石ころ

キリストの身丈にまで達する信仰を求めて

 

「わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル33:11)

 

 神抜きの正義は罪である。如何なる理由があろうとも、人は「先立つみことば」の正義を求めなければならない。
サタンは肉を刺激して正義を焚きつける。戦争はいつもそのようにして始まる。「悪の限りを尽くそう」と戦争を始める国はなく、みな自分たちの正義を翳す。
神抜きの正義は悪魔の罠であり、彼らは巧みに物事の本質をすり替えて、信頼するべき神の正義から目を背けさせる。

 

不信仰な場に集まって結束することは、信仰によって集まることよりもはるかに易しくその結束は堅い。其処ではキリスト信仰を持ち込む者は無く、感情の赴くままにあらゆる理屈を用いて、自らの正義のために知恵と力を注ぐのである。その喧騒の中では、聖霊の細い御声は誰の耳にも届かない。

不信仰は生まれたままの姿で、互いに足りないものを数えて慰め合うばかりで、神の子とされた光栄を語ることはなく、救いの恵みを分かち合う喜びの声もない。

 

キリストによって罪を贖われ、驚くばかりの神の御愛を味わった者が、みことばに従順して働くことを願うのは、自分自身のことをすっかり忘れているからである。ただ、主の御愛が嬉しくてお役に立ちたいのである。

その時、それぞれが主に聴きつつ、キリストの平安の中で互いのたまものの不足を満たし合い、御声の聴き間違いなどを指摘して健やかな信仰を見張り、共に成長して行くことを願うのである。

彼らは神の御子キリストの命をたまわって罪から解放され、永遠の祝福に救われたことに何時も感動しているのである。

 

私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(エペソ4:13)


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