石ころ

安息の年(レビ記25章)

 

主はシナイ山でモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。(1~2)

 

これから先住民の住む地に入って行くと言う時に、主が民に命じられたことは、なんと安息することであった。如何に戦うかでは無く、敵を知ることでもなく、よく働いて地所を広げよでも無く、主の命令に従って休むことであった。

 

このことはキリスト者の人生にも同じである。キリスト者ゆえの戦いがあり、計画が行き詰って思い煩う事もある。
しかし、キリスト者には先立つ聖霊の火がみことばを指し示し、雲の柱が主の臨在を思い出させ、わたしに安息せよと命じてくださる。

 

正しい人の行く道は平らです。あなたは正しい人の道をならし、平らにされます。(イザヤ26:7)

正しい人とは、みことばに信頼する者であり、主の平安に留まる者である。みことばには、従うことによる祝福が保証されている。主はご真実なお方であるから。

 

すべて安息の命令は「主の恵み」である。神を覚えて手のわざを止め、主に信頼して安らぐことは、何よりの信仰による捧げものである。

それは神のために自分の時を犠牲にするわけではなく、主の恵みを味わうときであり、近しくいてくださる主と交わる恵みの時である。困難を主に申し上げてみことばを頂き、平安をたまわる時である。

 

六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。
七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。(3~4)

 

刈り尽くしていない状態で耕作地を休ませることは、地を豊かに回復させるといわれている。


しかし安息の年の命令は、主のみことばを第一にして従順することにある、神と人の信頼関係における交わりのためであり、人はその一年間主が準備してくださった食卓によって、養われていることを経験するのである。

 

あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。(詩篇127:2)

 

主は人が塵に過ぎないことをご存じであり、すべての必要を満たすために「静まってわたしを知れ」と時を備えてくださったのである。主を知ることほど重要な課題は、人生には他にないのだ。

 

罪を犯して神から離れて以来、人は養い主を見失った不安から、明日の保証を得るために諸々の奴隷となって行くのである。

神は人を奴隷として造られたのではなく、神の子として共に喜び、楽しみ、安息して生きる者として造られた。

それゆえ父なる神の元に戻って来るようにと、キリストを遣わせてくださったのである。
人が創造の初めの人のままに主に信頼して安らぎ、霊も魂も満ち足りて生きるためである。


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