石ころ

傷のないもの(申命記17章)

 

 悪性の欠陥のある牛や羊は、いかなるものでも、あなたの神、主にいけにえとして屠ってはならない。それは、あなたの神、主が忌み嫌われるものだからである。(1)

 

体に欠陥や傷があるものを捧げることは神が忌み嫌われるとある。欠陥に悪性とか良性とかあるのだろうか・・。
もし、体の障害を神が嫌われるということなら、それは神のご性質と矛盾するのである。

 

 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(ヨハネ9:3)

 

弟子が「彼が盲目なのは誰の罪によることですか」とイエスに問うた時、イエスはこのように話して彼の目を癒やされた。盲人に神のわざが現れ、彼の欠陥はキリストが神であることを証ししたのである。

 

 神が忌み嫌われる捧げものは、不完全なキリストを現わすものである。キリストは完全に罪の無い、聖なる捧げものでなければならないからである。

 

すべての人類の罪をあがなって、神の御前に聖いと認められた完璧なあがないは、御救いを告白する者の、過去、現在、未来の罪が赦され、神の子とされ滅びることの無いいのちを得て、神のみこころがなるためである。

 

それゆえキリストの形である捧げもの、牛や羊に欠陥があってはならないのであるが、勿論それはキリストには比べるべきもない不完全な捧げものであり、キリストが来られるまで繰り返し捧げられた。

 

 アダムによって人に罪が入って以来、神が創造された完全を失った体や魂は傷ものとなり、神のかたちである霊は仮死状態になった。
キリストが十字架に死んで罪があがなわれ、墓から三日目によみがえられたことにより、これらのキリストの御わざを信じた者は、キリストに在る者も新しいいのちを得て、霊は復活して人は神の交わりに入れられたのである。

 

その交わりの中で、人は初めて神の義と愛を少しずつ悟るようになるのである。
罪の告白を繰り返してもそれにどれほどの真実があろう。人は罪を認識していないことのほうが多いのだ。どうして神に認められる悔い改めができるだろう。

 

どんなに熱心に自分を見つめても、神の聖さを知らなければ神に通用する悔い改めには至らない。人の義は互いに責め合って「・・よりはマシ」という物差しで測るものでしかないのである。

 

 キリストの十字架の完全な贖いを信じて罪を赦された者は、キリストの中に移されて主に身を寄せる此処がいのちの居場所となる。


そこはキリストの十字架の血潮が覆っている所で、キリストの完全のゆえに自分のうちを覗き込むことはない。御救いに浸って安息しているからである。どうして、この満足と平安の中でなを罪を犯す必要があるだろう。主の命懸けの愛に包まれて誰を妬む必要があるだろう。

 

古いからだが世に出入りして受ける傷や痛みも、絶えざる交わりの中で聖と認められつつ、完全な霊のからだをたまわるまで守っていてくださる。すべては主のご真実によることである。
キリストのうちに在ることだけが完全な悔い改めであり、此処に絶えざる祈りが完成するのである。


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