)
安息に入るのに尽くす力とは・・と昨日から思いを巡らせていた。

「彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」(ヘブル3:19)
それは、力を尽くして信仰を・・ということなのだろう。しかし、所詮私たちの信仰は不完全なもの、完全な信仰はキリストの信仰のみ。
それでも、このように命じられているのだから、私の力を尽くす余地があるはず。

 
「主の前には、何も持たずに出てはならない。」(申命記16:16)このみことばが、浮かんでくる。律法だけれど、今もこのことば生きていると思う。
今、主の前に持って行くものとは何だろう。今、望まれる捧げ物とは何だろう・・。


御前に出るときの信仰は「必ず望みの通りになると強く信じる。」そんなこととは違う。それは単なる願望の押しつけ。此処に主のみこころなんて何もないから。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)

私の不信仰が主によって取りあつかわれる。光の下にさらけ出され、しかも、そのことが観衆の前で行われる。十字架のキリストのようにさらされる。
その惨めさと敗北の中で死んだようになって、ただ十字架に居るその私こそが、捧げものなのだと気づいた。その時にこそ、主が私に勝利をとってくださり安息を賜るのだと・・。
そのことに甘んじることこそが、主の望まれる捧げ物なのではないだろうか。

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